『超高校級の探偵』霧切響子。彼女はスカウトマンに自らの才能を売り込み、その能力を認めさせることで希望ヶ峰学園への入学を勝ち取った、極めて異例の生徒である。そこまでして希望ヶ峰学園に入学しようとしたのは、ある目的のためだった。
霧切響子には父がいる。探偵の家系から抜け、希望ヶ峰学園学園長となった男。霧切仁。
彼女の目的はその学園長に会うことだった。父親と改めて絶縁するために。
今日の放課後、スカウト部門主任の黄桜経由で学園長との面談の許可が下りたため、学園長室に訪れていた。話はすぐに終わった。自分が絶縁の話を切り出した時も、学園長の表情が変わることはなかった。だが、その目はどこか寂しそうな色を帯びていたような気がした。
「いや、それはないわね……」
学園長もまた、かつては『超高校級の探偵』と呼ばれた希望ヶ峰学園の卒業生だ。感情を悟らせないようにしているはずだ。おそらく、あれは自分の願望だったのだろう。心のどこかで、最後くらいは父親らしい顔を見せてほしいと思っていた。そんな思いが、存在しない感情を見た気にさせただけだ。
そう結論付けると、胸の中に残っていた僅かな引っ掛かりも少しだけ薄れた。
「でもこれからどうしようかしら……」
まさか入学してたった数日で、目的を達成するとは霧切も思っていなかった。目的を果たしたので、もうこの学園に用はないのだが、超高校級の才能として入学した者は自主退学が基本的に認められていない。自主退学ができない以上、このまま三年間、この学園で過ごすしかないのだ。
「はぁ……」
まだ入学して数日しか経っていないが、霧切がいるクラスは騒がしい。才能を持つ者達が集まっているだけあって、一人一人の個性が強すぎるのだ。そこで三年も過ごすのか……しかもあの学園長のいる学校で。考えるだけで気が滅入る。
「……考えていても仕方がないわね。さっさと帰りましょう」
霧切はそう呟いて、教室に入って行った。放課後の教室は静かだった。人の気配はない。
そう判断して、一歩踏み込んだ瞬間……
「……え?」
教室の中央付近に人影があった。『超高校級の幸運』で入学した生徒、苗木誠だった。
確かに人の気配はなかったはずだ。見落としたのかとも思ったが、探偵としての直感がそれを否定していた。
人一人を見落としたというには違和感が大きすぎるからだ。霧切の目には、まるで何もなかった空間から、突然現れたかのように見えた。
――――――――――
一方で苗木は動揺していた。まさか、教室に誰かが入ってくると思っていなかったのだ。苗木は咄嗟にリュックの中に手を伸ばした。そして、あるものを取り出す。一本の鎖で、先端に銀色の球体が付いた単純な道具。
振り子だった。
「……?」
霧切は眉を顰める。流石の彼女も予想外だったようだ。苗木は振り子をゆっくりと霧切の目の前で揺らす。
「苗木君、一体な、に…を……」
霧切の言葉は最後まで続かなかった。霧切は反射的に視線を逸らそうとしたが、銀色の球体が描く規則的な軌道に意識を引き寄せられる。
「今見たことは全て忘れて。いや、忘れるよ。君は何も見ていない……」
ゆらり、ゆらりと揺れる振り子を、霧切は無言で見つめている。現世の人間が誤ってあの世へ迷い込むことは珍しくない。だからこそ死神には、帰還者から記憶を消すための催眠術の習得が必修とされていた。
当然、苗木も修得している。だが、あまり得意ではなかった。苗木は必死に霧切に呼びかける。
「君は放課後、教室に来た。教室には誰もいない。不思議なものも見ていない。そのまま大人しく帰る」
「わた、し……は、何も見て、いない……教室には誰も……いない………」
そう言って、霧切は目を閉じてしばらく黙り込む。振り子をしまい、苗木は恐る恐る霧切を見つめた。
やがて霧切はゆっくりと目を開く。霧切は時計に目をやる。
「……もうこんな時間だったのね」
そう呟くと、何事もなかったかのように帰り支度を始めた。どうやら、催眠術に成功したようだ。苗木のいる方向を一瞥することなく、そのまま教室を後にした。
「た、助かった……」
苗木は椅子に座り込んだ。だが、いつまでも安心はしていられない。また誰か教室に入ってくるかもしれない。苗木は急いで帰り支度を終えると、寄宿舎へ向かった。
――――――――――
「なっ……!? 姿を見られたって何を考えてるんですか!?」
帰宅後、黒鶴に霧切と出くわしたことを正直に話すと叱られた。傍から見れば、正座した高校生が一匹の子猫に説教されているという、なんとも奇妙な光景だった。
「だ、だってあんな時間なら誰も来ないと思ったんだよ。実際廊下とかは人の気配がなかったし、普通に着替えても大丈夫かなぁって……」
「それで姿を見られたら世話ないですよ! ……姿を見た人には催眠術をかけたんですか?」
「う、うん。一応……」
「……一応?」
「いや、ちゃんとかけたよ。真っ直ぐ教室を出て帰って行ったし」
慌てて弁解する苗木を見て、黒鶴は大きく溜息を吐いた。
「本当にかかっていると良いんですけどね……」
黒鶴の不安は見事に的中することになる。まさか、たった一晩で催眠術の効果が切れるとは、流石の黒鶴も予想していなかったが。
翌日の昼休み。昼ご飯を食べようと弁当を取り出した苗木に、霧切が声を掛けてきた。
「苗木君、ちょっと良いかしら?」
「え? 霧切さん、一体どうし……」
「昨日の放課後について聞きたいことがあるの」
苗木は思わず息を呑んだ。
「え、えっと……」
「場所を変えましょう。ここでは話しづらいでしょうし。構わないわよね?」
「……はい」
そのまま霧切に連れ出される形で苗木は、人気のない空き教室に入った。中に誰もいないことを確認すると、霧切は静かに扉を閉めた。
「……さて」
その一言だけで、苗木の肩が跳ねる。
「まず確認させてもらうわね」
霧切は真っ直ぐ苗木を見つめた。苗木は、自分の顔が強張っていることを感じた。
「苗木君。昨日の放課後……具体的には17時頃……あなたはどこにいたのかしら?」
「その時間帯……なら僕は部屋にいたはずだよ。昨日は真っすぐ自分の部屋に帰ったからね」
苗木がそう言うと、霧切の眉がピクリと動く。
「真っすぐ帰った……それは妙ね」
霧切は静かに言った。
「その時間帯に、私は教室であなたを見ているはずよ」
苗木の背筋が凍る。
「どういう訳か、今朝思い出したのだけれど。あれは私の思い違いだったのかしら?」
「そう、じゃないかな……僕は会った記憶がないし」
「そう……」
霧切はあっさりと頷いた。その反応に、苗木は一瞬だけ安堵した。大分記憶は戻っているようだが、少なくとも全てを思い出している訳ではなさそうだった。そうでなければ、もっと踏み込んだ質問をされているはずだ。
「あの時間帯、誰かと会話をしたはずだけど……」
「会話って……あの時、霧切さんは……」
ここで苗木は己の失言に気が付き、口をつぐむ。だが、もう遅かった。霧切の視線が鋭くなる。
「『あの時』……ね」
霧切は静かに呟いた。
「少なくとも、私が話している出来事に心当たりはあるようね」
「……」
苗木はどう返すべきか思案していると、不意に声が聞こえてきた。
「やっぱり、催眠術は不完全だったようですね」
「っ!?」
苗木が慌てて振り返ると、そこには黒鶴がいた。霊道を通って、苗木の様子を見に来たのだろう。霧切も、子猫が喋っているのを見て少なからず驚いている。
「猫が……喋った?」
黒鶴は、霧切に話し掛けた。
「初めまして……ではないですね。初日に会いましたから。あたしは黒鶴。誠様の契約黒猫を務めています」
「え、ええ。私は霧切響子。探偵よ」
霧切はどうにか冷静さを取り戻すと、苗木に向き直る。
「それで……苗木君? そろそろ説明してもらえるかしら?」
――――――――――
「……死神……ね」
結局、苗木は自分が死神であることを白状する羽目になった。黒鶴も、苗木の失言を見て、もうこうなったら全てを明かした方が良いと判断して正体を現したようだ。このまま怪しまれた状態で探られ続ける方が厄介だったし、霧切であれば軽々しく誰かに吹聴したりはしないだろうという判断もある。
話を聞き終えた霧切は腕を組んだまま黙り込んでいた。苗木の話が全て嘘だとは思っていないのかもしれないが、完全に信じ切れてもいないようだ。
「……僕の話を嘘と思うか、本当と思うかは霧切さん次第だけど……良かったら放課後に浄霊作業を見てみる?」
苗木がそう言うと、黙り込んでいた霧切はようやく口を開いた。
「……そうね。確かめられるものなら、確かめてみたいわ」
「なら決まりだね。良いよね、黒鶴」
「あたしも断る理由はありません。その方が良いでしょう」
こうして、今日の放課後の浄霊作業は霧切も同伴することとなった。
放課後。クラスの皆がいなくなるまで待ち、教室には苗木と霧切、黒鶴だけになった。
「それで、どうやって死神の仕事をするの?」
「まぁ、まずは……」
苗木はリュックから赤と青のレンズが付いた眼鏡を取り出し、霧切に手渡した。
「霊視メガネ。これを着けると、普通の人でも霊を見えるようになるんだ」
「……3Ⅾメガネにしか見えないのだけれど」
「……よく言われるね」
霧切は怪訝そうに眼鏡を受け取り、ゆっくりとそれを掛けてみる。最初は何も変わらなかった。やはり子供騙しだったのではないかと思った次の瞬間、自分達以外誰もいないはずの教室に人影のようなものが現れた。
「っ!?」
反射的に眼鏡を外してみると、そこには人影はない。次に眼鏡のレンズを観察してみる。レンズ自体に異常はないようだった。改めて掛けてみると、人影がいた。眼鏡を外して掛け直すという動作を二回ほど繰り返して、ようやく霧切は目の前の現象を認めたようだ。
「……確かに、普通の存在ではない者もいるようね。これが霊というものなのかしら?」
「そう。霊達を成仏させ、転生を促す。それが、僕達死神の仕事だよ」
苗木はそう言って、黄泉の羽織を身に纏う。
「……苗木君、それは?」
「これ? これは黄泉の羽織。これを着た者は霊と同じ体質になる死神道具だ」
「霊と同じ……昨日、突然現れたように見えたのは、それを脱いだからという訳ね」
一応納得した様子で、霧切は苗木と黒鶴の浄霊作業を見学していく。時には、道具などについて質問しつつ、興味深そうに苗木の仕事を観察していた。
ひと通り作業を終え、霊視メガネを返しながら、霧切は結論を伝えた。
「……確かにあなたの話が嘘ではないことは分かったわ」
「それは良かった。それで、このことについてなんだけど……」
歯切れが悪そうに言う苗木を見て、霧切は頷いた。
「ええ。誰にも言うつもりはないわ。もっとも、私が言ったところで今回みたいな証拠でもなければ信じないだろうし」
「そ、そっか。良かった……」
安堵の息を零す苗木。傍らの黒鶴も同様だ。霧切は微笑んだ。
「死神の仕事を頑張ってね、苗木君」
「う、うん。ありがとう」
――――――――――
苗木と黒鶴の姿が見えなくなるまで見送りながら、霧切は静かに息を吐いた。
「……驚いたわね。私達が知っているオーソドックスなものと若干異なっているところはあったけれど……まさか死神なんてものが実在しているなんて。とはいえ、苗木君、嘘は言っていなかったようだけれど、全てを話した訳ではないわね」
そんなことを呟く霧切の口元は、僅かに緩んでいた。