「くそ! こんな時に」
アトラクは長い髪を振り乱して、近くにあった廃材を蹴った。
片手の手首に掌ほどの大きさの蜘蛛が張り付いて糸を吐き出している。その糸はそのままプラムの右手首へと繋がっていた。手錠のように糸が絡まっている。アトラクのもう片方の手首からは血が滴っていた。赤い血が、乾いた地面へと吸い込まれて濁った染みを作り出す。
その染みが一瞬にして広がったかと思うと、アトラクとプラムを飲み込めるほどの円を形作った。円の内側に菱形が配され、三日月の紋様が最後に刻み込まれる。赤い血でできた魔法陣は紫色に輝き、アトラクとプラムの姿を消した。だが、その場所から五〇マルティールと離れていない場所の地面に同じ魔法陣が刻み込まれたかと思うと、そこからかさぶたに覆われた二つの影がぬっと現われた。かさぶたが弾けて、長身のアトラクと蜘蛛の糸で繋がれたプラムの姿が露になる。アトラクは息を荒らげながら舌打ちをした。
「即席では、やはり遠くへは行けないか」
アトラクは自分の血を触媒にして移動用魔法陣を作り出しているのだ。だが、アトラクの魔術の大前提は本来、〝傷〟である。傷のあるところならば魔力の続く限りどこまでも行けるのだが、今は標的となる傷がない。傷がなくては本来の効力を発揮できない。アトラクの魔力では一〇〇マルティールの移動が精一杯だった。加えて自分よりも魔力の高い相手を拘束しているとはいえ移動させるのである。これでは五〇マルティールも移動できない。
確実に魔力は減っている。落ち着け、とアトラクは自身に言い聞かせる。次の移動のために空気中の魔力を吸い取る。傷口があれば、そこから魔力を吸い取ることができた。空気中に含まれる魔力は微少だがないよりはマシだ。アトラクは振り返る。移動用魔法陣を逆探知されたのを感じ取って、使い魔を残し拠点を捨てた。タルトとプラムが揃えば確実にやられると思ったからである。三分程しか経っていないが、その間に五回は移動した。息を整えつつ、アトラクは乾いた笑みを口元に浮かべる。今いる場所から拠点までの距離は目測で二五〇マルティール。ぎりぎり効果範囲外のはずだ。
「残念だったな。この勝負、わたしの勝ちだ」
にやりといやらしい笑みの形に口角を吊り上げる。プラムは項垂れたまま黙っていた。
「負けを認めたか。まぁ、いいさ。ちょうど今、わたしの使い魔がタルトとかいう娘を捕まえた。鉤爪で頚動脈を切って殺してもいいが、もっと面白い趣向がある。聞きたいか?」
プラムは答えない。アトラクは少し不気味ささえ感じたが、深い絶望の淵にあれば人はこのように黙るしかないものなのだろうと自身を納得させた。
「使い魔に食わせるのさ。これほど屈辱的な殺し方はあるまい。使い魔とは魔術師に比べれば下の下である存在。そんなものに殺されるのは魔術師としては最大の侮辱だ。食い殺すのでは芸がない。じわじわと腹の中で溶かしてやる。マイナスの娘を殺してもわたしには全く得にはならないが、お前にとってこれ以上に醜悪なものはないだろう。お前はあの娘と繋がっている。それは即ち、腹の中で殺される状況を自分で体感しているのと同じ。どうだ? 我が使い魔の腹の中は。何も見えない、茫漠とした闇に放り込まれた気持ちは?」
今、使い魔がタルトを腹の中へと放り込んだ。それを確かに感知できる。アトラクはプラムの手首と繋がっている糸を引っ張った。プラムの肩が傾ぎ、俯いたまま何も言葉を発しようとしない。防御魔術が効いてきたのか、それともあまりの絶望に声も出なくなってしまったか。両方か、とアトラクは感じていた。魔術師には肉体の苦痛はあまり意味がない。普通の人間でも継続して同じ刺激を与えると慣れるように、魔術師も同じ魔術で攻撃したところで魔術痕を解析されて慣れられてしまえばそれまでだ。本来、魔術師には拷問など通用しないのである。身体と感覚を切り離す魔術も存在するため、肉体への苦痛は屈服へと繋がるとは限らない。
だが、精神の屈服ならば話は別だ。魔術師は精神力で魔術を行使するため、精神を一度揺さぶってやれば容易い。正常に魔術を使うことができなくなる。弱い精神で魔術を使おうとすれば反動さえ返って来る。ゆえに、魔術師は精神面の攻撃に対して注意を払うべきなのである。
だが、決して折れず消えない不屈の精神などというものは存在しない。どんな魔術師にも弱点があり、それは必ず肉体ではなく精神に現れる。プラムは今、何も言わない。人形のようだ。先程から俯いているために表情は窺えないが、屈辱に塗れた顔を敵にさらすのが嫌なのだろう。勝利の愉悦に浸りながら、アトラクはもう一度、移動魔術を使うために傷口を見やった。痛みはある。しかし、傷を司っているために、いつでも修復することができる。腕を伝って小指の先まで滴る血を地面に垂らそうとした。
その時である。
「――捉えましたわ」
プラムの口からそのような言葉が漏れ聞こえ、アトラクは振り返った。プラムは俯いたままである。気のせいか、と思ったがその安堵を打ち消すようにプラムが言葉を続けた。
「あなたの魔術は、紫色の螺旋を描いています。螺旋の両端には中央に斜めの線が入ったペンタクル。記号が螺旋を挟み込んでいる。それがあなたの魔術の形。傷のあるペンタクルは〝傷〟を示していますのね」
その言葉にアトラクは目を見開いて驚愕の色を顔に浮かべた。プラムの言葉は全て正確だったからだ。どうして自分の魔術の形を言い当てたのか。アトラクは喉の奥から声を絞り出した。
「……どうして、そのことを」
プラムが顔を上げる。冷徹な瞳でアトラクを一瞥して言った。
「あなたと同じ方法を取ったのですわ。相手の魔術痕の解析。こうやって繋がれている状態ならば、可能でしょう」
プラムが顎でアトラクの手首と自身を繋いでいる手錠の糸を示す。アトラクは顔を引きつらせながら首を振った。
「あ、ありえない。わたしにはそんなことは――」
「だから言ったのです。あなたとは格が違うと」
遮って放たれた言葉にアトラクは声を詰まらせた。それに構わずプラムが言葉を継ぐ。
「使い魔越しでもあなたの魔術を感じることができました。移動に神経を使い過ぎたようですわね。隙だらけでしたわ」
瞬間、アトラクは自身の内側にプラムの魔術を感じた。ローブの胸元を押さえる。内側に目を向けると、確かに魔術の神経へと細やかな水色の欠片が流れてきている。それがプラムの魔術だろう。防御魔術の網を縫って、いつの間にか入り込まれていた。しかし、入り込まれていたと言っても致命傷ではない。それが分かる。喉を針で突いても死なないのと同じだ。この程度では、痛みだけで何の影響もない。屈辱に塗れた顔をプラムに向けながら、アトラクは喉の奥から怨嗟の声を搾り出す。
「だが、これで何ができる。この程度ではわたしは殺せない。逆にお前はわたしの中に魔力の糸口をつけたことになる。逆探知すれば、お前の魔術の神経を焼き切ることだってできる」
プラムはアトラクの言葉に、心底呆れたとでも言うようなため息を漏らした。絶対零度の冷たさを誇る瞳が鋭利に細められる。
「あなたは、本当に三流ですわね。あなたを殺すのならばもっと強い魔術を使いますわ。でも、そうするにはこれが邪魔です」
プラムが手錠で繋がれた片手を上げる。そのはずだ。強い魔術の波長を感じたのならば、自動的に防御魔術が発動する。そうならなかったのは、本当に弱い波長の魔術しか使われなかったということだ。ならば、自分は殺されないとアトラクは確信する。胸に痛みは感じるが、それだけだ。侵入されたという事実だけでしかない。
「そうだ。それがある限り、強い魔術は使えない」
「誰が、強い魔術を使うと言いましたか? 私の目的は強い魔術であなたを殺すことではない。私の目的はあくまであなたへと気づかれずに侵入し、魔力の主導権を一時的にでも奪うことにあった。そして、もうそれは果たされましたわ」
アトラクはその時になって、自分が使い魔へと魔力供給しているはずがそこに異物が混じっていることを知覚した。背中に嫌な汗が伝い落ちるのを感じる。
「まさか、わたしの魔力の効果範囲を利用して」
「その、まさかでしてよ」
プラムが口元へとほんの僅かな笑みを浮かべる。それは悪魔の微笑だった。アトラクはようやく自分が利用されたことを悟った。拘束しているつもりが、逆にタルトへと魔力を通すラインを作ってしまっていたのだ。プラムの魔力は二〇〇マルティールしか届かない。だが、使い魔へと供給しているラインを利用するのならばその効果範囲を超えることができる。使い魔の腹に入れたことが逆に仇となった。もし喉を掻っ切っていれば、こんなことにはならなかったろうに。
「わたしの魔力供給が、いつの間にか小娘への魔力供給になっていただと……」
「決して途切れない魔力供給が自慢なのでしょう? ならば、その波に乗れば私の魔力を使い魔の中にいるタルトへと流し込める」
プラムは遠く離れた拠点へと顔を向けて、怒声にも似た言葉を吐き出した。
「いつまで眠っているのです。起きなさい、タルト!」