魔術痕というものが全ての魔術には例外なくある。
どれだけの熟練した使い手であろうと、逆にどれほど拙かろうとほとんど同等だ。その部分は魔術師にとって弱点になりうる。魔術痕を解析されればどのような魔術師であろうとたちどころに気配を悟られるからだ。高等幻術や感覚を阻害する術をいくら用いようと、一度魔術のくせを覚えられればそれまで。
だから魔術師は何よりも自分の魔道具を大切にする。一欠けらや、一部ですら魔術痕として使用した形跡が残るからだ。だから魔術師同士の戦いでは相手を一撃で仕留めるか、そうでなければ魔道具を破壊することに徹したほうがいい。手傷を負わせた程度では戦果にならず、逆にこちらの手を読ませる原因を作ることに繋がる。魔術師同士の戦いは基本的に一度きりだ。相手の手を読めなかった側が敗北し、二手三手先を読んだ側が必ず勝利する。逆転劇なんてものは存在せず、負けた側は当然不手際がある。
その点で言えば、魔術は数式に似ている、とプラムは思った。数式は答えが必ず一つあり、裏切りがない。不確定要素の介入もないので、公式を頭に叩き込んでおくかまたは数式を解くためのくせを掴んでおけば解けないことはない。魔術痕は言うなれば数式を解くための鍵となるものだ。鍵さえあれば、扉を開けることは容易い。
プラムはバスルームで解析作業をしていた。作業は単純なものだ。特別な陣や魔道具は必要ない。使うのはすり鉢とすりこぎ、魔術痕があると思われる使い魔から取れた粉、それと人差し指の先の量もない蒸留水だけだった。すり鉢に粉を入れてから水で溶いてよくすりこぎで潰す。
すりながら先程タルトが昼食を食べに行ってから何分経っただろうかと考える。恐らくはもう一時間ほど経っているだろう。早く食べるタルトにしては珍しい。寄り道でもしているのか。
そう思った直後、タルトの心配はしても仕方がないとプラムは首を横に振った。タルトはアレンに向けて突き放すような物言いをしたが、結局のところ割り切れていないのだ。自分の境遇を重ねるなとは忠告したものの、それをきちんと守るとは思えない。タルトは感情的なのだ。
表に出ない感情はないのではないかと思えるほどに、すぐに顔に出る。プラムにはそれが理解に苦しむものだった。感情を表に出して何になるというのだろう。相手に気取られて自分が損をするだけだ。ならば感情はより深く、より暗い場所に隠しておくのがちょうどいい。
プラムは自分の感情を切り離す術を心得ていた。今も退屈だの空腹だのという思考を追いやって、ただ一心にすりこぎを動かしている。タルトのことなど、思考に上がらせてはいけない。そんなものは余分だ。余分はいらなかった。あったって仕方がない。必要なのは単純作業をこなせる根気とどれだけ無感情になりきれるかということだけだ。プラムはすりこぎで潰した粉が水に混ざり始めたのを感じた。液体が僅かに濁っている。指先をつけ、それを舌で舐め取った。
酸味の後に、少し甘みが残る。
これが相手の魔術師の味だ。味覚に魔術のくせを覚えさせることは魔術師の中でも初歩の初歩である技術だった。身体に魔術を覚えさせて馴染ませるのが一番いい。それと似た波長の魔術が行使された時、すぐに反応できるからだ。わざわざ魔術痕を魔術的な方法で識別し覚えようとする輩がいるが、それは下の下だ。魔術を修練すればするほど、そのようなまどろっこしい方法が上策でないことが分かる。
ただ味覚に覚えさせるのには時間がいる。一度や二度、舐めた程度では識別できない。人間の舌は魔術だけを感知できるようにはできていない。例えば酸っぱいものを思い浮かべれば自然と唾液が出て、辛いものを思い浮かべればまるでそれを食しているかのような感覚に陥る。
条件反射というものだ。魔術師はその条件反射を消して、純粋に魔術痕だけを認識できる舌を持つ必要があるが、これが難しい。特殊な味とはいえ、舌が切れるほど辛いわけではないし、とろけるほど甘いわけでもない。酸味と僅かな甘み、このような中途半端な味の魔術痕を覚えるのは困難を極める。
だからプラムは夕方までかかると言ったのだ。少なくとも百は舐めなければ完全な識別はできない。加えてすぐに上澄みができてしまうため、すり続けなければならない。プラムはまたすり鉢にすりこぎを押し付け、潰し始めた。粉がなくならないとも限らないが、まだタルトが持っていたはずである。
そういえば、タルトが帰ってくる気配がしない。プラムは手を止めて、少し部屋を窺った。タルトのような粗暴な人間がいればすぐに分かるはずなので、戻ってきてはいない。ならば、どこに行ったのか。気配を探そうとして、やめた。その程度のことに魔力を割く必要はないと感じたのだ。タルトならばすぐに戻ってくるだろう。今頃、昼食を食べてどこかのベンチで昼寝でもしているに違いない。
プラムはタルトがさぼっているのに、自分だけあくせくと魔術痕を調べているのが少し馬鹿らしく思えた。一度、落ち着いてからまた作業を開始すればいい。そう思って、プラムは洗面所でうがいをした。魔術痕を調べるためとはいえ、決して気分のいい作業ではない。これからあと百回も舐めなければいけないのだ。そう思うと気が進まない。
その時、プラムは思い出した。先程、タルトが給仕係から何かを受け取っていた。確か、ソーダだとかカクテルだとか言っていたような気がする。景気づけに飲んでみようかと思い、プラムは寝室に戻った。やはりタルトは帰ってきていない。
「どこで油を売っているんだか」
呟いて、プラムは丸いテーブルの上にあるグラスに気が付いた。水色の液体で満たされている。ソーダか、カクテルかは一見しただけでは分からない。プラムは手を伸ばしてグラスに触れた。
瞬間、指先に鋭利な痛みが走った。思わず持ち上げかけたグラスを取り落とし、中身をぶちまけてしまう。指先を見ると、赤い血の玉が滲み出ていた。グラスが一部だけ割れていたのか、表面がささくれ立っていたのか。どちらにせよ、もうグラスに触る気にはなれなかった。洗面所からタオルを持って来ようと踵を返しかけて、口の中に妙な味が広がった。
酸味と少しの甘みだ。
それは今しがた舐めていた魔術痕の味だった。他には何も口にしていない。条件反射が起こるものも目にしていない。ならば、とプラムは急いで洗面所に向かい、旅行鞄を手に取ろうとした。その時、傷口から血が滴り、床に落ちた。ほんの一滴であった。染みにもならない。
だが、信じられないことにその血は一瞬で床に広がり、円形を作り出した。次いで菱形の紋様が刻み込まれ最後に三日月が浮かび上がる。プラムが旅行鞄を手にするのと、形成された陣が光り輝くのは同時だった。円と、方角を示す菱形と、三日月の属性だとすぐに察したプラムは呟いた。
「……移動用の魔法陣。何かが来る」
誰が、ということまでは言わなかった。口にするまでもない。このタイミングで現れるのが味方でないことははっきりしている。陣の中から、長身の影がぬっと飛び出してきた。影を覆っていた血の皮膜が剥がれ、現れたのは長い藍色の髪をした女だった。
長身痩躯で、片手に杖を握っている。かさぶたでできた杖だった。鉤爪が水晶玉に食い込んでいる。女が紫色の瞳を向ける。瞳孔が収縮し、プラムを捉えた瞬間、喉元を締め付けられるような感覚が襲ってきた。思わず、苦しげな声が漏れる。
――邪眼だ。
察すると同時に、プラムは空気中の魔力を寄せ集めて即席の魔法壁を作った。女とプラムの間の空間に縦横に水色の線が走ったかと思うと、ブロックが構築される。それが一瞬で壁になった。
女の視線が途切れ、プラムは大きく息をついた。油断していたとはいえ、邪眼程度にかけられるとは。プラムは首筋に手をやる。さほど強く締め付けられてはいない。ならば、初期から装備している魔術攻撃だろう。一定時間の束縛か。魔力のほとんどないものならば窒息の苦しみを味わうかもしれない。
「我が邪眼を破るか」
女が口を開く。老婆のような掠れた声だった。プラムは自身の内側の魔力へと戦闘用の信号を流した。難しい話ではない。走る時に走ると強く念じるわけではないように、それは一瞬だった。水色の瞳が光を湛える。比喩ではなく現実に、プラムの眼が光っていた。手を翳し、魔法壁を解除する。
今度は女を直視しても平気だった。邪眼とはいえ、魔力が上の人間にはそうかからない。プラムは一目で女が自分より格下だと悟った。だが、魔術師の戦闘としては上策ではない。先制攻撃をされた時点で、既に不利な形勢へと転がっている。
「切り替えが早いな。並の術者ではあるまい」
「生憎ですわね。並どころではありませんことよ。少なくともあなたが今まで遭遇した魔術師では一番でしょうね」
強がりを口にする。自分でも虚勢だと分かっている。向かい合った時点で魔術師の戦闘ではない。魔術師は向かい合えば、それはどちらかが死ぬ一歩手前の状況だ。
――それに。
プラムは背後を肩越しに見やる。後ろはバスルームであり、この部屋から脱出するには目の前の女を振り切るしかない。まさに背水の陣だ。
――前に、攻めるしかない。
眉間に力を込めて、プラムは女を見据える。女は感心したように、ほお、と口にした。
「大した威圧感だ。弱い魔術師なら臆するだろう」
「あなたが弱くないように聞こえますわね」
「その通りだ」
女が杖を振り上げ、水晶玉のついたほうをプラムに向ける。プラムは旅行鞄を持ったまま、身を屈めた。瞬間、水晶玉から弾き出された光弾がプラムの背後にあったバスルームの壁を叩きつける。
魔術の弾丸。常人ならば脅威だろうが、相手の魔力を読み取れる魔術師ならば回避はそう難しくない。魔力をただ放出するだけの、牽制にもならない攻撃である。だが、当たれば厄介だ。殺傷性能がないわけではない。
横っ飛びをすると、先程までプラムがいた空間に光弾が撃ち込まれた。プラムは飛び上がり、まるで重力がないかのように天井付近の壁に足をついた。光弾が壁を撃ちつつ迫る。プラムは足に力を込め、女の懐へと飛び込んだ。女が驚愕に目を見開く。プラムは旅行鞄を思い切り、後ろに振りかぶった。
「あまりレディーとして相応しくない戦法ですけれど、ねっ!」
旅行鞄を女の鳩尾に叩き込む。女が身体をくの字に曲げ、苦しげな声を上げて蹲る。プラムはその隙をついてドアへと急いだ。こんな狭い空間では魔術師同士の戦闘に不向きだ。それに魔術をほとんど使わないまま戦闘を終わらせたかった。魔術痕を解析される恐れがあるからだ。そうなれば、逃げるのも厄介である。
ドアへと手をかけて押し出そうとすると、何かが引っかかったようにドアが動かないことに気づいた。プラムが焦ってドアノブを回し、何度も押してみるが一向に開かない。確か、このドアは中からは押せば開くはずなのに。
タルトが機嫌を悪くして勢いよく閉めていたことを思い出す。あの時の妙な音はこれだったのか。プラムはドアノブを回して、力を込めて押すがドアはびくともしない。
「冗談じゃないですわ。タルトの馬鹿のせいで、私がこんな目に遭うなんて」
ドアを拳で殴りつけるが、それでも開く気配はなかった。こうなれば仕方がない、とプラムは人差し指と中指の二本を立てて、ドアに刃物を突き立てるように触れた。指先に魔力を集中させて、ドアを切断する。
荒っぽい策だが、これしかなかった。魔力を集中させようとした、その時、指先に鋭敏な痛みを感じた。見ると、先程グラスで切った傷口が開いている。そこから血が滴っていた。
「……これは」
「予め用意しておいたものが発動したようだな」
振り返ると、女はまだ少し苦しげに息を吐きながらプラムへと紫の瞳を向けていた。その眼がプラムへと照準を絞るように向けられた瞬間、プラムは指先にこれまでとは比較にならないほどの激痛が走ったのを感じた。思わず指を押さえる。
視線を落とすと、傷をつけられた人差し指に太い血管が浮かび上がり脈動していた。一拍の鼓動ごとに感じる脳天を貫くような痛みで、魔力を操作する精度が落ちる。それを見計らったように、女は紫色の瞳孔を収縮させた。
邪眼だ。かかるまいと思っていたが、魔力の制御機能が低下しているプラムにとって抗いがたいものだった。瞳から光が徐々に失せ、全身から人差し指へと魔力が絞り出される感触がする。それと同時に首筋を邪眼で締め付けられて、意識が遠のいていく。痛みも相まって、今にも視界が黒く閉じようとしていた。意識を切ればやられる、と直感したプラムは言葉を発した。
「……いつから、仕組んでいたのですの」
「最初からさ。お前がグラスで指を切ったその時から、わたしの魔術は始まっていた」
女がバスルームに視線を流す。その先には先程までプラムが解析していた跡が残っているはずだった。
「わたしの魔術痕を解析したのならば分かるだろう。わたしの魔術の大前提は〝傷〟。お前の傷を媒介にして、わたしはここに移動した。お前が招いたんだ。わたしへと傷という橋を渡すことで」
プラムは痛みでほとんど動かない右手へと視線を落とした。あの時点で魔術が行使されていたということは、グラスを持ってきた給仕係もグルだったというわけか。だとすれば、どこから仕組まれていたのか。給仕係を支配下に置いていたということはこの民宿は女の縄張りだったのか。自分たちはそこへとのこのこと入ってきたことになる。
だが、自分が魔術師の根城に何の疑問も持たずに入るはずがない。相手は格下だ。魔術の痕跡を全く感じないなんてことはないはず。異物が入り込んできたならばすぐに察知はできたと考えられる。だというのに、昨夜の夕食のルームサービスも、朝食も何の仕掛けも施されていなかった。
消すのならば食事が一番の時のはずだ。もしかしたら、昨夜押しかけてきた男たちも操られていたのか。だが、あれはタルトが関わりを持たなければありえなかった面倒だ。どれが偶然で、どれが仕組まれていたのか。
「考えているな」
女の声と一際強い痛みでプラムは現実へと引き戻された。人差し指から何かが出ている。糸のようなものだった。血の糸だ。血溜まりに触れた時についてしまうような血の糸ではない。血で構成された糸だった。
「わたしがどこからお前らを毒牙にかけようとしていたのか。教えてやろう。答えは数時間前から。お前らがわたしの使い魔を破壊した時からだ。それまでは眼中にもなかった。わたしはこの町を表から支配しているわけではないのでね。表の小競り合いがあったことを知ったのも、ついさっきだ。ならば、利用してやろうと考えた」
「……利用? まさか、タルトを」
「察しがいいな。あの黒い娘、タルトというのか。そいつは今頃、わたしの使い魔で操った奴らにやられているだろう。距離もほどよく離してある。お前らの秘密は、もう分かっているからな」
プラムは目を慄かせた。それが真実ならば、タルトの身が危ない。確実にやられる。そう思った直後、頭蓋を割るような衝撃と痛みがプラムに襲いかかった。タルトの感じた痛みだろう。必死に留めていた意識が、遂に途切れそうになる。
「あの子、何を――」
「痛めつけてやるだけだ。それ以上はしない。いや、したくてもできないか。遠隔では。わたし直々に制裁を加えてやってもいいんだが」
プラムは鋭い眼差しを女へと向けた。女は怯みもせずに、杖を突き出した。
「反抗的だな。ならば、少し強めてやろうか」
プラムの人差し指に再び神経を引き千切るような痛みが再来する。人差し指から出ている糸はさらに長くなり、掌側に垂れていた。プラムはその場に膝をついた。人差し指の痛みとタルトから発信された痛みがプラムの意識を限界寸前まで削っていた。
「最後に教えてやろうか」
視界がぼやけてほとんど何も見えていないプラムの前に、紫色のローブを纏った女のシルエットが浮かび上がる。それは死神のように見えた。
「わたしの名前はアトラク。格下だと判断したこと、恨むといい」
その声を最後に、プラムの意識は闇に落ちた。