「三年前だ」
禿頭の男はアレンと名乗り、語り始めた。タルトは周囲を見渡す。
高い岩壁に挟まれた細い路地だった。昇ってきた太陽でさえ照らさない日向の陰に当たる場所で二人はアレンから話を聞いていた。
「三年前、この町に一人の女が現れた。紫色のローブを纏った不気味な女だった。一夜の宿が欲しいと言っていたんだ。だが、民宿は他の客に配慮してか体裁を気にしてか断られたらしい。他にも何軒か回ったそうだが、全部断られて家に来たんだ」
「アレンさんは、その女を泊めたんですの?」
プラムが尋ねるとアレンは首を横に振った。
「他の人間が泊めないのに私が泊めるわけにもいかなかった。この町では噂はすぐに広まるからね。私は、何だかんだで外面ばかり気にして、もしあの時あの女を泊めていれば、あんなことにはならなかったかもしれないのに……」
「オッチャン。後悔は話の後にしてくれ。オレたちだって、とりあえず話を聞くだけだ。まだ協力するとは言っていない。聞かなきゃ、何も分からない」
タルトが口を挟んだ。アレンは「そうだな。その通りだ」と呟いてから、話の続きを語った。
「私は女を泊めなかった。不憫には思ったさ。だけど、翌日からの人の目が怖かったのもあるし、当時娘のエイミはまだ十歳だったから。心配だったのもあった。見知らぬ人間を泊めて何かあったら、ってね。だから追い返そうとしたんだ。そうすると女はこう言った。『この町の人間は皆、薄情だ。特にお前が輪をかけてそうだ。そんなにも周囲の目が気になるのならば、こうしてやろう』と。それからよく分からないものを取り出した。あれは妙なものだった。水晶の中に紫色の霧みたいなものが漂っているんだ。それを見ていると、何だか眩暈がしてきて、私は意識を失った」
「……魔道具」
プラムが呟いた。アレンがその言葉に反応する前に「何でもありません。続けてください」と言った。アレンは「あ、ああ」と頭を抱えながら言葉を継いだ。
「目が覚めるともう朝になっていて、私は玄関で倒れていたらしい。女はいなくなっていた。私は焦って、家の中を見回した。何か盗られたのではあるまいかと思ったのさ。だが、女は何も盗っていなかった。金目のものは」
「それ以外ってわけか」
タルトが口にすると、アレンは頷いて一歩踏み出した。
「ここから先は見てもらったほうが早い。私も話すのが辛いんだ」
アレンは歩き出した。タルトとプラムは黙ってその後に続いた。
アレンの家は寂れた団地の奥にあった。錆びついた鉄の扉は何重にも色が塗り替えられたらしい跡が見て取れる。どす黒く淀んだ色をしていた。アレンが扉を開けて家の中へと入る。プラムがその後に続き、タルトも入ろうとした。その時、足裏に何かを踏みつけた感触があった。花だった。二、三輪が赤く咲いている。タルトがじっと見つめていると、中からプラムが呼びつける声が聞こえてきた。タルトは家の中へと歩を進める。
まるで人の気配のない廊下だった。玄関も泥で汚れている。靴はアレンの靴と今しがたプラムが脱いだブーツと、少女が履くような靴だけだ。アレンの家は父子家庭なのかと勝手に想像して、タルトは廊下へと目をやる。蜘蛛の巣が天井付近の所々に張っている。ここで生活している人間は気にならないのか。アレンと、十三歳になっているであろう娘のエイミは。タルトはアレンに促されるまま奥へと進んだ。黴臭いにおいが鼻をつく。雑菌臭とでも言うのか、妙に鼻にこびりつく臭いだった。この臭いの元は何だ、とタルトが思っていると部屋の奥で声が弾けた。
「あ、お父さん」
その声と共に廊下を駆けてくる音が聞こえる。タルトはそちらに目をやった。
今、アレンへと抱きついてきたのはセミロングの髪の毛の少女だ。少し赤毛が混じっている。服装は簡素なものだった。ワンピースの上から作業用のジャケットを羽織っている。機械の油や煤で汚れたジャケットだった。アレンのものだと一目で知れた。小さい顔にくりりとした大きな眼がある。愛らしい顔立ちだった。だが、普通ならば愛らしいはずのその顔は半分だけ陰がかかっていた。見えない、と思って覗き込もうとすると少女はアレンの身体を盾にして隠れた。
「娘のエイミだ。今年で十三になる」
アレンがエイミの頭に手を置きながら紹介する。プラムは頭を下げて丁寧に「はじめまして」と言って顔を覗き込もうとするも、エイミは身を翻してそのまま廊下の奥へと行ってしまった。
「すまない。あの子も傷ついているんだ。だから、あまり顔は見てやらないでくれないか」
顔を見てやるなとはどういうことなのだろうか、とタルトは思った。プラムには見えたのだろうか。問いかけようとするが、プラムは顎に手を添えて何やら考えているようだった。
「ああなった原因はやはり、その女が?」
「そうだとしか考えられないんだ。その日の数時間前まで私たちはテーブルを囲んで食事をしていたんだからね。それが、あんなことになってしまうなんて」
アレンが苦悩するように頭を抱えて苦しげに呻いた。一体、何が起こったのか。この家はどうなっているのか。タルトはその答えはこの廊下の先にあると感じて、足を踏み出した。それに気づいたアレンが手で制する。
「ま、待ってくれ。妻も娘も急に人に見られるのは嫌なんだ。だから、私がまず、状況を説明する。それから来てくれ。合図をする。それまではここで待って欲しい」
アレンはそう言って廊下の奥へと消えた。廊下の奥には汚れた赤い布が吊り下げられている。目張りのつもりなのだろうか。赤い布の奥でアレンが何やら誰かと話しているのが見え隠れする。タルトは少し焦れて、プラムへと話しかけた。
「おい。娘とか妻が見られたくないとかどうとか、一体どういう意味なんだ」
「言葉通りの意味でしょう。見られたくないでしょうね、あんな姿は」
「あんな姿って何だよ。もったいぶんな」
「自分の目で見るといいですわ。あれは、他人の口から説明するものじゃない」
プラムの言葉はあくまでも自分の目で確認しろということらしい。タルトは面倒だったが、それでもアレンが待って欲しいと言ったのならば待つしかなかった。暫くして、アレンが赤い布の奥から顔を出して手招いた。
「大丈夫だ。二人とも納得してくれたよ。来てくれ」
タルトとプラムは歩き出した。視界の端で蜘蛛が蠢いている。蜘蛛の巣には蝶が捕らえられていた。今まさに、蜘蛛が蝶を食らおうという瞬間だった。タルトは反射的に視線を逸らした。
「気分が悪いんですの?」
プラムがタルトの顔を見ずに問いかける。「別に」と応じると、プラムは、「そう」と簡単に答えた。
「でも、これから見るもののほうが、蜘蛛が蝶を食うよりもよっぽど酷いものですわよ。気を引き締めるといいですわ」
プラムの言葉にタルトは少し緊張した。だが、すぐに何でもないだろうと思った。酷いものはたくさん見てきている。今更なことだ。
「へいへい」と適当に相槌を打って、赤い布を超えて入る。その瞬間、先程まで感じていた悪臭がさらに明確な形を持って襲い掛かってきた。タルトは思わず口元を手で覆う。黴臭いにおいがそれでも鼻腔に突き刺さった。先程朝食を食べてきたばかりのせいか吐き気を催す。タルトは臭いの元を探し、その目に捉えた。その直後、目を戦慄かせた。
そこにはベッドがあった。赤いベッドで、布切れがそこいらに巻きつけられている。よくよく見ればそれは布切れではなく、血を吸った包帯だった。
「これでも随分とマシになったんだ。最近はほとんど血が出なくなったが、一時期は酷かった」
そう語るアレンの横でベッドに横たわっている影をタルトは見つめた。そこにいたのはミイラとしか形容しようのない女性だった。皮膚が砂のように乾燥している。そのくせ、血色のある部分は紫色に腫れ上がっており、そこが膨れると負荷に耐えかねた皮膚から血が滲み出した。乱雑に巻かれた包帯が血を吸い取る。髪の毛は赤毛だが、酷く脱色していて見る影もない。落ち窪んだ眼球が、タルトとプラムを見つめる。鼻と喉から呼吸とも隙間風とも取れない音が漏れる。何か言葉を発したかったのかもしれないが、それは消え入ってしまったようだ。アレンが「紹介しよう」と言って、女性を示した。
「妻のメイアだ。あの日から、こんな状態になってしまった」
メイアと呼ばれた女性は会釈でもしようとしたのか、少し手を持ち上げたが、皮膚の下が膨れ上がって血が噴き出し、それは止められた。タルトは何も言えずに硬直していた。だが、プラムは言葉を発した。
「娘さんも」
「ああ」
アレンがエイミを呼び寄せると、エイミは母親のベッドへと歩み寄って、骨のように細くなってしまった指を掴んだ。母親のほうは反応しているのかいないのか分からない。エイミがタルトへと目を向ける。顔の半分が母親と同じように紫色になっていた。腫れ上がってはいない。だが、片目の虹彩の色が灰色になっていた。恐らく、見えていないのだろう。プラムが母親へと歩み寄り、紫色に変色した皮膚を撫でた。
血が噴き出し、プラムの白色の頬へとかかる。それを拭おうともせずに、プラムは何かを読み取ろうと皮膚へと掌を当てて目を瞑った。タルトにはプラムが何をしようとしているのか分かった。魔力の流れを読み取ろうとしているのだ。タルトには魔力の流れを読み取るほどの技量も精密さもない。だが、プラムにはそれができた。
「皮膚の内側の魔力量と、空気中の魔力の量が著しく違うために引き起こされている現象のようですわ。その女が何かしたと言うのならば、それは恐らく皮膚の内側の魔力量を操作したのでしょう。内側の魔力が多すぎると、皮膚を破って魔力が飛び出すことがあります」
「ちょっと待ってくれ。私の一家には魔力を使う人間なんていないぞ。それにそんなものの存在を信じろって――」
「現にオッチャンの奥さんや娘さんはそうなっているだろ。今更、魔力の存在を信じる信じないのレベルじゃねぇんだよ」
戸惑った声を出したアレンをタルトの強い口調が遮った。プラムが薄目を開けてタルトを睨みつける。口が悪かったせいだろう。だが、タルトは特別訂正しようとは思わなかった。近くにあった椅子を引き寄せてそこに座り、代わりのように話し始めた。
「魔力って言うのは素質とかそんなもんは関係なしに空気中にうじゃうじゃあるんだよ。人間の身体を動かすのだって魔力が作用している。例えば、だ」
タルトが片手を持ち上げて、掌を開いたり閉じたりした。アレンが訝しげにそれを見つめていると、タルトはその指で側頭部をつついた。
「今、オレが手を動かせたのだって、頭から手の末端の神経へと命令が下ったからだ。脳からの電気信号、これにも一種の魔力が介在しているとオレたちは考える。人間の身体も動物の身体も不思議にできちゃいるが、それを説明するための方法が魔力なのさ。別に魔力を単なる信号だと言い換えることは可能だが、それだと解明しきれないことがある。魔力ってのは仮称だよ。もっと相応しい呼び名があれば、他の呼び方にしているだろうぜ」
「……つまり、は」
「つまり、空気中にも魔力はあって、たとえ魔術師でなくとも魔力というものと人間、ひいては生物は切っても切り離せない関係だ、と言いたいわけですわ」
アレンの歯切れ悪い言葉を補足するようにプラムは言った。プラムの言葉にアレンは不本意ながらも納得したようだった。それを見たタルトが少し不機嫌そうにむっとなって足を組んだ。自分の説明で理解されなかったのに、プラムの説明で理解されたのが不服だった。タルトの態度を見たプラムが少し眉をひそめたが、ここではあえて咎めるようなことは言わないようだった。
「話はなんとなく分かった。けれど、どうして空気中の魔力と肉体の中の魔力が違うとそうなってしまうんだ」
「原理は少し専門的になりますが、例えば深海に生息している生命体を短時間で海上に持って来たらどうなるか、ご存知ですか?」
「……どうなるんだ?」
「破裂いたします」
その言葉にアレンは息を呑んだようだった。プラムは母親の皮膚を撫でながら淡々と説明する。
「水圧が著しく違うからです。これを魔力にそのまま置き換えてみてください。今まで深海に慣れていた身体を、海上付近の水圧に無理やり調節したとしますと」
「破裂する、わけか」
「同じことが起こっております。今まで通常の魔力量に慣れていた身体に過剰に魔力が流し込まれている。これでは抵抗を起こすのは無理もないでしょう。ただし、過剰供給を一気に起こしているわけではないようですわ。少しずつ、風船に空気を入れるように、どこかから魔力が母子に流し込まれている。致死に至る寸前で止めているようです。恐らく奥様は、度重なるその痛みのせいで言葉をなくされたのでしょう」
「分かるのか。メイアが喋れないことを」
「言葉どころか、ほとんど動けもしないようですね。かろうじて残っているのは両手の指先の感覚のみでしょうか。それで意思を伝えている」
「どうして、そこまで」
「ガキが指を掴んでいるからだよ」
そこでタルトが口を挟んだ。アレンとプラムが目を向ける。タルトは手を裏返したりしながら爪を見つつ、言った。
「指を掴んでいるのは、そこだけしか母親との意思疎通がはかれないことを知っているからだ。直感的にか、それとも経験かそれは分からねぇけど、ガキはそれを分かっているから指を掴んだんだ。普通、そこまで細くなっている指を掴もうとは思わないだろ。曲げる動作で識別するのか、それとも掌に文字を書くのかまでは知らねぇけど」
タルトは興味などなさそうに手を開いて自分の指を眺めている。アレンはその言葉を聞いて、やはり、と呟いた。
「あんたらは本物なのか?」
タルトはそこでぷっと吹き出すと、弾かれたように笑い出した。場違いな笑い声にアレンが唖然とする。エイミは怖がっているのか母親の指をさらに強く握り締めた。プラムが咎める視線を向ける。その視線に気づいたのか、タルトは少しずつ息を整えながら、それでも口元に笑みを浮かべつつ言った。
「今までの話の流れで『本物か?』と聞くとは思わなかったぜ、オッチャン。いいか。今までの話は知識があれば誰だって言えることだし、よく観察すれば誰だって気づくことなんだ。あんたの周りで今までそれを言う人がいなかったのは、周囲が無学で無知で何よりも真剣に取り合ってくれなかったからだ。この程度の話で本物、偽者が区別できるはずがない。もしかしたら、オッチャンが会った女というのもとんだペテン師かもしれないぜ」
「何を馬鹿な。現にエイミとメイアは――」
「そう、明らかに魔術による干渉を受けている。だから、この現象は本物だ。だけど、その女が本物の魔術師だとは限らないってわけさ」
タルトがアレンを指差した。アレンがぐっと言葉を詰まらせる。プラムは水色の瞳をタルトに向けてはいるが、口を挟む気配はない。タルトの言ったことに異論はないということなのだろう、と察したアレンは、「だが」と言葉を発した。
「あの女が現れたのを境に妻と娘はこんなことになったんだぞ。だったら、その関連性を疑うのは当然だろう。それとも、これが何か他の原因があるとでも言いたいのか」
「可能性は、ある」
タルトは少しだけ尻を持ち上げて座りなおし、足を組み替えた。後頭部を掻きながら、「例えば」と口にした。
「伝染病とかがそうだ。または遺伝子レベルの病気か、そういうものが一番に考えられる。見ず知らずの人間に何かされたと考えるよりかは現実的だろうぜ」
「……現実的って。あんたらは、私の話を聞いて、それで魔術師の仕業だと思ったんじゃないのか」
「誰も魔術師の仕業とは言っていませんわ。おじ様が勝手に早合点しただけ。私たちは気になったのでついて来たに過ぎない。もしかしたら魔術なんてものは必要なくって、医者が診ればすぐにどうにかなるものかもしれない」
「……医者は、もう診てくれたよ。そして玄関先に吐いていった。気分が悪いと言ってね。もう、二度と診て欲しくないんだ」
「今の医学では少しばかり不可解でしょうね。その応急処置がこの包帯というわけですか」
「それも、私が巻いたんだ。医者は何もしてくれなかったよ」
プラムは少しだけ目を伏せて紫色の皮膚を撫でた。タルトは椅子の上で三角座りをして頭上を見上げ、ぐらぐらと椅子を揺らしている。
この二人に事態をどうにかしてくれる気はあるのか、とアレンはここに来て不安に駆られた。考えてみればただの少女たちだ。「MAGIA」を否定する文字と仲間を倒したというだけで家に招いたのは早計だったかもしれない。帰ってくれ、と口からついて出そうになった言葉を遮ったのはタルトの声だった。
「見ているな」
タルトの言葉にプラムも視線を送って頷いた。
「ええ、さっきから既に」
タルトは椅子から跳ねるように立ち上がって、周囲を見渡した。やがて、その視線が一点へと注がれる。天井の隅だ。そこには蜘蛛が巣を張っていた。タルトが舌打ちをして首筋に触れた。
「ちりちりしやがるぜ、畜生め。プラム」
「分かっていますわ」
プラムが左手を空へと差し出す。すると、その中指から伸びる何かが一瞬、明かりの下で揺らめいた。アレンはほんの一瞬のことに、何が見えたのかまでは分からなかった。だが、確かに視界に映りこんだ。次の瞬間、タルトが何かを掴むように右手を開き言葉を発した。
「フェイズ2、開放」
その言葉と共に手から左右へと朱色の光の帯が伸びていく。タルトの身の丈ほどの長さになったかと思うと、帯が折り畳まれた。果たして、それは帯ではなかった。棒状の物体だ。朱色の光で構成されている。
片側の端にはへらのようなものがついていた。タルトがそれを回転させて一振りする。そこでようやくアレンは理解した。櫂だ。舟を漕ぐ時に用いる櫂をタルトは握っている。タルトは朱色の櫂の先端を蜘蛛の巣に向けたかと思うと、棒術のように片手の力だけで櫂を蜘蛛の巣へと弾丸のように鋭く突き込んだ。蜘蛛の巣が裂けて、だらりと垂れる。蜘蛛は櫂によって押し潰されていた。蜘蛛の身体が砂のように砕けて、紫色の粉となって消えてゆく。
その粉はまるで意思を持っているかのように、玄関のほうへと流れていった。タルトが櫂を翻し、「逃がすか」と叫んでその後を追ってゆく。プラムは左手の中指をそっと宙へと差し出したまま、黙ってその背中を見つめている。何が起こったのか分からず、アレンは呆然としていた。あの蜘蛛は何なのか。今、タルトは何をしたのか。プラムに問いかける。
「一体、何が――」
「詳しくは言えません。ですが、もう数秒もすればタルトは戻ってくるでしょう。お話はそれからで」
その予告通り、タルトは十秒もしないうちに戻ってきた。片手にはまだ朱色の櫂が握られている。タルトは腰に手を当てて、「駄目だぁ」と首を振った。
「すぐに逃げられちまった。フェイズ2じゃ、追いきれねぇ。けど、ま」
タルトは櫂を短く持った。その先端をプラムへと差し出す。櫂の端の部分に紫色の粉が付着していた。
「収穫がないってわけじゃない。これを調べりゃ少しは分かるだろう。プラム、頼むぜ」
プラムはその言葉を予期していたように、旅行鞄から小さな小瓶を取り出した。櫂を揺らして、粉を小瓶の中へと落とす。木製の蓋をしっかりと閉めて、再びそれを旅行鞄に仕舞った。
「タルト、フェイズ2、解除」
「オーケイ」
プラムが開いていた左手を閉じる。すると、タルトの握っていた櫂は光の粒子を僅かに残して逆回し映像を見ているように手の中へと吸い込まれて消えた。アレンは目を丸くしていた。エイミもそうだった。目の前で起こった不思議としか言いようのない出来事に、暫時、呼吸すら忘れてしまっていた。
「あんたら、それは。その、今消えた櫂みたいなのは」
アレンがタルトを指差して尋ねる。タルトは突然指差されたことが不愉快なのか、「ああん?」と喧嘩腰になった。
「何だよ、オッチャン。見せもんじゃねぇんだぞ」
「やめなさい、タルト」
プラムが立ち上がって手で制し、アレンを水色の瞳で見つめる。
「おじ様。今の、櫂のようなものについてはお答えできませんが、その他の質問ならばお答えしますわ」
絶対零度の瞳がアレンを射る。自分たちに立ち入った質問を許さない眼だった。アレンはそれに気圧されたように、質問の意図を変えた。
「……じゃあ、さっきの蜘蛛は。一体なんだったんだ?」
「小型の使い魔です。魔術で生成された人工生命体。破壊されれば自動的に持ち主の下へと戻るようにできていたのでしょう。それが私たちを見張っていたようですわ。あまりにも煩わしいので、壊しておきました。恐らく、この家に入った時から見られていたのでしょうね」
プラムの言葉にアレンはその言葉を止めるように手を突き出して、
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。魔術師の仕業じゃないんじゃなかったのか?」
「その可能性もある、という話です。いえ。もうこの場合は、あった、と言ったほうがいいですわね。使い魔の存在が確認された以上、この件に魔術師が関わっていることはまず間違いないでしょう」
「じゃあ、妻と娘を助けてくれる――」
「勘違いすんな、オッチャン」
タルトが強い語気でアレンの言葉を掻き消した。アレンは胸に浮かびかけた希望の火を吹き消されたような気がして、顔を硬直させた。
「オレたちは、慈善事業をやっているわけじゃないんだ。そんな奴がいいんなら、他を当たれ。あくまで個人的なキョーミって奴だ。そいつが薄れればいつでもあんたらを見捨てる。助けるとか助けないじゃねぇ。オレたちにそんな義務は一切ないんだ。ただ、一つだけ言っておくぜ。この状況下で、相手の魔術師を突き止められる可能性があるのはオレたちしかいねぇ。他の奴に頼むんなら、その辺をよく考慮するんだな」
行こうぜ、とタルトは歩き出す。プラムは旅行鞄を両手で持って、アレンへとぺこりと頭を下げた。猫耳のヘルメットがずり落ちそうになり、慌ててそれを正すとタルトに続いて身を翻した。アレンは二人の背中を呼び止める言葉を探そうとしたが、それが口から出る頃には既に二人は家から出て行っていた。