タルトの放った言葉に、アトラクは耳を疑った。思わず、「は」という声が漏れてしまったほどだ。タルトは櫂を両肩に跨って担ぎ、一つ大きな欠伸をした。眠気の混ざった声で口を開く。
「プラム。何マルティールだ、今」
「今は四〇マルティールです。私が少し近づけば、充分、圏内で戦えますわよ」
プラムが少し歩を進める。タルトは肩越しに見やって、櫂を回転させてだらりと提げた。
「そっか。じゃあ、いっちょやるとするか」
「ええ、久しぶりに」
プラムが差し出していた左手の中指を少し持ち上げる。そこから何かが放たれているのはアトラクもエイミも分かっていた。だが、可視化されていなかったため何なのかが不明だったが、ようやく分かった。
糸だった。赤い糸が、プラムの左手中指に巻きつけられている。糸はそのままタルトの首筋へと繋がっていた。タルトが目を閉じる。プラムもそれに合わせたように瞼を閉じた。口中で何かを呟いている。プラムの中指を中心として、円が構築された。もう一つ円が広がり、円と円の間を細やかな文字が高速回転する。六つの頂点を持つ星型が内側へと刻み込まれ、中央に「MAGIA」の文字が浮かび上がった。その上に否定を意味する線が引かれる。
プラムは小さな唇で言葉を紡いだ。
「タルト。フェイズ3。開放」
その言葉の直後、タルトの周囲の空間で朱色の光が弾けて震えた。同心円状に広がった光が使い魔である蜘蛛の眼を刺激する。それは同時にアトラクの視界を潰すことに繋がった。アトラクは使い魔との接続を一旦切り、両目の部分にある紫色の眼の紋様へと魔力を集中した。額の眼の光が弱まり、両目の光が強くなる。朱色の光が乱舞し、空間を満たしていたがやがて、それは夜の闇へと溶けていった。アトラクの視界に映ったのは、光の爆心地の中央に立つ少女の姿だった。
まず目を引くのは長い耳だ。兎のようにピンと立った耳はその実、半透明の物質で構成されていた。普通の耳に被さる形で装着されているのである。首筋に朱色の首輪が嵌められていた。腕には同色の装甲が絡み付いている。先程までホットパンツだった下半身に、大きな変化が現れていた。黒と朱色の菱形で構成された物体が連なり、スカート状に覆っているのだ。まるで宝石を散りばめた最高級のドールのようだった。朱色の瞳がアトラクを射抜く光を湛える。その一睨みで、ようやくアトラクはそれがタルトであることを認識した。
「……どういうことだ。何だ、その姿は」
タルトは装飾された姿とはまるで真逆な、気だるい反応を見せた。櫂を肩に担ぐ。
「どうもこうも、これがオレらの」
「――本気、というわけですわ。と言っても、五〇マルティール圏内でしか使えない諸刃の剣。相手に姿を見せないのが基本の魔術師としては下策ですが、これを見て無事に帰った相手はいなくてよ」
言葉を引き継いだプラムが水色の絶対零度の瞳を向けている。アトラクは覚えず気圧されたようによろめいた。プラムが翳した左手を揺らめかせる。その中指から伸びた赤い糸が闇に映える。糸は首輪へと繋がっていた。タルトが足を大きく後ろに引く。
「まずは周りの蜘蛛が邪魔だな。行くぜ。目ん玉かっ開いてよく見とけ。ま、見えるかどうかは分からねぇけど、なっ!」
その言葉が消えるか消えないかの刹那。
タルトの姿はその場から消えていた。中空に浮かぶ朱色の粒子だけが、その場にタルトがいたことを物語っている。アトラクは慌てて額の眼へと魔力を通した。使い魔の眼を通せば見えるはずだ、と考えたのである。だが、その考えは大きく外れた。いや、打ち砕かれたといったほうが正しい。アトラクは使い魔の眼でタルトを捉えることができなかった。使い魔の眼に繋いだと思った直後に、プツンと繋がっていた魔力が途切れた。見えるはずの風景は黒く塗り潰されている。どうなっているのか。額へと供給していた魔力を再び、両目に戻した時、アトラクは呼吸すら忘れて驚愕した。
視界に映ったのは、紫色の血を撒き散らしているかつて蜘蛛であったと思われる肉塊だった。二、三度切った程度ではない。まさしく細切れにされていた。蜘蛛だと思われる死体は確かに六つ。それぞれ再生していたはずなのに、アトラクの指示を待つ僅かな時間に殺された。現に蜘蛛は一歩も動いていない。六体いた蜘蛛が前足一つ動かすことなく全滅した挙句、再生不可能なまで痛めつけられていた。アトラクは喉の奥で「……な、な」と掠れた声を発しながら、使い魔の亡骸を見つめる。状況がまるで理解できない。意味のある言葉を発することさえかなわず、アトラクは彷徨わせていた視線を一点に留めた。
そこには朱色の粒子を火の粉のように身に纏ったタルトが立っていた。櫂にはべっとりと紫色の血がついている。今の一瞬で、取り回しの利き辛い櫂で使い魔を全滅させたというのか。使い魔の眼にはタルトが櫂を振るう瞬間や残像さえも捉えられなかったというのに。タルトがプラムの名を呼ぶと、水色の光が櫂の先端やタルトについた返り血を洗い流した。再び結晶の内側から点火するように、朱色の装甲が煌く。
アトラクは思わず一歩、後ずさった。迫力に押されている。つまり、自分は怯えているのだと認識した瞬間、その思考が白熱化した。魔術師たるもの冷静沈着であるべきだという教えをこの時ばかりは保っていられなかった。それほどまでにアトラクは恐怖していた。水晶玉をくわえ込んだ杖をタルトへと向けて、口を開いて叫んだ。
「ふざ、けるな! わたしが、恐怖など!」
水晶玉が紫色に輝き、タルトの姿を真正面に捉える。距離はおよそ二〇マルティール。アトラクは指先から杖へと魔力を走らせた。蛇のようにのたうった魔力の波が水晶玉へと蓄積し、前面に魔法陣を描き出す。円の内側に菱形と十字の紋様がある。敵を捕捉し、確実に命中させる魔法陣だ。菱形と十字が円の内側で合わさった瞬間、紫色に光った。十字の中心にはタルトの姿がある。これで魔力の光弾が外れることはない。一度捉えた以上、命中するまで追い続ける。
「砕け散れ!」
アトラクの声と共に水晶玉から紫色の光弾が発射された。タルトは前傾姿勢になりながら、櫂を斜め上へと一閃させた。真っ二つに切り裂かれた光弾が地面を抉り取る。アトラクは乾いた笑みを深くして叫んだ。
「その程度で終わりだと思うなよ! 連射だ!」
その言葉と共に水晶玉が瞬き、矢継ぎ早に光弾が撃ち出される。タルトは櫂の先端で空気の糸を引きながら、手首で回転させて光弾を弾き落とす。それでもまだ光弾の応酬は続いた。タルトは舌打ち混じりに呟いた。
「……面倒だな。プラム、ちょっと無茶するぜ。サポート任せる」
「承知いたしましたわ」
その言葉の直後、タルトは櫂を後方に振るい、すっと片手を差し出した。何をするつもりなのか、アトラクが思う間もなく、襲ってきた光弾をタルトは素手で掴んだ。紫色の魔力が弾け、辺りが飛散粒子で焼け爛れる。連射されてきた光弾が先の光弾に連なって、タルトの眼前で激しく青白い火花が散った。アトラクは思わず連射の手を緩めていた。素手で魔力の殺傷攻撃である光弾を防ぐなどまともな人間の考えではない。
タルトの腕に巻きついている朱色の装甲が眩い輝きを放った。タルトの手首と関節部を補強するように円が構築されてゆく。見ている間に、六つの頂点を持つプラムの魔法陣が水色の光を放ってその形を崩し、タルトの腕へと纏わりついた。タルトの朱色の装甲がなおも強く光って、紫色の光弾が放つ光と重なり合い、次の瞬間全てを打ち破るような轟音が響き渡った。強い魔術同士が干渉し合い、地面が捲れ砂煙が上がった。
アトラクは杖を下ろして、呆けたように口を開いている。煙が上がっている箇所を紫色の異形の眼で見つめている。
エイミは思わず駆け出しそうになったが、タルトの言葉を思い出してその場で固唾を呑んで見守っていた。プラムは無表情を崩すことなく、タルトがいるはずの場所を真っ直ぐに見つめている。信頼を超えた、確信に近い眼差しだった。
その時、砂煙を一筋の朱色の光が切り裂いた。光は風のように唸り、砂煙を内側から弾き飛ばす。アトラクが目を見開く。タルトが振るった櫂をそのままに佇んでいた。櫂を下ろして、片手を開いたり閉じたりする。光弾を握り潰した手は、何の損傷もなかった。強く握り締めてから、ゆっくりと開くと朱色の粒子が掌から舞い上がり、塵のように空気の中に消え入った。その行方を眺めていたタルトの眼がアトラクへと向けられる。アトラクは覚えず後ずさった。
「……ありえん。ただの人間が、それもマイナスの人間が、魔術の攻撃を相殺するなど」
「ジョーシキじゃ、ありえねぇかもな。でも、オレらは確かに存在している。悪い夢じゃないぜ。これは現実だ」
タルトは櫂の先端をアトラクへと向けて、手元で半回転させた。両手でしかと握り締め、口中に呟く。
「行くぜ。悪いが加減はしてやれねぇ」
タルトが腰を落とし姿勢を沈めてアトラクを睨み据える。刹那、スカート状に展開していた菱形の物体が、一挙に背面へと移動した。タルトの腰の裏へとまるで妖精の尻尾のように菱形の物体が互い違いに密集し、それぞれから朱色の粒子を飛散させる。その粒子がタルトの背後で固まり、円形を作り出した。朱色の輪だった。その輪を上塗りするように、新たな輪が密集した菱形から放出される。輪が重なり、二重の円を作り出した直後、タルトの姿は掻き消えていた。アトラクが周囲を見渡す。混乱する脳へと冷たい水を差しこまれたような声が響いた。
「――遅ぇよ」
背後へと振り返ると、視界の隅に朱色の光が映った。アトラクの仮面の文字が煌き、魔力の波を地面の血痕へと注ぎ込む。血を中心に光が広がり、次いで穴が開いて光を呑み込んだ。
「おお、すげぇ。本当に空間切り取るのな」
余裕に満ちたタルトの声が耳元で弾けた。アトラクは振り返り様に、片手を振り翳す。視界の中にある血痕全てに魔力が流れ、紫色の光が円形となって瞬いたかと思うと空間が切り取られた。切り取られた空間には朱色の粒子が僅かに漂っていた。アトラクは肩で息をしながら、奥歯を噛み締める。まるで妖精に遊ばれているかのようだ。だが、魔力のないはずの妖精が人を惑わせられる道理はない。ならば、自分はマイナスの小娘に劣っているとでもいうのか。頭に浮かんだその考えにアトラクは首を振って叫んだ。
「ありえん! お前らなど、わたしの足元にも――」
「だから、隙だらけだぜ」
遮って放たれた声と共に衝撃が走った。アトラクは咄嗟に魔術で身体を防御したが、顔までは至らなかったようだ。仮面が半分砕け散り、アトラクは衝撃によろめいた。仰け反った半分の視界の中に、空中で身を翻したタルトの姿が映る。
タルトは片手に櫂を握り、菱形を尻尾のように形成させたまま宙に浮いていた。身体を捻って、空中で屈み込んだ。ちょうど上下が逆さまになる格好だ。普通ならば落ちるはずである。だが、タルトは落ちることがなかった。それどころか、空中に壁でもあるかのように足場にしてみせたのである。仮面の半分がタルトの魔術を捉えていた。中空へと朱色の円が刻まれており、それが壁の役割を果たしているのだ。
タルトは仮初めの足場を得て、一時的に立っているに過ぎない。それもほんの一瞬のことだった。宙を蹴りつけ、タルトはアトラクへと飛び掛った。輪を放出し、加速も得ている。アトラクは杖を振るい上げ、櫂と鍔迫り合った。紫色の魔術の光と朱色の魔術の光が干渉し合い、飛び散った魔力が地面を捲り上がらせる。だが、速度のあるタルトのほうが力は強い。後ずさろうとしたアトラクへと「いいのか?」というタルトの声が耳朶を打った。
「てめーの魔術が作動したままだぜ」
その声にアトラクは振り返った。空間を切り取る魔術が作動している。他でもない自分の手によって、先程発動させたものが残っていた。直後、背中へと焼けた鉄の板を押し付けられたような痛みが走った。電撃的な鋭さを持つ痛みに、アトラクは奥歯を噛み締めて片手の人差し指と中指だけを立てて横に振るった。血痕への魔力の供給が途切れ、空間を切り取る魔術が自然消滅する。視界の中でタルトが口元に笑みを浮かべた。
「これで、てめーを絶対防御の陣から出せた」