第十八話 戦いには常に作法を求めよ
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タルトは視界に映る相手へと睨む眼を向けた。長身痩躯の女だった。アレンの話にあった通り、紫色のローブを身に纏っている。一撃で殺すつもりで蹴りを放ったが浅かったようだ。女は苦しげに呻きながらも、まだ生きている。魔術で反射的に防御を行ったのだろう。タルトは振り返らずに、プラムへと語りかけた。
「血を落としてくれ。粘ついて少し邪魔だ」
タルトの言葉にプラムは僅かに片手を上げた。水色の光がタルトを包み込み、こびりついていた蜘蛛の血を空気中に蒸発させてゆく。プラムはタルトの身体から血が剥がれたのを見るや、すぐに手を下ろした。それを肩越しに見やったタルトが口を開く。
「随分と疲労しているじゃねぇか。オレが来ないと、まずかったんじゃねぇの?」
プラムは鼻を鳴らして、顔をぷいと逸らした。
「別に、タルトの助けなんて必要ありませんでしたわ。私一人で何とかできましたのに。あなたもここに現れるまで随分と大変だったのではなくて? 大方、私の見ていないところでは泣き喚いていたのでしょう」
「すごい。プラムお姉ちゃん、当たっているよ」
タルトにしがみついていたエイミが意外そうな声を出した。タルトは「バカ。お前」とエイミの口を手で塞いだが既にその声を聞いたプラムは自身の髪を撫でて、「やっぱり」と言った。
「そうでしたのね。予想通りですわ」
「んだと。てめーだって、ボロボロだろうが。泣いたりしたのはてめーのほうじゃねぇのか」
タルトが振り返り、プラムを指差して責め立てる。プラムは眉根を寄せて、心外だと言わんばかりの口調で返した。
「私は泣いていません。タルトと違って泣き虫じゃないので」
つんと澄ましたプラムの言葉にタルトは鼻を鳴らした。
「ウソこけ。目の端が腫れてるぜ」
その言葉に思わずプラムは目の端へと手をやりかけて、はたと気づき声を上げる。
「ウソ。ウソですわよ。その手には乗りませんわ」
「どーだか。てめー、今ちょっと目を気にしただろ。つまりは、そういうことだってわけだ」
「は、はめましたわね、タルト!」
いきり立ったプラムへとタルトは馬鹿にしたようなしまりのない笑みを浮かべて言った。
「あっ。無作法な言葉遣いだな、プラム。曲がりなりにも助けたんだぜ。礼は言ってもらいたいもんだな」
「誰が。助けたのは私です。移動魔術を上書きしてここにあなたを移動させなかったら、動けない状況に逆戻りですわよ」
「オレは助けてなんて頼んでないしー」
タルトの態度にプラムの鉄面皮が遂に崩れた。プラムはぎりりと歯軋りしながら、深く息を吐いた。タルトが「げっ」と余裕の表情を打ち消して、プラムの顔を窺う。プラムは俯いて深い呼吸を繰り返していたが、それはまるで野獣が今まさに獲物に飛びかからんとする前の準備に見えた。この状態のプラムは駄目だ、とタルトは経験則で感じた。本能の指令に従って背中を向けようとしたところを、プラムの手が肩を掴んで無理やり振り向かせる。目の奥が獣の輝きを放っていた。
「タールートー」
低い呻り声のようなものがプラムの喉の奥から絞り出される。
巨大蜘蛛を目にしても悲鳴を上げなかったタルトがそこで悲鳴を上げた。プラムは立ち上がり、逆にタルトがその場に正座させられる。プラムは指を一本立てて、「そもそもあなたはレディーとして」だの、「礼儀作法というものが」だのと捲くし立てる。タルトは縮こまって項垂れた。その間をエイミが困ったように二人を眺めている。タルトはますます小さくなった。プラムはタルトの首根っこを掴み、
「聞いているのですか、タルト。まだ説教は終わっていませんわ」
「まだあんのかよー。もういいっての」
「よくありませんわ。大体、タルトは感謝の心というものが――」
「もう、やめてー!」
遮って放たれた大声にタルトとプラムが目を剥いて声の方向に視線を向けた。エイミがタルトとプラムへと声を張り上げて言った。
「喧嘩しないで。ようやく、会えたんだから」
エイミの言葉に、タルトとプラムは視線を交し合うと、俄かに笑い始めた。二人同時にである。エイミは困惑して二人へと交互に言葉を向ける。
「え? え? どういうこと? どうして笑うの? タルト、何で? プラムお姉ちゃんもぉ」
少し泣きそうな声になったエイミへとタルトは頭に手を添えて撫でた。だが、まだ顔は笑ったままである。
「いやまー、なんつーかさ。いい奴だな、ホント、お前は」
エイミが言葉の意味をはかりかねて目をぱちくりとさせていると、プラムは大きなため息をついて呼吸を落ち着かせ、「まったくですわ」と口にした。
「タルトも見習ってもらわないと。困りますわよ」
「ああ。悪い悪い」
先程までの剣幕が嘘のように晴れた二人は揃って顔を見合わせると、また笑い始めた。エイミは何故だか突然恥ずかしくなり、「もう!」と少し怒った声を出した。
「二人とも笑わないでよ。エイミはただ――」
その言葉尻はタルトの身体に咄嗟に引っ張られて遮られた。直後、エイミの頭があった空間を何かが空気を捻り込みながら通過していった。エイミはタルトの肩越しにこちらへと杖の先端を向けている女の姿を見た。
かさぶたでできた杖が鉤爪のように水晶玉をくわえ込んでいる。水晶玉が紫色に光っており、先程の攻撃はそこから放たれたのだと知れた。女は肩を震わせて、怒りで濁った声を絞り出す。
「ふざけるなよ、お前ら。わたしを侮辱するつもりか!」
老婆のようにしゃがれたその声は怨嗟の響きとなって闇の中を駆け抜けた。エイミの耳にそれが突き刺さる。身体の表面を何十匹もの虫が這ってゆくような感覚に陥り、エイミは肌が粟立った。
タルトがエイミの耳元へと「それは気のせいだ」と言葉をかけてくれなかったら、エイミは卒倒していただろう。タルトはエイミへと下がるように手で制した。エイミが不安げな眼をタルトに向けている。タルトは肩越しに振り返って、「だーいじょうぶだって」と明るい声を出した。
「やられやしねぇよ。だから、少しだけ待っててくれ。なに、さっきと同じさ。オレが勝つ」
「タルト。忘れてもらっては困りますわよ」
プラムが一歩、タルトの傍へと歩み寄る。タルトはプラムにも視線を向けて、「そうだな」と呟いた。
「オレたちが勝つんだ。いくぜ、相棒」
「承知」
プラムが左手を宙へと差し出した。その瞬間、エイミを囲うように水色の光が足元から上った。プラムが振り返らずに言った。
「その円の内側なら、あなたは攻撃を受けないでしょう。決して、私たちの戦いが終わるまで出てはいけませんわ」
エイミは頷いた。目を凝らして足元を見ると、二重構造の光の円が高速で回転しているのが分かる。円と円の間には読めないほどびっしりと文字が刻まれている。水色の光は確かな温もりがあった。安息を与えてくれる、人の肌に近い温度。これが守ってくれている。その実感に、エイミはタルトたちに全てを任せることができた。一言だけ、
「怪我しないでね」
これから戦う戦士にはその言葉が精一杯だった。それを感じ取ったタルトは、「おう!」と強く返してエイミへとウインクした。エイミは笑いかける。タルトは再び女へと視線を戻した。その眼には戦いのために研ぎ澄まされた光が宿っている。もうエイミを気にかけていたタルトとは一線を画していた。戦闘用の精神へと一瞬で移行する。鍛え上げられた狩る者の纏う空気だった。
「プラム。あいつの名は?」
「アトラク。蜘蛛の使い魔を操るのが得意な魔術師ですわ」
「なるほど。で、オレたちとあいつ、どっちが強い?」
タルトの質問にプラムは目を閉じて、「愚問でしょう」と返した。
「私たちのほうが圧倒的に強い」
「よっしゃ!」
女――アトラクが水晶玉を二人に向ける。その瞬間、タルトは弾かれたように走り出していた。地面を蹴り、獲物へと猛進する速度はまさにしなやかな獣のようだった。タルトへと水晶玉から放たれた光弾が襲いかかる。
身を捻って皮一枚のところを駆け抜けてゆく球状の弾丸をかわしつつ、タルトは速度を緩めずにアトラクへと肉迫する。アトラクは杖をタルトの頭部に向けて振り落とした。紫色の光が筋を引いて空間に刻み込まれる。タルトは半身になってそれを避ける。同時に杖から縦に光が伸びたかと思うと、地面が抉れた。杖の物理攻撃に魔力を付加しているのだ。魔力の槌がすぐ脇の空間を破壊したのを、タルトは口笛混じりに見やって笑みを浮かべた。
「やるじゃん。でも、遅ぇ」
構えられた拳が下段からアトラクの鳩尾へと食い込んだ。アトラクの背後の空気がびりびりと震えて、一瞬後には轟音と共に弾けた。アトラクは衝撃を減殺するように地面に杖を突き立てる。杖の先から紫色の魔力が迸って制動をかける。大きく後ずさったが、やがて止まった。タルトは、「あれ?」と首を傾げながら拳を解いて手を振るった。
「加減間違えたか? もっと飛ぶはずなんだけどな」
アトラクは肩を荒立たせながら、顔を上げる。目が飛び出る寸前まで見開かれ、憎悪に塗り固められた壮絶な顔だった。唇の端から顎へと血が伝っている。それが顔の凄みを引き立たせている。タルトの拳が命中したはずの鳩尾は紫色の薄い光の膜で覆われていた。それを見てタルトがようやく理解したような声を上げる。
「ああ、そうか。咄嗟に魔力を固めて防御したのか。じゃあ、駄目だな。魔力で強化しただけの肉体じゃ」
アトラクはタルトの言葉に口角を吊り上げて応じた。
「その通りだ。ただの打撃程度では、わたしを殺すことなどできまい。加えて、お前は誤ったのだ」
「あん? 何をだよ」
アトラクが片手を開いて頭上に掲げる。その手の中で紫色の光が上がった。魔法陣だ。円とその内側に五つの頂点を持つ星型、三日月が配される。魔法陣の中心へと上塗りする光が走る。交差した線がバツ印を形成する。アトラクはその手を顔の手前へと下ろして、口元に乾いた笑みを浮かべた。
「これが何だか、分かるか?」
「知らねぇし、興味もねぇ。それで一発逆転できるとでも言いたいのか?」
「マイナスの娘に説いても無駄だろうが、この魔法陣はわたしが長きに渡り研究し、完成させた使い魔を誰よりも高度に使役できる魔法陣だ。誤ったと言ったのはこれのことだ、小娘。わたしに、これを出させるとは」
「能書きはいいっての。さっさとしやがれ」
アトラクは鼻を鳴らし、
「後悔するなよ!」
魔法陣の浮かんだ手をそのまま顔へと押し付けた。その行動にはタルトも思わず息を呑んだ。アトラクの顔を分解した魔法陣が覆い、末端神経のように数本の筋を浮き立たせて妖しく光る。続いてアトラクの顔を紫色の霧が囲う。地鳴りのような呻り声がアトラクの喉の奥から漏れた。開かれた口からどす黒い泥が吐き出されたかと思うと、泥はすぐさま蒸発して霧と一体化する。霧と泥が混じり合い、元々生気の薄かった顔を完全に隠した。霧が晴れる。
そこにあったのは真っ黒い仮面だった。額から顎までを紫色に光る小さな文字が刻まれた仮面を被っている。口元だけが露出していたが、黒と対比すると生きているということが冗談だと思えるような白さだった。加えて唇に添えられた紫色の紅が際立っている。
タルトが固唾を呑んで見ていると、仮面に三つの筋が入った。両目の部分と額に縦に刻まれた筋がカッと開かれ、球形の眼球模様が現れた。その眼も紫色に光っている。三つの眼は人の形に付随するものにしては異質すぎて、まるで昆虫の眼を無理やり人間に当て嵌めたようだった。
紫色の眼が爛々と輝き、タルトを見据える。
その瞬間、ぞわりと総毛立つのを感じた。同時に首根っこを引っ掴まれた感触に襲われて、タルトは首筋に手を添えた。息ができない。気道が徐々に狭められている。水を掻くように片手を宙へと彷徨わせて、酸素を求めて口を開く。視界の中に映るアトラクの三つの眼の中心にある瞳孔が細くなっているのが見えた。
「プ、ラム!」
その声に水色の光がタルトの体表を電流のように走った。首筋から圧迫感が消え、タルトはむせ込んだ。後方からプラムの声が聞こえる。
「気をつけなさい。邪眼ですわよ」
「……早く言えっての。なるほどね。それがあんたの切り札か」
「切り札。まさか。これは生まれ持った魔術だよ。切り札はまだ出しちゃいない。まずは小手調べだ」
アトラクが口元を歪めて、杖で地面を突いた。その瞬間、アトラクの周囲に六つの魔法陣が現れた。円と五つの頂点を持つ星型、中心に三日月の紋様がある。今までと違うのは円の外側を高速で回転している文字群の存在だ。文字の速度が速くなると、光が集束されたように輝きを増す。タルトは地面を蹴って後方に退いた。アトラクは鼻を鳴らした。
「一旦距離を取るか。マイナスにしては賢明だ。無理もない。先程までのような距離では、お前は食い殺されるだろうからな」
六つの魔法陣から光の糸が放出される。それが固まって球状になったかと思うと、一挙に弾けた。粒子が空中へと吸い込まれてゆく。
そこにいたのは黒々とした巨大な蜘蛛だった。タルトが先程戦った蜘蛛とほとんど同等の大きさの蜘蛛である。しかも、それが六体同時に存在している。エイミが護法の魔法陣の中で短く悲鳴を上げた。それに気づいたアトラクがにやりといやらしい笑みを浮かべた。
「マイナスと魔術師を先に食っても構わないが、極上の料理は最後まで取っておくものだ。最初は不味いものからだろう。ならば、先に死ぬのはお前か」
アトラクがゆらりと手を持ち上げて、エイミを指差した。エイミは思わず後ずさろうとする。それを「いけない」と制したのはプラムだった。
「その円から出てはなりません。本当に守れなくなります」
「……でも。でも」
エイミが首を振りながら、足を円の外側へと向けようとする。その時、タルトが叫んだ。
「動くな!」
その言葉にエイミが肩を僅かに震わせた。タルトは肩越しにエイミを見やって、朱色の瞳を向けた。
「言っただろ。オレたちが奴を怯えさせるんだ。戦いは、まだ終わっちゃいねぇ。第二ラウンドだ。それに、オレはまだ諦めるとは言ってねぇ。託してくれ。お前の命を」
タルトの強い言葉にエイミは円から外しかけた足を元に戻した。それを確認したタルトはもう一度、後方へと跳んだ。プラムの傍へと降り立つ。タルトは片手を上げて、プラムへと静かに告げた。
「プラム。やるぞ」
「分かっていますわ」
プラムが差し出した左手の中指を他の指をよりも立てる。エイミは、その指から微かな光が闇の中に浮かび上がったのを見た気がしたがそれはすぐに消えた。代わりにプラムの声が響く。
「タルト。フェイズ2」
「開放」
その言葉と共に手を開く。すると、掌から朱色の粒子が放たれ、帯となって空間に刻み込まれてゆく。両端へと伸びた光の帯は自身の欠落を埋めるように回転して棒状の物体を構築する。片側は平べったいへらのようなものがついている。エイミは目を見開いてそれを見ていた。今朝方、タルトが見せたものと同じだ。朱色の光の粒子で構成された櫂だった。タルトは櫂を掴むと、手首を捻って一回転させアトラクへと櫂の先端を向けた。
「さぁ、オレたちもお前と同じように新しい武器を出してやったぜ。ただ、これは序の口だ。小手調べだよ。分かるか?」
タルトは口元に笑みを浮かべる。まだ余裕のある笑みだった。アトラクは忌々しげに口を開いた。
「戯れ言を!」
仮面に刻まれた文字が光り輝くと同時に、六体の蜘蛛の眼も血が通ったように光った。あの仮面がアトラクの魔力を底上げしているのだろう。魔道具か、とタルトは当たりをつけた。六体の蜘蛛がタルトへと向かってくる。鋭利に尖った前足で地面を削り、後ろ足を激しく動かして前進する。六体ともが同じ動きを同時にするものだから、タルトは「うへぇ」と吐きそうな顔をした。
「きめぇな。片付けてやるよ、雑魚共」
くるりと一回転させて櫂を短く持ち、駆け出す。前に出てきた一体の蜘蛛の眉間へと、タルトは臆すことなく槍のように先端を向けた。猪突してきた蜘蛛の八つの眼の中間に櫂が突き刺さる。
タルトは両手で櫂を深々と突き刺した瞬間、地面を強く蹴りつけた。突き刺さった部分を支点として、タルトの身体が宙で回転し蜘蛛の背後へと降り立った。刺さっていた櫂を引き抜き、血を払う。直後、蜘蛛の傷口から血が迸った。紫色の血だ。
間髪いれずに次の二体が襲いかかる。前足がかかると思われた瞬間、タルトは櫂を長く持ち、斧のように振り回した。打たれた蜘蛛の身体が浮き上がる。タルトは頭上に掲げた櫂をそのまま真っ直ぐ突き上げる。
櫂の先端がずぶりと落ちてきた蜘蛛の身体を貫いた。もう一体が落ちてくる。蜘蛛が刺さったままの櫂を振るい、タルトは空中で落ちてくる蜘蛛を射線に捉えた。櫂に突き刺さっていた蜘蛛も外れて、もつれ合いながら二体の蜘蛛が飛んでゆく。それが向かってくる三体の蜘蛛の群れへと突っ込んだ。うち一体が衝突して押し潰される。前足が引っかかって千切れたらしく、蜘蛛の脳天に突き刺さっていた。仰け反った蜘蛛の後ろへと前足を片方失った蜘蛛が転がり落ちる。
他の二体は二手に分かれた。双方、長大な弧を描きながら、タルトへと一目散に駆けて来る。挟み撃ちにするつもりであることは明白だった。片方の一体が甲高い鳴き声を上げる。タルトは舌打ちを漏らした。
「めんどくせぇ、な」
鳴き声を上げたほうに背を向けて、タルトは反対側の蜘蛛へと走り出す。
「挑発に乗らないか」
アトラクの言葉に、タルトは「チョウハツぅ?」と素っ頓狂な声を上げた。タルトが真っ直ぐに放った櫂が刃の鋭さを持って、蜘蛛の前足へと刺さりそのまま切り上げる。蜘蛛が金切り声を上げた。タルトが顔をしかめて、振り上げた櫂を蜘蛛の頭部へと打ち下ろす。
落とした姿勢をそのままに、櫂の石突きの部分を振り返らずに後方へと打ち付ける。そこには今まさにタルトへと食いかからんとしていた蜘蛛の姿があった。眉間へと石突きが食い込んでいる。前方の蜘蛛が喚き、後方の蜘蛛が後ずさる。タルトは櫂を長く両手で保持して沈ませた姿勢から薙ぐように振るった。前方の蜘蛛の下顎が切れ、後方の蜘蛛の前足が切れた。二体の蜘蛛が痛みと屈辱に叫ぶ。
タルトは前方の蜘蛛へと駆け出した。櫂を片手で握り、もう片方の手の指を刃の形にする。貫手を放つ。蜘蛛の身体はほとんど紙同然だ。槍のような鋭さを持ったタルトの一撃はそのまま蜘蛛の頭部へと深々と突き刺さった。
後方から蜘蛛が口を大きく開きながら凶暴な声を上げる。タルトは櫂をくるりと返して、穂先を後ろへと向けた。振り返り様、逆手に握った櫂で蜘蛛の額を破る。眼球が飛び出し、一直線の血が迸る。刺さっている手を引き抜いて、タルトは櫂を両手で握り、後方の蜘蛛に縦に一閃を浴びせた。朱色の衝撃波が粒子として残り、蜘蛛の身体が断ち割られて紫色の血溜りが広がってゆく。
タルトは櫂を肩に担いで、呆れたように息をついた。
「さっきのが挑発か? 安いぜ。こんなもんかよ、三流。使い魔を完璧に操るとかでかい口を叩いた割には大したことねぇな」
アトラクは歯噛みして喉の奥から声を発した。
「まだだ! この程度では」
アトラクの仮面に刻まれた文字が再度輝く。その直後、蜘蛛の死体の周囲に紫色の光の円が描かれた。タルトは思わず跳躍して後ずさる。円の中にある蜘蛛の死体へと血脈のような線が刻まれる。それと同時に何かが擦れるような音がタルトの耳に届いた。周囲を見やる。音の元はタルトの左手だった。先程、貫手を放った手についた血が、音を立てて凝固し始めているのだ。固まった血が鎖のように手に絡みつく。タルトは叫んでいた。
「プラム!」
その声にプラムが目を閉じる。水色の光がタルトの左手を包み込み、血を蒸発させる。タルトは手を閉じては開いて感触を確かめてから、周りへと目を配った。蜘蛛の傷口が激しく泡立ち、塞がってゆく。真っ二つに断ち割った蜘蛛も断面の繊維を結合し合いながら、ゆっくりと元に戻ってゆく。タルトは苦い顔をしながら、アトラクへと目を向けた。アトラクは口元を笑みの形に吊り上げていた。
「余裕はどうした? 不死の軍団が相手では分が悪いか? それとも、恐れをなしたか?」
「誰が」
タルトは地を強く蹴って走り出した。櫂を振りかぶり、アトラクへと一直線に向かう。その眼にはアトラクの仮面が映っている。紫色の文字が光る黒い仮面。あれが魔道具ならば、破壊することで魔力の供給を抑えられるはずだ。どちらにせよ、アトラクを殺さなくては何度でも使い魔は蘇るだろう。
「だったら、本体をぶち破ってやるまで!」
タルトは雄叫びを上げた。櫂を振るおうと力を込めかけた、その時。
「遅いな」
アトラクの声が耳朶を打ち、タルトは本能的に足を止めようとした。地面を少し滑って、前につんのめりそうになる。咄嗟に櫂を地面に突き刺して制動をかけた。手前でようやく立ち止まる。闇に慣れきった目ではほとんど捉えることが不可能なほどの小さな染みが一歩先にあった。タルトは後方へと後ずさる。一瞬だったが、間違いない。あれは血だった。暗闇のせいでほとんど分からないが、赤い血だ。アトラクのものであろう。タルトと蜘蛛とを戦わせている間、アトラクはただ傍観していたわけではない。自分の周囲にきちんと予防線を張っておいたのだ。アトラクは乾いた笑みを一層深くして、杖を持っていないほうの手を開いて掲げる。
「どうした? マイナスでも感じたか、我が魔力の波長を。いい勘だな。ならば、見せてやろう。お前がもう一歩、踏み込んでいたらこうなっていた」
アトラクが手をくいっと内側に向けて、その手を握った。すると、一点の血を中心として、紫色の円が波紋のように広がった。内側の地面へと小さい円が刻み込まれ、さらにその内側には三日月の紋様がある。無数に浮かんだ円が光ったかと思うと徐々に地面が沈み込んだ。やがてそれは染みのように広がり繋がって、円の内側が紡錘状に陥没した。タルトがプラムへと振り向かずに言葉を投げる。
「プラム。あの円の中は?」
「〝傷〟の魔術が強く作用しているようですわね。地面に傷をつけてその部分を抉り取る。地面だけではない。空間を切り取る魔術に酷似していますわ。あそこにタルトが踏み込んだ瞬間に起動させたなら、あなたの身体はもうないでしょうね」
「つまり、大層な落とし穴だと」
「落ちるだけならまだいいですわ。あの空間は対象を食う魔術です。射程範囲は円の上、及び半径二マルティール。円の効果が持続する時間は無制限。恐らくはアトラクが戦闘不能になるまで」
「その、立った瞬間対象の空間を食う効果って言うのは、円を作った時だけか?」
「残念だが」
アトラクは愉悦の笑みを張り付けた。
「魔術発動後しばらくは有効だ。お前との対決をわたしが無事にやり過ごすくらいの時間ならばな。再び魔術を注げば、また発動する」
「つまり、てめーの周りには近づけねぇってことか」
「ご明察、とでも言っておこうか」
タルトはアトラクの周囲へと視線を走らせる。確かに、地面には所々血の染みがある。本当に目を凝らさなければ見落としてしまいそうな小さなものだ。だが、小さくとも触れれば身体が無事では済むまい。血を中心として半径二マルティール。櫂に目をやる。タルトの射程はせいぜい二マルティールあるかないか。これではアトラクに一撃を与えることなどかなわない。魔力を注入されればそれまでなのだ。身体能力が上がっていると言っても、二マルティールを跳び越えなおかつ攻撃を加えるのは至難の技である。
がさり、と周囲で影が動く。どうやらさらに面倒になるらしい、とタルトは感じた。再生した蜘蛛が動き始めている。前足を切った蜘蛛には、魔力で結合された筋肉繊維がむき出しで半透明の足が与えられている。頭部を切り裂いた蜘蛛も、眼を抉った蜘蛛も傷口が荒々しいが縫合されている。紫色の糸だった。真っ二つにした蜘蛛も同様だ。タルトは鼻を鳴らした。
「こいつら、多分微塵切りにしてもまだ動くんだろうな」
「その通り。これで分かっただろう。お前らとわたしとの実力の差が」
「魔力が続く限り、いくらでも使い魔を使役できる。その仮面の効力か」
タルトの言葉にアトラクは仮面に指を這わせながら応じた。
「仮面はわたしの能力を底上げしているに過ぎない。邪眼も、使い魔を操る素質も、全て実力のうちだ。この距離ならば完璧な使役が可能になる。仮面はあくまでお前らの動きを捕捉しやすくするための道具さ」
タルトが櫂を握り締める。それを目ざとく察知して、アトラクが櫂を指差した。
「おっと。使い魔の相手をしつつ、わたしへとその櫂を投げて突き刺そうとしても無駄だ。三秒もあれば、空間を食う魔術を発動させわたしへの攻撃を無効化するくらいわけもない。それだけの大きさの武器を投げるのには、予備動作も必要なはず。見切れぬ道理はない」
アトラクは紫色の紅を差した薄い唇を横に引き伸ばした。額の眼がぐるぐると動く。使い魔の眼と連動しているのだろう。蜘蛛も眼を光らせて臨戦態勢に入っている。タルトは舌打ちをして俯いた。
「……これまで、か」
アトラクはタルトの言葉に意外そうな声を出した。
「諦めるか。潔いことだ。もう少し粘るとばかり思っていたのだがな。まぁ、『魔術師狩り』など所詮はその程度だということか。お前らのような小娘を寄越してきた時点で、わたしの勝利は確定したも同然だったが」
アトラクの言葉にタルトは顔の前で手を振った。
「いや、もう、これまでこれまで。本当に、嫌になるよな。――雑魚相手に手加減するのはよ」