第二十二話 淑女ならば、旅立ちも笑顔であれ
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冷たい風が頬を切るようだ。
タルトは町の雑貨屋で買ったチェック柄のマフラーを手で頬へと押し付ける。肩を震わせると、身体の神経が縮こまったように感じられた。レンガ敷きの地面へと視線を落とすと、一匹の蟻が触覚を揺らめかせながら動いていた。仲間とはぐれたのか、迷い出てしまったように落ち着きのない動きにタルトは思わず口を開いていた。
「お前も、迷子なのかよ」
虫から答えが返って来る道理はない。当然、蟻はタルトの言葉など知る由もなく、地面の端へと向かった。レンガに隙間が開いており、その中が蟻の巣になっているようだった。穴から数匹の蟻が顔を覗かせている。タルトは憮然とした顔で息をついた。
「何だよ。いるじゃんか、仲間」
いや、家族というべきか。蟻は穴の中へと入っていった。それを見つめていると、不意に視界を茶色の扉に遮られた。扉を押して出てきたのはプラムだった。手には旅行鞄がある。片手で風になびいた銀髪をかいて、プラムは首を傾げた。
「どうしたのですの? 何だか、タルトには似つかわしくない表情ですわね」
「ほっとけよ。オレだって、たまには繊細なんだ」
「あら、珍しい。タルトの口からそんな言葉が出るなんて」
「うるせぇよ、プラム。今から行くところ考えりゃ、少しくらいは憂鬱になったっていいだろ」
タルトの言葉にプラムは顔を伏せて「そうですわね」と応じた。壁に身体を預けていたタルトが歩き出し、プラムも並んでそれに続いた。二人が向かったのは町の隅にある寂れた団地の奥だ。高い岩壁に囲まれた太陽の光が射さない場所にある家の前に二人は立っていた。足元に視線を落とすと、赤い花が二輪咲いている。親子なのだろうか、とタルトは唐突に考えた。プラムが扉を叩く。すると、奥からパタパタとスリッパを鳴らす音が聞こえた。
直後、扉が開くと痩せた女性が立っていた。メイアだった。タルトはメイアの顔を見やる。まだ完全に治りきったわけではないが、一週間でプラムの治療も相まって歩けるくらいには回復したらしい。メイアは顔を明るくさせた。まだ本調子ではないのか、掠れた声が喉から漏れた。
「あら、二人ともまた来てくれたの? 中に入って。お礼がしたいわ」
「いえ。お礼なんていいんです。あのエイミさんは」
プラムの言葉にメイアは少し顔を曇らせた。「エイミはね」と口を開く。
「あの子は、どうしちゃったのかしら。一週間も塞ぎ込むなんてなかったのに。顔の痣も治ったから、外も胸を張って歩けるはずなのに、どうしてだか分からないの。ずっとあの子と夫に面倒を見てもらって、その上あなたたちに世話になって。私は何も分からないわ。でも、あの子、ひどく落ち込んでいるみたい。夫も帰ってこないし、痣が治っても何だかすっきりしないわ」
タルトは顔を伏せた。その原因を作ったのは自分だ。そう言い出せないのがひどく卑怯に思われた。メイアは回復しようとしている。だが、エイミに顔の痣以上の傷を作って、その上希望を失わせてしまった。その罪がタルトの胸の中で重くわだかまった。プラムが尋ねる。
「痣の痕は、傷みませんか?」
「ええ、よくしてもらったから。そうだ。お茶を用意しましょう。あなたたちが来ていると知ったらエイミも出てくるかも」
メイアは奥の部屋へと駆けていこうとした。それをプラムが呼び止める。
「あ、いいんです。ただ、私たちはもうこの町を去るので、今日はお別れを言いたいと思ったのですわ」
「そうなの? 折角知り合えたのに」
メイアは悲しそうな顔をした。プラムは旅行鞄を開き、中から小瓶を取り出した。小瓶の中には紫色の液体が入っている。
「調合して作りました。一夜に一度、痣のあった場所に塗ってください。きっと一ヶ月もすれば完全に痣は消えるでしょう」
それはプラムがこの一週間、アトラクの魔術を解析して作った解毒剤だった。メイアは両手を顔の前で振った。
「そんな。よくしてもらっているのに、受け取れないわ」
「どうか、受け取ってくださいませ。それで私たちは心残りがなく次の町へと旅立てます」
メイアは逡巡するように小瓶を眺めていたが、やがてそれを受け取った。プラムは頭を下げた。
「それでは、私たちはこれで。行きましょう、タルト」
その言葉でプラムは身を翻した。タルトもその後ろに続こうとする。
「お茶くらい、飲んで行ったら?」
メイアが引き止めようとするも、プラムは首を横に振った。
「いえ。甘えると旅立てなくなります。私たちはそうやって生きてきたんです」
プラムはもう一度頭を下げると、メイアに背を向けて歩き出した。メイアはそれ以上引き止める言葉を持たずに、口を開きかけて噤んだ。プラムとタルトの姿が離れていく。メイアが扉を閉めようとした、その時、タルトが立ち止まり振り返った。メイアは扉を開いて、タルトを見つめた。タルトは俯いている。表情が読み取れずに、メイアが言葉をかけようとすると、タルトは息を吸い込んで叫んだ。
「エイミ!」
その声は路地の中に響き渡った。プラムが肩越しにタルトを見やった。メイアは目を丸くして、タルトを見た。タルトは鼻の頭を赤くして、もう一度声を張り上げた。
「オレには気の利いたことなんて言えねぇ! お前を傷つけるだけかもしれねぇし、もしかしたら何も言わないほうがいいのかもしれねぇ! でもな、一つだけ言わせてくれ、エイミ!」
タルトは顔を上げた。朱色の瞳が真っ直ぐな光を宿して、家の中を見据えた。
「お前は俯くな! 笑顔でいろ! 無理言ってるってのは分かっている。都合のいいことかもしれねぇってのも、分かって言っているつもりだ。だけどよ、太陽が翳っちゃ、誰が照らすんだよ! お前は太陽でいてくれ! そんでもって、前を向いて歩けよ! もう誰にも遠慮する必要なんてねぇんだ!」
自分と違って、日向を歩けるのだ。エイミには幸福でいて欲しい。日向を歩けることを誇りに思って欲しい。わがままかもしれないが、それがタルトの望む全てだった。一度、自分と同じ痛みを感じたのなら、その痛みをばねにしてもう一度立ち上がれ。痛みの先に、本物の幸福があるはずだから。
タルトは大きく頭を下げた。メイアが戸惑ったような顔をして会釈する。タルトは勢いよく身を翻した。プラムと共に歩き出す。メイアが遠ざかる二人の背中を眺めていると、ふと背後に気配を感じて振り返った。そこにはエイミがいた。エイミは頬に伝った涙を拭おうともせずに、一言口にした。
「分かってるよ、タルト。ありがとう」
そして、さようなら。そう付け加えてエイミは二人の背中を見送った。
元々、駅を利用する人間は少ない。経済的な理由もあるが、何よりも負い目というものがあるからだろう。沿線が町へと引かれても、利用したがらない人間もいる。一瞬のうちに住んでいた土地を離れてしまうのが嫌なのだ。家族や大切な人を置いていってしまう。帰って来られると分かっていても離れるのが辛い。それが負い目である。だから、列車があっても馬車を利用する人間や、少し経済的に余裕があるなら自動車を利用する人間もいる。
駅構内に行くとほとんど人気はなかった。プラムは切符を買って、次の列車はいつ来るのか駅長に問いかける。どうやら十分もすれば次の列車が来るらしい。プラムとタルトは切符を手渡して判を押してもらい、改札を出て駅のベンチに腰掛けた。冷たい風が駅舎を吹き抜ける。
「冬になりますわね」
プラムが呟くが、タルトは顔を上げず言葉も返そうとしなかった。プラムが横目でタルトを見やり、
「いつまでいじけているつもりですの?」
「……いじけてなんか、ねぇよ」
「下手なウソはお止めなさい。見苦しいですわよ」
「うっせぇよ」
タルトはまだ顔を上げなかった。プラムは少し視線を上に向けた。空は晴れ渡っていたが、その青さはどこか突き放すように冷たい。
「なぁ、プラム」
タルトが言葉を発した。プラムは「はい」とだけ返事をした。
「顔を上げなきゃいけねぇって分かっているのに、上げるのが億劫な時もあるんだな」
「ありますわ。だって、あなたは人間でしょう」
「そうだな。オレらは人間だ。だからさ、悲しんでいる場合じゃねぇとか、同情している場合じゃねぇとかいくら強く割り切ろうとしてもよ、割りきれぇねぇんだな」
「割り切るのがいつも正しいとは限りませんわ。答えの出ない問答もあります。答えがないことが正解なこともある」
「何だよ、ちょっと今日は優しいじゃん」
「別に」
プラムは立ち上がった。振り返り、タルトの頭上から声を降りかける。
「ただ相方が沈んでいると、こっちの気分も沈みますから。それだけですわ」
その言葉にタルトは少しだけ笑った。
「可愛くねぇのな」
「お互い様でしょう、タルト。泣くのなら見ていないところでしてくださる?」
タルトは目元を乱暴に拭い、顔を上げた。赤くなった鼻をつんと澄まして、唇を尖らせる。
「泣いて、ねぇっ!」
タルトは潤んだ瞳を御するように何度も瞬きをした。涙の筋が頬にかかる。プラムはくすりと笑った。
「そうですか。なら、結構」
「笑うなぁ!」
タルトが立ち上がり、いきり立って反発する。プラムは笑みを掻き消して水色の瞳を遠くの景色へと向けた。一条の光が瞬き、汽笛と共に列車が近づいてくる。
「また、行くことになりますわよ」
「後悔はしねぇ」
「本当に?」
「本当だって!」
タルトは声を張り上げた。プラムが肩越しにタルトを見やる。朱色の瞳に力を込めて、タルトは言葉を発した。
「お前が救い出してくれたあの日から、後悔なんて一度もしたことねぇよ」
その言葉にプラムは少し沈黙を挟んでから、振り返って笑みを浮かべる。タルトが黙り込んでいると、プラムは左手を差し出した。それとプラムの顔を交互に見ながら、「何だよ」とタルトは尋ねる。
「もう一度、尋ねますわ、タルト。あの日と同じ問い。たとえ死よりも恐ろしい道が待ち受けていても、その運命を捻じ曲げる力と共に、歩むか? それとも――」
「愚問、って奴だぜ、プラム」
タルトは左手を引っ掴み、それを自分の胸に押し当てた。プラムが少し面食らったような顔をしていると、タルトは笑みを浮かべて言い放った。
「ここが知ってる。オレは自分で歩む道を選ぶ」
タルトの言葉にプラムは「口先だけは一人前ですわね」と言ってから、その手を押し当てて「でも」と口にした。
「まだまだレディーとしては発展途上もいいところですわ。私よりもちっちゃい」
「なっ! プラム、てめー!」
タルトの怒りを意に介する様子もなく、プラムは踊るように身を返してまた笑った。列車の音が駅舎へと滑り込んでくる。
それは次の旅路への新たな足音に聞こえた。
完