エイミは思わず腰が砕けかけた。
蜘蛛が反らせた身体を何度か揺らして、獲物を嚥下する。タルトが蜘蛛の口の中へと放り込まれてしまった。もう自分も食われるしかないのか。蜘蛛の眼が震えているエイミへと向けられる。蜘蛛は全身に細かく生えた毛を震わせて、前足を床へと食い込ませた。飛びかかってくる気だ。蜘蛛の口が大きく開かれる。びっしりと並んだ歯を見た途端に、身体から力が抜けていくのを感じた。エイミは後ずさる。踵に、水晶玉が当たった。水晶玉と蜘蛛を交互に見やる。タルトの言葉が脳裏で弾けた。
――逃げるな。
エイミは歯を食いしばる。ここで無抵抗に食われては、タルトの犠牲の意味がない。ぐっと拳を握り締め、エイミは奥歯を噛んだ。拳で乱暴に浮かんだ涙を拭い、水晶玉を持ち上げる。
思ったよりも軽い水晶玉を振りかぶり、エイミはやけになったように叫びながら思い切って投げた。蜘蛛の頭部へと水晶玉が当たる。だが、蜘蛛は怯みもしない。エイミは近くにある水晶玉へと駆け寄り、もう一度それを投げた。今度は眼に命中した。蜘蛛が身を仰け反らせる。効いたのか、と思っていると蜘蛛の前足が大きく振り上げられ足元の水晶玉へと打ち下ろされた。水晶玉に皹が入り、そこに封じ込められていた紫色の光が飛散した。エイミが驚いて腰を抜かす。
光は一瞬だけ部屋を照らしたが、すぐに闇に呑み込まれた。暗がりの中に蜘蛛の眼だけが爛々と輝いている。獲物を逃がすまいとしている眼だ。エイミは自分を奮い立たせようとしたが、完全に足が萎えてしまって動かない。蜘蛛が前足を自分のほうへと一歩近づける。全く動けなかった。エイミは泣きそうになったが、拳を握り締めてそれを堪えた。タルトが言っていた。決して恐怖してはならないと。
「……エイミ、泣かない。あんたなんか、怖くない」
立ち上がりかけて、エイミはよろけた。蜘蛛の足が近づく。エイミは拳で膝を殴りつけた。蜘蛛が動きを止める。エイミは立ち上がった。真っ直ぐに蜘蛛を見つめる。
――オレたちが、奴を怯えさせるんだ。
胸の内から湧き上がるタルトの言葉に背中を押されるように、エイミは一歩、踏み出した。蜘蛛がたじろいだように下がる。エイミは蜘蛛の眼を見据えて口を開いた。
「怖くない。あんたなんて、怖くない。恐れちゃ駄目。逆に、あんたを屈服させる」
エイミはなおも歩を進める。蜘蛛は徐々に後ろへと下がった。蜘蛛が怯えている。もう少しだ。エイミはもう一歩、足を踏み出そうとした時、蜘蛛が大口を開けて威嚇した。獣のような声だった。思わず悲鳴を発する。その瞬間、しまったと感じた。恐怖を覚えてしまった。それを認めた蜘蛛が、身体を仰け反らせる。全身で自分を潰すつもりだ。エイミは目を瞑って、次の瞬間に訪れるであろう痛みに身体を硬くした。
その刹那、
「――うるせぇな。プラム」
その声と共に小さな悲鳴が聞こえた。自分のものではない。エイミは薄く目を開ける。その視界に飛び込んできたのは、仰け反った蜘蛛の腹から出ている細い腕だった。腹腔を突き破って、紫色の血に塗れた手が生えている。人間の手だった。その手が捻られる。蜘蛛の声が上がった。それで先程の悲鳴が蜘蛛のものだと分かった。開いていた手を手刀に変え、蜘蛛の内側から声が響いた。
「くせぇし、うぜぇ。切り裂かせてもらうぜ」
手刀がそのまま蜘蛛の腹へと突き刺さった。蜘蛛が痛みでさらに仰け反る。手が傷口へと無理やり指を入れて、腹を下へと切った。今度は足が出てきた。次いでもう片方の手が腹の傷口を開いてゆく。蜘蛛の内側から腹を切り開いて、黒い影がぬっと現われた。エイミがその影を認めて声を上げる。
「お姉ちゃん!」
蜘蛛の腹を裂いて朱色の眼が輝きを放つ。タルトだった。タルトは猛獣のような雄叫びを上げながら、蜘蛛の腹から身を乗り出した。蜘蛛が仰向けに倒れ、足をばたつかせる。タルトは腹から這い出して、蜘蛛の血で汚れた鼻を擦った。蜘蛛から一足飛びでエイミの前へと降り立つ。エイミはタルトへと抱きついた。今まで堪えていた涙や恐怖が身体の内側から溢れ出して、止めようがなかった。
「お姉ちゃん。もう駄目かと思った。すごく、心配したんだから」
しゃくり上げながら、エイミはタルトの身体を抱き締める。タルトはエイミの身体を抱き返して、その手で優しく頭を撫でた。
「ああ。悪いな心配させて。でも、お前もすげぇよ。逃げなかったんだな。戦ったんだ。お前は強い奴だ」
その時、蜘蛛が呻き声を上げた。タルトはエイミを素早く自身の背中に隠して、振り返る。蜘蛛は口から天井へと糸を吐き出して、糸を吸い取りつつ起き上がった。蜘蛛の眼がエイミとタルトを睨みつける。タルトは鼻を鳴らして、朱色の瞳でその視線を返した。
「まだ来るってか。いいぜ、相手してやるよ」
片手で挑発するように手招く。蜘蛛は身体を揺すぶって、前足を上げてタルトへと襲いかかった。後ろ足を激しく動かし、高速ともいえる速さで近づいてきた蜘蛛の迫力にエイミは怖気づいて思わず目を瞑りそうになる。すると、タルトの声が頭上から降りかかった。
「怖がる必要はねぇ。オレが、倒す」
蜘蛛の横っ面へとタルトは目にも留まらぬ回し蹴りを繰り出した。エイミは咄嗟に薄目を開けたが、その残像すら追えなかった。蜘蛛の身体がボールのように弾んで、壁へと激突する。エイミは完全に目を開いて驚いていた。タルトが肩越しにエイミを見やって、頷いた。タルトの眼に宿る確かな意志の輝きに、エイミも強く頷いた。
タルトは蜘蛛に向かって駆け出した。床を蹴ったのとほとんど同時に、タルトの身体が宙に舞う。空中で身を捻り、タルトは高く爪先を振り上げた。首をもたげて、身を起こしかけていた蜘蛛の頭頂部にタルトの踵落としが突き刺さる。蜘蛛が痛みに喚く。タルトは両手をばねにして蜘蛛から一旦距離を取る。
タン、と音を鳴らして床に手をつき、次いで足を下ろして再加速できる体勢になった。蜘蛛が八つの眼でタルトの姿を捉えようとする前に、タルトは再び蜘蛛の懐へと入っていた。斜め下から刃のように振るわれた拳が蜘蛛を打つ。よろめいた蜘蛛の頭をタルトは掴み、あろうことか自分の頭とかち合わせた。鈍い音が響き渡り、蜘蛛がふらつく。タルトも少しよろけた。
「ちっくしょう。中身ねぇくせに石頭だな。だけどよ!」
タルトが真っ直ぐに拳を蜘蛛の眉間へと放つ。みしりと表皮に亀裂が走り、皮膚を破る。突き刺した拳をそのままに、もう一方の拳も同じ箇所へと振るった。表皮の下で両手を合わせて振り上げ、タルトは蜘蛛の額へと打ち下ろした。エイミは思わず、「すごい」と口にしていた。
これほどまでとは思わなかった。蜘蛛を完全に圧倒している。これがタルトの力なのか。
タルトが再度放った拳が蜘蛛の顎を捉える。そのまま顎を掴んで、タルトは自分の側へと引っ張り込んだ。蜘蛛の身体が浮き上がる。タルトは固く握った拳を脇に構えて叫んだ。
「これで、終わりだ! 砕け散れ!」
拳が空気の膜を割って、蜘蛛の頭部へと食い込んだ。ぴしりと打ち込まれた拳を起点として皹が入り、蜘蛛の身体を覆ってゆく。次の瞬間、その体色が黒ずんだかと思うと蜘蛛は乾燥した泥のように砕けた。紫色の光が僅かに後に残る。泥も空気へと溶けるように消えていった。タルトは拳を解いて手を振るった。振り返り、エイミへと目を向ける。タルトはエイミへと親指を立ててからガッツポーズを取った。エイミが顔を明るくして、タルトへと駆け寄る。
「お姉ちゃん。よかった、勝てて」
「馬鹿野郎。オレが負けるわけねぇだろ。あれも作戦だよ、作戦」
エイミの額へとデコピンを軽くかまして、タルトは笑った。エイミもそれにつられて笑おうとするが、それよりも緊張が解けて涙が零れ出た。
「あれ。嬉しいのに。どうして」
何度拭っても、溢れてくる涙にエイミは困ったように笑った。タルトは真剣な表情になって、エイミを抱き寄せた。
「無理すんな。泣きたい時は泣いてもいいんだ。強くあることが全て正しいことじゃない」
エイミはその言葉が胸に染み渡ると同時に、大声で泣き出してしまった。タルトはエイミの背中を優しく撫でながら、エイミが泣き止むまで抱き締めていた。
「……本当に、怖かった。怖かったよ」
「ああ。分かってる。逃げなかったんだ。立派じゃねぇか」
エイミはまだ嗚咽を漏らしながらも、タルトへと向き直った。両手で目を擦る。赤くなった鼻がつんと痛んだが、それでも笑顔を作った。
「ありがとう。お姉ちゃん」
「タルトでいい。一歳しか違わねぇんだ。呼び捨てを許してやるよ」
「うん。ありがとう、タルト」
タルトは笑顔を浮かべて、エイミの頭を撫でる。少しくすぐったい気持ちがあった。
「さて」
タルトが顔を上げて意志の宿った双眸を中空に向ける。やるべきことを覚悟した眼差しに、エイミは自然と身を強張らせた。
アトラクは手首から伸びた糸を引き寄せ、プラムの首根っこを掴んだ。プラムは鉄面皮を崩さない。それが余計に苛立たせた。
「わたしの魔力経路を使って、使い魔を殺したのか」
「何を仰っているのかしら。使い魔を殺したのはタルトでしてよ」
「黙れ!」
アトラクはプラムを突き飛ばした。プラムは無抵抗のまま地面に転がる。何の反抗もしない。それがアトラクの中の恐怖心を増幅させていた。まさか、既に逆襲の布石は打ってあるとでも言うのか。
アトラクは、「だが」と片手へと伝う血へと視線を落とす。
「時間的な制限と距離の制限があるはずだ。使い魔が死んだことで、わたしの魔力供給が断たれた。これで小娘はもう動けまい。あとは、この場所からわたしがお前と移動すれば全てが終わる」
血が地面に滴る。地面を濡らした直後、紫色の円が形成されアトラクとプラムを包み込んだ。円の内側に菱形と三日月の紋様が配される。アトラクは勝利の笑みを浮かべようとした。
その瞬間である。
「かかりましたわね」
その声を聞くと同時に、アトラクは胸元に鋭い痛みを感じた。思わず胸を押さえて呻く。移動用魔法陣の輪郭がぼやけていた。魔力を外側から制限されているのだ。いつの間に、という声を発しかけて愚問だと悟った。先程、プラムは言ったではないか。もう魔力の主導権を握られているのだ。この手錠で繋がっている限り、アトラクの魔力は全てプラムのものだ。
「くそが!」
叫んで、プラムの手から蜘蛛の糸の手錠を外そうとする。それよりも一瞬早く、プラムは呟いていた。
「――遅い」
その声で、紫色の移動用魔法陣は完全に形を失った。塗り潰すように水色の光が足元から迸り、二重の円を作り出す。線が走り、六つの頂点を持つ星の紋様を形作った。その星の中心に「MAGIA」の文字と、否定を意味する線が上に引かれる。
「……魔術師、狩り」
「――そういうこった」
アトラクの呟いた言葉を引き継ぐように放たれた声に顔を上げた瞬間、腹へと鉄球を打ち込まれたような衝撃が走った。アトラクは大きく後ろへと地面を滑る。その直前に確かに見た。
移動用魔法陣から上ってくる影を。長い黒髪をツーサイドアップにまとめた少女の姿。それが自分を蹴りつけたのだ。アトラクはまだ痛む身体を起こして、視線を向けた。水色の光が上り、闇を照らし出す。魔法陣の上に立っているのは、黒いタイトな服を身に纏った少女だった。朱色の眼が既に鋭い戦闘の光を湛えている。
「よぉ、三流魔術師。はじめましてだな」
そう言って少女は笑みを浮かべた。これから狩りを行う、壮絶な獣の笑みだった。