チキチキ、軽い音。ザクッ、シャッ、重い音。
腕の傷がひとつ、ふたつと増えていく。ひとつ、ふたつと増やしていく。
その線をなぞるように、痛みを
血みどろに、ちんがいになった腕を償うように、ごめんなさいを歌うようにグッと握った。血がわっと出てくる、まるで何かに
どく、どくと脈打って、斑らに赤のついた白いシーツの上に、また、ひとつ、ふたつと
赤い雫が落ちる。ポタッ、ポタッと降り出した雨のように、締めたシャワーの口のように。
これは罰だ、罰なのだ。弱い私に対する、正当な罰。私が
幸せになりたかった、誰かに愛して欲しかった。「なのにどうして」を何度繰り返したことか、何度その輪の中でもがいただろうか。結局手にしたのはこんなもんか、という諦観と、それだけだった。
ゆっくりと、体から力が抜けていくのを感じた。そのまま血溜まりにうつ伏せる。白い服に血がついた。目は空いているのに、何も考えられなかった。ただ、見つめるだけ。指先も、動こうとしなかった。
目の端の長針が半円を描いた頃、
ぼぉっと天井を見て、ああ、何もしないまま、また一日が終わる、何かしないと、でも何かって何? 私には何もできないでしょ、ごめんなさい、ごめんなさい、許して、って何を? あーあ、明日、私生きてるかな? いやいや、どうせみんな死ぬって、じゃあ全部無意味だね。なんで生きてんだろ。そもそもこの世の全てが無意味なんじゃ無い? じゃあ死ねよ。死ねないよ。そんな勇気はないもん。惰性で生きるの、生きてくの。今までだってそう。これから死ぬまでそう。揺り
ええと、それで私は何をしようとしていたんだっけ? ああ、そうそう、一週間振りに
服を脱いで蛇口を捻る。少し水を出して、手をかざす。待っても待っても冷たいままだった。そうだそうだ、ガスを止められていたのを忘れていた。止められたのは先々週だったか。先週も同じことをやった気がする。バカだなあ、実にバカだなあ、私。いや、これでも私、幹部候補生の時は、次席だったんだけどなあ。まあいい、社会人になっても学級委員だったことを誇るようではいけないだろう。やはり、勉強ができるか否かということと、頭がいいかどうかということには、一光年からの距離があるのだ。
そんなことを考えながら毛を剃っていたら、ピッ、と皮膚を切ってしまった。一秒を待って血が滲み出てくる。痛い、と思った。こういう傷は意図していない分、そして刃が薄い分、深く切れてしまう。自傷しているくせに痛いのは嫌いなんて、いかにも人間らしいな、と自嘲した。人間の不良品みたいな私でも、それだけは残っているんだ。ああ、気持ち悪い。
毛を剃って、髪と体とを洗ったらもう二時間も経っていた。すっかり冷えた体の水滴を早く拭い去ってしまおうと、バスタオルに手を伸ばした。その時、私はガクリ、と膝を折って倒れた。正確に言えば、急に力が抜けて折れてしまった、という方が正しかった。
起動中の掃除機のコードをぷつんと切ってしまったときのように、いつか見たアニメの一話で、慣れない主人公がヒト型兵器を動かし、一歩踏み出したところでバタンと倒れてしまったように、その場に私は倒れこんだ。シャワーを浴びるだけで私は一日分のカロリーを消費してしまったのだ。なんて無力なのだろう、よくこれで生きてこられたものだ。
肌に光る水滴が、冷たさだけを残し小さくなっていくのをぼんやりと眺めていた。視界に入っているのに、殆ど認識できない、そういうぼんやり。風邪を引くんじゃないかという気もしてきたが、それが動作に結び付かなかった、結びつけられなかった。一時間もそうしていると、随分と肌は乾き、そろそろ服を着ないと本格的に風邪を引くのではないか、というほど寒くなってきた。ゆっくり腕に力を入れ、床を押す。膝を立てて、やっと一息ついた。
膝に手を乗せて、力を込めて立ち上がる。まだ髪は髪は乾いていなかったようで、幾つかの雫が零れた。その辺にぶら下がっている、いつか干した服を着て戸棚を開けた。そこから安菓子の袋を二、三取り出した。その場に腰を落ち着けてそれを食べる。不乱に食べていると、急に喉が焼ける感じがして咄嗟に口を手で塞いだ。トイレに駆け込んで、便座の蓋を弾き上げる。気持ち悪い音を率連れて、さっきまで食べていたものを吐き出した。それでも、まだ変な味がする口の中に菓子を詰め込んで吐く。味はするけど美味しいと思えない。無為、飽食、無駄、そんな言葉が脳を掠める。息を荒くして喉奥に手を突っ込む。おぇ、と何も出てこなくなるまで何度も吐いた。
結局、ゼリーを二つ食べてこれで良しとした。栄養学のえの字も知らない人間のようだが、知っているのとやってみるのはまた別の話だと自分に言い聞かせた。
やっと一息ついて椅子に座り直す。
腕を握るとまた血が出てくる、さっきできたリスカの跡を、写真で撮った。自傷した後は毎回と言っていいほど、この写真をSNSに上げる。どういう心理なのだろうか、自分でもよくわからない。いや、わかりたくないと言った方がいいだろう。自分について考えたくないのだ。どうせ嫌な記憶しか出てこないのだから。自己憐憫…誰かに可哀想と思ってほしいのだろうか、シンデレラみたいに、自分を傷つけてでも。
私は、この社会の歯車ではなくなってしまったから、私の生き死になど誰も気に留めやしないだろう。私など全く重要ではない。
じゃあ、私が独裁者になった場合を考えてみよう。独裁者になったら、少なくとも今の引き籠りニートという立場よりは社会的に重要度が増すだろう。そうしたら私は満たされるのだろうか。いや、そんなことはない。きっと私は、この傷を八〇億の人間に見られようと満たされないだろう。
もう、なんたってどうしたって、しようがないのだ。そう嫌悪しながら写真をアップする。アプリを閉じると、ホーム画面に、「おすすめの写真」と題して過去の写真が
そこに笑顔で写っていたのは、幹部候補生のときの私だった。気持ち悪くなる、黒歴史、過去。
吐きそうになって手を口に当てるが、もう何も出るものはなかった。写真を消そうと指を動かすが、うまく動かない。割れんばかりに画面を叩く。感情、無制御、決壊。思わず窓にスマフォを投げつける。
割れ散らばった床上のガラスに拳を叩きつける。床が凹む、ガラスが割れる、手が血まみれになる。それでも殴る、耐えられない、他得られない、殴りつける、血、赤、どろどろ、ぐちゃぐちゃ。
ガラスが粉々になって、やっと我に帰る。飛び散ったガラスの中からスマフォを拾い上げ、幾つ目かわからない
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごらんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、そうやって頭の中が一面、宛先のないごめんなさいで埋め尽くされた。
この窓ガラスは後でどうにかするとして、そういえばさっき吐いた口の中の違和感を拭いたくて、何かないかなと見回す。机の上に煙草を置いていたのを思い出して、椅子から立ち上がる。一回寝ぼけたまま寝タバコをし、布団に火をつけて火災警報器の大合唱を奏させてしまったことがあった。そう思いながら玄関を開ける。
夕影が私にはもったいないほど美しくて、手すりに背を向けて肘を置く。夕日が背中に刺さって、白い
ふと、机の上に溜まっている督促状やら請求書やらが妙に引っかかった。地下鉄の電車はどこから入れたんだろうとか、江戸時代ってどうやって歯磨きしてたんだろうとか、そういう、いつもどこかで引っかかっている、そういう類のもの。
私は正社員じゃないし、もちろんバイトなどしていないから、収入源は本来であれば生活保護費であった。しかし私は、自衛官を辞職ではなく、あくまでも休職扱いになっているからそれが受給できないのだ。
だから、金が足りなくなったら、インターネットで春を売る、そうやって生きてきた。 私はもうアラサーの上にイカ焼きだから、いつも安い金で、そのときそのときで、入用の金を稼いでなんとか団地を追い出されないようにはしてきた。
タバコを腕に押し当てて消して、まだ少し水分を孕んだ髪を
* * *
途中で酒を買って約束のホテルに向かった。こうすれば、こんなことも、酒のせいにできるから。セクハラで退職したくせに、こんな風に金を稼ぐなんて、まったく人間とは複雑さの塊だな。
会ってすぐ前戯もなしに始まったから、何か違うことを考えようと思って、普段使わなくなった頭を少し動かしてみた。でも何も思いつかなかった。普段なにかずっと頭がぐるぐるしているのに、結局私は何も考えていないのだ。
そんなことを考えていたら、もう相手は満足したように三〇〇〇円を置いて出て行った。安い自分に嘲笑しか出てこなかった。
ふと、こう何度も外に出て、ましてこんなことをするのは嫌だから、この際少し加えて稼いでおこうと思った。酒をもう一缶開けて次の客のところに向かった。
夜はまだ始まったばかりだ。
* * *
結局、私はその夜五人を相手にして一九〇〇〇円を手に入れた。腰がまだ痛くて、そんなの忘れたくて、生きてきた記憶なんて消したくて、最後の一滴を飲み干した。
頑張った恍惚感と、五人相手にして二万にも届かないとはアラサーとは辛いな、と。夜明けの新宿駅は、まだ四時台のくせに妙に明るくて、酔っているのと、四人目の相手から金の代わりに大量の咳止め錠剤をもらったからだろう。そんなものかわりになるか、と思ったが、何をいうのも面倒で、どうでもよくて…、何しろ金がなくてODなんてずいぶんやっていない、意識をなくしたい、忘れたい、飛びたい、脳死したい。
そんなせいで、妙に浮遊感があった、現実感がなかった、解離、乖離、怪離。
入線する電車に飛び込んだ、私の中の「なにか」が飛び込んだ、いつもの感覚、轢き潰される。夜闇を切り裂いて駆け抜けてくるヘッドライトが心に沁みた。
もういくつ目かわからない、後悔も起こらなくなった諦観の死ねなかったを抱えながら、ぼぉっと車窓を眺めていた。ジョイント音に混じって救急車か何かのサイレンが聞こえてくる、踏切の音、誰かの叫び声。今頃、南極の鯨は何も知らずに泳いでいるのだろうか、同じ空の下に生まれながら干渉することのない違う時間を過ごしている、この瞬間にも誰か自殺してる、実感なんか湧かないでしょ、ああそっか、ニュースなんかみんな過去のことなんだね。
そうこうするうちに雨が降ってきた。大粒の雨。これが飴だったらよかったのに、でもそうしたら
もう何も感じなくなった家までの帰り道に、誰もいない夜明けの道に、思わず泣き出してしまった。上を向いて泣いたまま、何もわからないまま、歩き続けた。一度泣き始めると、壊れた酒瓶のように全部漏れ出すまでとめどなく、止まらないまま、自分ではどうしようもないのだ。
足だけは上半身の激情なんて知らないといった風で私を家まで連れて行き、玄関で力尽きた。さっきシャワーを浴びた時とは比べ物にならないほど体は冷えてしまった。寒い時代になった。
感傷に浸るのもそこそこに、寒さに耐えきれずに服を脱いで下着のまま布団に入った。
床に直に敷いた、もう幾分も干してない布団の上で安酒をすするその音だけが、朝の虚空にやたら大きく響く。スマフォを開いて流行りらしいアニメを、特に面白いと思えないのにだらだらと見続けた。それにも結局飽きてしまって、布団にうずくまる。ああ、風呂に入らなきゃと思いながらそのまま目を瞑った。
その時、暗い瞼の奥底でさっきまで触れていた男の生温かさがフラッシュバックして、また気持ち悪くなった。この部屋のものなんか全部捨てたくなった。どうにか眠りたくて、なんとか穏やかになりたくて、いつか薬局で買った咳止めを数も数えずに飲んだ。五分もしないうちに楽になってきて、その勢いでまた腕を切る。薬を飲んで酒も飲んで、そんな中で腕を切ると、それはもちろん深くなって、また後で痛むんだろうな、なんて他人事みたいに思った。
薬が効いてきたのか、単に疲れただけなのか、いつの間にか朝の
* * *
私が自衛官になりたいと思ったのは、いつだったか、いつの間に憧れていた。今思えば、それは一つの熱病だったかもしれない。
さぎりではそれまでの私の努力だろうか、そんな淡いものが認められたようで、その時に私は二六才で二尉になった。しかし、まあ、思い出すのも嫌だが、さぎりに乗艦してからすぐ、なんとなく、みんなに避けられているのを初めて自覚した。ああ、この狭い空間で私はひとりぼっちだって思った時、今までなんで気づかなかったんだろうとか、なんか色々流れてきた。
それから、まあ、世間一般セクハラなどと呼ばれているものを何度か受けて、艦長にも相談したけど、向こうにも家庭があるんだって私が悪いみたいになって。港に戻ったらすぐ辞表を出して、それでも認められずに休職扱いになって、それでそのままこんな
辞める時に、言わないでくれって意味だろうか、一尉に昇進してから休職届が受理された。
もちろん色々な人間がいることはわかっているけれど、それで人間が、男が嫌いになって、自分も嫌いになって。船というのは閉鎖空間だし、日本も島で閉鎖空間なのだ。それはつまり、逃げ場がないということだ。
それで逃げ続けて、逃げ続けて、今はこんなもんだ。
* * *
夕方、と言っても一五時ごろ、インターフォンの音で目を覚ました。すごく恨めしかったが、しょうがない気もした。ふと、涙を流していたのに気がついて、それを傷ついた、傷つけた両の腕で拭って起き上がった。
眼鏡をかけて玄関へのそのそと向かって、テレビインターフォンの画面で相手がどんな奴か見てみる。「どなたですか」などと一応訊いておいてやった。
「私、防衛省人事計画課・補任課、再任用室の
ああ、再任用制度についてか、武装AI? みたいなのにボコボコにされたアメリカたちが国連軍を組織して人材不足解消のために日本にも自衛官の再任用制度の強化をするようにいってきたらしい。我らが日本国の政治家さんたちは、外交において弱腰であることがその条件であるようだから、もちろん諾々としてアメ公の要求に従ったのだろう。
それにしても、まったく、アニメみたいな話だな、実感のかけらも湧いたもんじゃないね。
金のない日本が正規職員なんか雇うわけがないから、どうせ彼は非正規だ。怒ったってしょうがないが…、再任用についてはもちろん経歴を調べるらしい。私が自衛隊に籍を置けなくなったのが誰のせいか調べていないのか? いや知らされていないかもしれないし……、いやなんにしろイライラする。
「お出口はあちらですが。」
「いやお話だけでも…」
「帰ってくれといっているのが聞こえないのか? ここは民主主義の国で、確かにあなたが私に話しかけるのは自由だけだが、私にはそれを聞かない自由があるのではないかな? それじゃ。」
そう言って私は一方的に通話を切った。頭の隅で申し訳とも思いつつ、しょうがない気がした。私にはその権利があると思うし、そう思うことでしか自分を守れなかった。そして、そんな自分に腹が立った。昨日呑み残したアルコールで喉を消毒して、起こされたことを忘れてしまえと布団にうずくまった。一〇分も布団に転がっていたけれど、もう寝られない気がして、それこそ彼を恨みつつ起き上がって横座りした。もはやインターフォンまで恨めしくなってきて、いっそのこと外してやろうかとも思えた。それ以外にやることが見つからないから、もそもそと起き上がってインターフォンの下に生えているコードを引き抜いた。久しぶりに清々した気持ちになって、またうとうとと布団に転がった。
* * *
次に起きたのは一六時過ぎで、お腹が空いて仕方がなかった。朝ごはんを抜くことはあるけれども、昨日の夜から安酒しか呑んでないとなると流石に限界だった。胃の強い抗議に気圧されるようにして、私は布団からずりずりとと手を伸ばし、棚の一番下の扉を開けた。カップ麺が並んでいたが、お湯を入れる気力がなさそうなので諦めて選びもしないでそのうちの一つを取ってお湯も入れずに食べた。口いっぱいに化学調味料の味が広まって、でもそれは嫌いじゃなかった。結局お茶が欲しくなって渋々立ち上がったのだけれど、初めからこうする気には到底なれなかった。
時計が一七時を差した頃、またもや家の前に誰かがいる気配がして反射的に布団に潜って息を潜めた。インターフォンを押している様だったが、今回は「ぴんぽ~んっ」などとかいうあの不愉快の音が鳴らなかった。それこそ喜びを感じたが次第に申し訳なくなってきて、そして早く帰ってほしくて結局ドアノブに手を掛けてしまった。最後のちっぽけな抵抗としてドアチェーンをかけたまま、その扉を押し開けた。
「どの様なが要件ですか。」
「先ほどもお伺い致しましたが、今度は私、防衛省人事計画課・補任課、再任用室長の
「ああこれはこれは室長さん、ご苦労なことです。」
「先ほどは高槻がご迷惑をお掛けしました。」
「いや、そんなことはいいんです、どうせ仕事でしょうから。それより本題はなんですか。」
後ろでバツが悪そうにしている高槻とかいう奴の顔を見て、内心ほくそ笑んだ。私は性格が悪い。
「はい、それで、改めて私の方から再任用についてご説明の方、申し上げても宜しいでしょうか」
「ああ、その話ならどうぞお引き取りください。天と地がひっくり返ろうと私の気持ちはひっくり返ったりしませんから。」
「いえ、今は空華様のお話がしたいのです。空華様は幹部学校を次席で卒業されました。」
「それがどうしたというんです? 今更褒められたって何もも出てきませんよ。」
「ですから、そのお力を是非もう一度我々にお貸しいただきたいのです。」
話しづらそうにしている彼の口元を一瞥して答える。
「ほう、そういえば私を隊から名誉のためだとか言って追放して、それも報道せずじまいで挙句私が泣き寝入りさせた君たちに
自分でもわかるほど棘のある言葉を吐いた私に驚いた。こんなにも自分は怒っていたんだ、と。
「ですからそれは……」
「それは?」
「それはどうかご理解ください。私とて辛いのです。」
「辛いのは私の方ですよ。勝手に被害妄想をするのは構いませんが、それを押し付けるのはまた別の話でしょう。」
「ですから、その……」
「これで分かって頂けましたか? こんなことを話し合ったってお互いの時間の無駄です。さあ、お引き取りください。人生は短いですから、どうぞ有意義にお過ごしくださいな。」
あ、あの…という彼の声を遮るようにバタンと扉を閉めた途端、部屋の中に差し込んでいた光も消えた。
こなくそ、と思って舌打ちのまま布団に転がった。酒を飲もうと思ったが、手を動かすのが面倒くさくてそのまま寝てしまった。非生産的だな、と思った。
* * *
次に目が覚めたのは一五時で、こんなにも寝てしまったのかとため息づいた。流石にお腹が空いたので棚に手を伸ばした。適当な菓子を掴んで食べる。でもやっぱりお腹が空くので今度はちゃんとカップ麺を淹れた。ズルズルと麺を啜り、斜陽が窓枠の影を部屋の中に映し出すのを見つめた。吐かないかな、なんて心配しながら退廃的な気持ちのまま考えた。私は一体何をしているのだろうか、どこで道を間違えたのだろうか。これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ。辞表を出してから何度この思考の輪を巡ったかわからないが、毎度ここに行き着くのだ。
そんな思考を燃やしたくて、また外に出て煙草を吸う。肺に煙が入るたびに自分が傷ついている気がして、痛くないのに「死」に近付いている気がして、どこか嬉しかった。一本吸って、腕に押し当てて消して、また火をつけて。繰り返すたびに無駄なことやってんな、という気持ちが風船みたいに大きくなっていく。
箱に入ってる最後の一本に火をつけた時、隣の部屋の扉が開いた。何か隠そうかと思ったが、隠してどうなるものではないな、と上げた肘をまた欄干に戻した。
「何やってるんですか、お姉さん。」
「お姉さんなんてやめくれよ、私はもうアラサーなんだよ。」
「そうですか、でもおばさんて歳でもないでしょ?」
「中庸を得た言葉は、なかなかないものだね。」
「帯に短し
「そうだな……、」
彼女は確か
「ときはちゃん、だっけ? 何年生だっけ?」
「今の学年は一年目ですよ。」
「まったくだ、中学の頃から留年していたのでは話にならないからな。」
「中二です。」
「そうか、そうか、」
聞いて何になるんだと思ったが、無言の空間にも耐えられなさそうだったから、それだけ。
そんな二人の間を流れる静寂を、耳障りな爆音が
まあとにかく、Sアラートと言っても家の中に居てくれってことだけだからそんなに慌てることもない。だいたい空襲警報じゃあるまいし、まさか弾雨が降ることもないだろう。そもそもヴァンドレディアなどとかいう武装人工知能は、無辜の市民を攻撃しないと明言しているらしいから、そこまで怯えることもないだろう。なら、私のスマフォまで鳴らさなくていいだろうが。設定画面でこれを切ることもできるが、今は面倒臭いと言ってやらなかった自分を恨むしかなかった。
まあもし切ったところで、市役所や消防署のスピーカーから大音量で警報が鳴り響くから、まあたまったもではない。だから、もし聞きたくないと思ったらイヤフォンを耳にぶっ刺して防音シートの檻に閉じこもらなくてはならないだろう。ある意味で、公認されている点で、暴走族なんかよりよほど厄介な存在だろう。
それでも少し気になるから、いつもは見向きもしない向こうの海へそっと視線をやった。港の方は思ったより騒がしく、既に数隻の護衛艦がVLSー垂直発射装置の火を吹いていた。
水平線の向こうに飛んでいく
その時、国連軍の艦隊からと
紛争の映像を見ている時と、私は何も
「
「怖い、ねえ。自分が被害を受けるまで実感が湧かないのが人間ってやつさ。」
「そういうもんですか。」
「まあ、アラサーになったらわかるさ。」
その時、迎撃に擊ち出されたペトリオットの一つが爆発した。火球になったそれは、私たちの住む団地の方に向かって蛇みたくうねり落ちる。それは
地面に落ちたそれが発する大きな音と、地面の揺れと、それらに驚いて、でも体を動かす気にはなれなくて布団にくるまりたくなった。結局、怖いのだ。
「どうだろう、ここにいてさっきみたいな不良品の犠牲になるか、いっそのこと外に逃げ出してみるのがいいだろうか。」
「う~ん、でもまあ家の中にいた方がいいと思います……、外に出たからといってシェルターがあるわけでもないですし…」
「それもそうだ。まったくときはは頭がいいな。」
「そうですか~?」
「それはそうと、親御さんはいないのかい?」
「親御さんはいますが、家にはいません…、仕事なんです、どっちも。」
「そうか、どうしたもんだかね、まったく。敵は強大で味方の迎撃ミサイルは無能、おまけに我々にできることといったら家に閉じこもることくらいか、やれやれ。」
ふと向こうを見ると、湾内の護衛艦が飛んでくる対艦ミサイルを必死に迎撃しているのが見えた。あれはあさぎり型護衛艦の一〇番艦、うすぎりだろう、火を噴くCIWSが飛んでくるミサイルの一発に当たったらしい。それはどうやら制御不能に陥ったらしく、ローリングを起こし煙を
それは、轟音と共に団地の向こうの方に落ちていった。私が聞いたこともないような、でも危険だということだけはわかるような音がした。
私はときはに覆い被さるように倒れ込み、爆風を背中に受けた。一〇数えて起き上がり、彼女の顔を見た――少し照れ臭かった。こんなもので英雄になれたらなあ、などと思いながら起き上がり、服をはたき、手すりの向こうをまた見遣った。
最早ここにいるのは危険なんじゃないか、そんな気がしてきた。逃げるったってどこへ? シェルターもなかろう、どうしたものだか。爆発音と砲撃音を右耳に入れつつ、足りない左脳を必死に動かした。まったく、脳みそとは必要な時に限って動かないものだなあ。考えろ、考えろ、私はともかく、ときはまで死んでしまったら余計少子高齢化が加速してしまう。いいや、そういうことじゃなくて、命は尊いんだぞ、ええ、ほんとか、そうなのか? ああ、いやいや、違う違う、そうじゃない、どうやって生き残る? ああ、そうだそうだ、一応公式には、私は自衛隊を退職じゃなくて休職ってことになってる。だから、まだカードは有効なはずだ。
「……さて、久しぶりにとりかえしのつかないことでもするかな。」
「……?」
「ついてくるかい、ああ、スマフォと財布は持っておいで。」
そう言って私も家に入ってそれを持ってきた。鍵を閉めて彼女と二人、街に繰り出した。彼女は不思議そうな顔でついてきた。
向こうでドンパチやっているのを見ると、終末世界か、文明崩壊後の世界でも歩いている気分になった。それから二〇分くらい歩くと、頭上のミサイルも気にならなくなってきた。
途中で逃げ遅れた老人ホームの人たちと、迷子になっていた子供を連れて向かったのは、造船所だった。見捨てるわけにもいかないから、連れてきた、と合理化していた。
私が自衛隊に入る少し前、新型戦艦をここで造っているという話と、ちょうどこの頃それが完成するという話を聞いた。
戦艦の中ほど安全なシェルターはあるまい。私に再任用再任用なんてしつこかったお前らに対する罰だ、なんてね。
私は、もうどうなってもいいや、と思っているのかもしれない。死ぬという概念が身近にあり続けると、怖いものなんかない、ある意味無敵。通り魔とえらく変わらない発想だ。
それはいいとして、造船所の中は
艦尾の小型艇収容扉から車椅子の人たちと一緒に入り、迷子の子供を彼らに預けた。そのままペンキ塗りたての艦内を、ときはを連れて艦橋目指して歩き出した。通常の艦艇に比べて余裕のある艦内は、まだところどころ工具が放り出してあった。艦橋に昇るエレベーターに乗ると、凄まじい音と共に
窓から見れば、造船所はところどころ火が出ていた。もしかしたら、敵さんはこの
レーダーには、向こう二〇km先に敵艦の艦影が映っていた。
ちらっとスマフォを見たが、すぐに電源が切れた。そういえばここのところ、充電した記憶がない。でも何か、どこか安心している自分がいたことに気づいた。
頭を振ってその辺に転がっていたエンジンキーを差し込み、緊急機関停止装置の点灯も確認した。
「ねえ、ときは。」
そう言って、艦橋の隅で居場所を無くしたようになっているときはに話しかけた。
「はい、」
「その辺のマイクで、放送範囲を艦内全てにして、艦内にいる人たちに一応何かに捕まるように言っておいてくれ。危ないこと、するからさ。」
そう言って私は主砲発射用の一対の鍵を見つけた。まったく、こんなものを放り出して避難するとか、私に都合が良すぎるだろう。そんなことをやってる内に、ときはは
「ありがとう、じゃあ、こっちにきてこの鍵をもってほしい。」
ときはは、少し不思議そうな顔でこっちにきた。
「この鍵をその穴に突っ込んで、私と同じタイミングで回してくれ。それで、主砲が撃てるようになるはずだ。」
ときははもう何か一つ諦めたように鍵を差し込んだ。
「じゃあ行くよ、せーのっ。」
そう言って主砲の発射許容信号を出した。私はそのまま主砲発射制御装置に手を置いて、自動射撃モードに切り替えた。眼下に見える主砲はゆっくり、ゆっくり右に回り出した。それと同時に、主砲砲身も上を向き出した。
わたしはときはにどこか椅子に座って肘掛けでも掴むように言い、私もそうした。怖くないと思いたくて、緊張していないと思いたくなくて脚を組んだ。椅子に深く腰掛けた頃、ぴたっ、と主砲は動きを止め、一瞬の静寂をつくった。
爆音、轟音、激音。そんな音で鼓膜が破れそうだった。弾が飛び出すたびに艦が震え、作業用の裸電球が落ちてきた。そんな音も気にならないくらいに轟く射撃音の中で、私は、初めて本当の恐怖というものに触れた気がした。下にずり落ちた眼鏡を、中指と親指で眼鏡の両端に触れて元の位置に戻した。
敵艦らしき艦影は一〇数隻を超えていて、その隣には艦型とその諸元が示されていた。
警告らしきマークがモニターに出てすぐ、また艦に衝撃が走る。反撃されたのだ。モニターに映る敵影が数隻、中破や大破のマークに切り替わる。さすが、世界最大最強の主砲だ。
そう思ったとき、敵さんの砲弾の一発が前甲板に着弾し、艦が震えた。モニターから目を離してみると、そういえば辺な形の甲板だな、と思った。第一主砲前の艦首甲板部は主砲と同じくらいの高さまで盛り上がり、そこから主砲のバーベットまでは線路のようなものが伸びていた。幌のようにも見えなくもないが、色は違うし、そもそもこんな装備、他の船では見たことがない。まあ、私が知らないだけかもしれないが。それにしても、衝角と同じくらい珍しい装備だなあ。
最初の一発があたってから、それまで至近、夾叉だった弾丸が、よくよく艦に命中するようになった。迷惑な話だが、こちらは三〇秒おきにしか撃てなかった。それがまどろっこしかったが、至近でも中破判定が出るのだから、大したものだ。
最後、中破の二隻が撤退を始めたのを見計らって私は砲撃をやめた。そのまま椅子に座ってほっと一息つき、椅子を回して後ろを向く。その瞬間、艦橋後部のエレベーターから一〇人近くの人間がわっと湧き出て、私とときはを囲うように扇形に立ち並んだ。実銃を構えたそれらは、私たちに、横柄に、権柄に手を挙げろ、などと言った。
ドラマでしか聞いたことのないこんなセリフを、まさか自分が言われることになるとはなあ。私は観念したように、そして満足したように、手を挙げた。
「……やれやれ………。」
ときはも、おどおどしながらそれに従った。
* * *
私が歩かされたり、車に乗せられたりして連れられて、最後には談話室と書かれた部屋に入れられた。そこにいた人物を見たとき、私は、息を呑んだ。幽霊と出会ったとき、人はこんな風に息を呑むのだろうか。
そこにいたのは、かつて私が幹部学校で師と仰いだ、
「よお、元気にしていたか?」
「私は現金なやつです。」
「相変わらずだな。まあいい、座ってくれ。」
そう言って私は久しぶりにいい椅子に腰をかけた。慣れないものだから、二、三度腰を動かして、落ち着いて足を組んだ。
「将補こそ、お変わりないようで。」
「いやいや、寄る年波には勝てんよ。」
「船も人も、波に抗って進むものです。それも宿命、ですかね。」
「そういうと、安っぽく聞こえるのはなぜなんだろうな。」
「言霊ですよ。」
「もう、死語だな。」
「そうですねえ、私も久しぶり言いました。」
「だろうな。」
「ええ。」
「でも、この前の作戦で失敗してしまってね、私はこんなところに左遷されちまったんだよ。」
「左遷、ですか。窓際というのは、一番日が当たるようで、実は一番日が当たらないところですからね。」
「上手いことを言ってくれるな。」
「どうもどうも。」
「作戦、というのは、四月の頭くらいにTwitterで流れてきたあれですか、あの、沖縄県民救出うんぬんのあれですか?」
「そうだ、そのあれだ。あの時私は司令官でね、救出自体はできたんだが、大和もそうだが、まあ被害はまあひどくてね、私はそれで左遷、さ。」
「お疲れ様です。」
「まあ、疲れないと言えば疲れないんだよ。ここのところ、退院してからずっと仕事なんかしてないし、まあ開店休業ってとこだなあ。」
「いいじゃないですか、給料あるんでしょうから。」
「それもそうだな。」
「そうですよ。」
「それはそうと、あの
「ええ、将補に習いましたから。」
「ああ、さっき言い忘れたが、一応私は海将になったんだよ、ついこの前。」
「ここは素直に、おめでとうございます、と言っておきます。」
「ありがとう、と言っておこう。今まで言われたどんな祝言より嬉しいな。」
「日本人は祝言など謝罪だのを乱用する癖がありますからね。」
そう言って、それが社会を円滑にしているのだ、と思った。メールを送って電話をかけるような馬鹿なことも、それに意味がなくても、それを問うのはある意味人間の劣化なのかもしれない。
「それで
「なんです、幕僚会議で土下座でもしましょうか。」
「まあそう言うな。このままだと罰金で済まないだろうが、一つ、提案がある。」
「手に餡子を乗せて『ていあん』なんて言わないですよね。」
「私は千季じゃないからなあ。」
「歳をとると、皮肉が上手くなるのですね。」
「亀の甲より年の功ってやつだ。日本がいくら民主主義、対等の友達を作る思想の国だとしても、軍というのは、縦社会なんだよ。それこそ宿命のようにな。」
「それで、手に餡子を乗せてどうするんです?」
「多分もう話はいってると思うが、再任用制度ってあるだろう?」
「ああ、二回ほどきましたね、追い返しましたけど。」
「だろうな。並の人間では、千季には敵わんよ。」
「褒められたと思っておきます。」
「それでだ。もしそれを受けてくれるのなら、さっきのはチャラになる。」
「あとはお役所がなんとかしてくれる、と言うわけですね。」
「そうだ。再任用を受けた千季が、
「そういえばさっきの迷子と老人方はどうしました?」
「一応身分証明書だけ見せてもらって返したぞ。」
「さすが、厄介ごとがお嫌いなようで。」
「合理化と言ってほしいな。」
「ときはは、艦橋にいた子はどうしました。私の数少ない話し相手なんですよ。」
「それなら、同じように、何も見なかったねって言って家に帰したさ。学生証は見せてもらったかがな。」
「それならいいんですが。」
「それでどうするね、さっきの話だが。」
「それは脅しでなくとも、不条理な選択ですね。」
「与えられた中でしか選べないのが、常民の悲しいところさ。」
「だから判官贔屓がもてはやされるんですよ。我々は被治者ですから。」
「まったくだ。」
「それで、さっきの話ですがね、」
「無理にとは言わんが、是非にとは言いたい。」
「そうですねえ………、では三つ条件があります。」
「聞こう。」
「一つ、給料や年金の類がきちんと支払われること。二つ、海将と同じ艦に乗れること。三つ、これは後で思いつくと思いますから、今は取っておきます。」
「諒解した。それにしても皮肉なものだな。」
「人間は、皮と肉でできていますからね。」
「上手いことを言うな。」
「おかげさまで、私もアラサーですから。」
「まだ若いさ。」
「若いのは心だけです。」
そこまで言って私は席を立とうとした。
「ああ、それから、もしよかったらこの書類にサインだけしておいてくれ。」
「もう記入してあるじゃないですか。」
「だからサインだけしてくれと言ったんだ。」
「海将、私が断れないことを知っていたんですね、まったく嫌な人だ。」
「先見の明があると言ってほしいな。」
「そういえば、私の階級はどうなるんです?」
「ここにある通りだ。確か千季は一尉になってやめてるよな、それならその階級のままで、さっきの戦いを千季の手柄にすれば、三佐になれる。軍隊で、階級が上がって困ることはそうないさ。」
「それにしても、この戦争が始まってから随分階級インフラが起きているようですね。」
「そんなもんさ、まあ生き死にの際で襟章なんか役に立たんよ。気休めと、思っていてくれ。」
「そうですね、受け取っておきましょう。」
そう言って私はサインした紙を渡し、席を立った。
「荷物をまとめてきます。」
「それがいい。」
「ところで、私が乗る
「国連軍第一三独立艦隊の旗艦、戦艦海神だよ。さっき乗った動かしたやつさ。」
「運命ですかね。」
「似たようなもんさ。ああ、私は艦隊司令をおおせつかったからな、よろしく頼むよ。」
「ではまた後で。」
そう言って私は、談話室の扉を閉めた。
* * *
外はもう夜で、家まで帰るのは早く、家に帰るとすぐに私は玄関に突っ伏した。今日は人と話しすぎた、色々ありすぎた。まったく迷惑な話だ。戦争だの、再任用だの、全部どうでもいい。そんなこと、全部、
そうは言っても、一旦動き出した世界は、どうしてなかなか止まってくれない。ひとまずはこの汚部屋の、せめてゴミだけでも片付けておかなければな。自分ではなんとも思わないが、人が見たらドン引くだろうから。
そう思って起き上がったとき、空のインターフォンをカチ、カチ通す音がした後に、扉をコン、コンと叩く音がした。取り立てかな? 金なんか借りた記憶がない、じゃあ何だ、税金でも滞納していたかな? それならわかるが。
「すいませーん、いらっしゃいますか?」
どこかで聞いた気がする、そう思って扉を開けると、明るく、どこかお水系の女性がときはと一緒に立っていた。
「あたし、ときはの実母の水上
「どうも、どうも。」
「いつもときはがお世話になっているようで、」
「いえいえ、こちらこそいつも私のヤニカスを吸わせてしまってすいませんね…。」
「いいんですよ、麻薬より安全ですから。」
「そうなんですか?」
「そういうもんですよ笑」
「それより本題は…?」
「本題は、というか、こんなことお願いするの申し訳ないんですが……、」
彼女はすこし、ためらったように下を向いて、それからいった。
「うちの子を、連れて行ってくれませんか?」
「…………えぇ…⁉︎」
人間は、大抵、予想の中で生きている。予定調和、と言えばいいだろうか、AIもそうだが、それに続くことは大体決まってる。文法的に正しいとか正しくないの上に、それはたぶん存在しているのだ。「地球は」の次に、「丸い」や「青い」は自然に存在できるが、「四角い」や「赤い」はなかなか来ない。これを常識とでもいうのだろうか、そう言えばそんなのがあった。言語学的に非文ではないが、意味の通じない言葉、|〝Colorless green ideas sleep furiously〟《色無き緑の考えが猛烈に眠る》だったかな。構文的には正しいけれど、意味的には意味をなさない文章の例だったはずだ。
だから、何にしろ、予想だにしないことを言われた人間は少し立ち止まらざるを得なくなる。
「ウチ、今旦那が今出張中で、でもこんなドンパチで、困ってるんです。」
「私のせいじゃないんですが…。」
私は小声でつぶやいた。
「それで、千季さんって、なんか自衛隊で頭よかったんですよね? どうにかこの子を守ってやってくれませんか…?」
「…いや……、でも………、」
「お願いします、謝礼は十分払います、ですから…」
私は普段使わない頭を必死に回した。今日は体力を使う日だなあ。それにしても彼女、奇瑞さんと言ったか、いい人なんだろうが、苦手なタイプだな。
それにしても、どこの国に安全のために子供に軍人を預けるやつがいる? いや、いない。ああ、なるほど、こういうときのための反語表現か。
「いやでも、私、すぐに戦艦に乗るんです。戦艦というのは、」
「戦艦というのは、硬くて丈夫なんですよね?」
私は、こんなにナイーブに反論の余地を奪う言葉があることが、もはや面白いと思えてきた。
「いや、まあ、そうなんですが、なにしろ損耗率が激しくて、」
「駆逐艦とかの方が沈みやすいんじゃなかったですか?」
彼女の純粋な瞳が嫌いになってきた。こうなっては、私は諦めるしかないのだろう。不条理な選択肢とはよく言ったものだ。
「そうですねえ、それでは私から少し、いいですか?」
「はい、なんですか?」
「普通、軍隊というのは縦社会で、ファルス的な空気がまだ残っているんですよ。改善されてはいますが、一〇〇%ではありません。自衛隊が軍だとか軍じゃないとかいうのは置いておいて、海というのは、深く、果てしないものです。そして、私も、
彼女は黙って聞いていた。
「だから、娘さんに万が一のことがあるやもしれません。もちろん、もしそうとなったら私が守りますが、成功するとも限りません。」
「大丈夫ですよ~、地球上に絶対に安全なとこなんかないですもん。」
「そういうもんですか?」
「そういうもんですよ、たぶん。」
「えと、では、上司と相談しますが、多分いいと思うので、荷物だけ用意しておいてください…、あっ、階級は、無理にでも上げておきます…、何につけても帰省させますので……、そんな感じでいいですか?」
あーくそ、コミュ障出ちまったよ。
「お願いします! ほら、ときは。」
「不肖
私は思わず吹き出してしまった。
「あ、ああ、あー、あ、うん。よろしく…。」
「社会勉強にもなるもんね。」
そういって一礼し、二つの台風は去っていった。私は、その背中をただぼうっと見るしかなかった。空いた口が塞がらないとはよくいったものだ。
家の扉を開けて玄関に転がり込み、服をその辺に脱ぎ捨てて布団に転がった。今日は色々あった、ありすぎた。顔に手の甲を乗せて、もう随分暗くなった夜の空気と、カーテンの外から漏れる街灯の灯りにいつか見た、どこかで見たような気がする木漏れ日の温もりを思い出した。既視感、なのかな。その辺に立っている焼酎のボトルをあおり、生ぬるくて不味いな、なんて思ってみた。
そうだ、ときはの件を直木海将に連絡しておこう。そう思って一〇〇〇件を超える未読がついたメールフォルダを開いて、直木海海のメアドを探す。最後にメールが来たのは、私が休職したときか。彼は私を排して体裁を守ろうとした上層部に、私の味方をして戦ってくれた。ああそうだ、それが嬉しかったんだ。
「三つ目のお願い」と件名を書き、メールのくせに前書きのないまま、LINEみたいなテンションでときはのことを書いて送った。早いところ、海将とLINEを交換しておいた方がいいかもな。
そこまで思って目を閉じた。瞼の裏には、かつて信じたコスモロジーの破片が、ひどく刺さっていた。
* * *
朝、海将の声が聞こえたような気がして目を覚ました。気のせいだったかな、と思ってスマフォを見ると、今度は確かに私を呼ぶ声が聞こえた。何だ現実か薄い現実だ夢だなんて言葉が頭を
昨日は眼鏡をかけたまま寝てしまったらしく、頭はぼんやりしているのに視界は、
共用廊下の端に直木海将はもたれかかっていて、フランスパンをかじっていた。
「フランスパン好きなんですか?」
「いいや、賞味期限が近くて半額だったんだ。十円節約するのは十円儲けるのと同じだからな。」
「いかにも海将らしい発想ですね。」
私は頭を掻きながら言った。
「食うか?」
そう言って海将は、買い物バッグからもう一本フランスパンを取り出した。それにしても制服と買い物バッグとは、珍妙な取り合わせだなあ。
「食わせておいて、さて、なんて言ったりしないから安心してくれ。」
そう言われて私は腹が空いていたことに気付き、それを受け取った。確かに袋に半額シールが貼ってある。一口かじって私は言った。
「久しぶりにまともなものを食べた気がしますね。」
「だろうな、そんな格好では、生活水準が思いやられるというものだ。」
「世の中は金で、私は貧乏です。」
「そういうことになるな。」
「それで、海将自ら酒カスニート女に何か御用ですか?」
「まあそう
「私も、海将とは
「嬉しいことを言ってくれるねえ。」
「どうもどうも。」
「それで、昨日、メールをくれただろう? 三つ目の条件は、もちろんいいさ。彼女の、ときはと言ったかな、階級は私の権限で艦隊司令部付の海士長にしておいたよ。」
「どうもどうも……、あー、私の階級は、三佐でしたっけ?」
「そうそう、あとこれが制服だ。どうせ千季のことだから捨てただろう?」
そう言って海将は、新品の制服一式を買い物バッグから取り出した。
畳まれた制服の上に付けられた階級章が、どうもどうも私には不釣り合いな気がした。
「それと、これをときはとやらに渡しておいてくれ。」
そう言って海将はときはの服も差し出した。あのバッグは四次元ポケットか何かの類だろうか……、重いな。
「そうだ、海将、ときはの特定秘密取扱者の資格、取っといてくれません?」
「諒解した、ああ、まあ、気楽にやってくれ。いきんだって出るのはクソだけさ。」
「汚いですが、それもそうですね…。」
「それと、今日の夕方くらいまでに、荷物をまとめて来て欲しい。」
「何持っていけばいいですかね?」
「そーだなあ、酒と煙草はまず必須だろう?」
「はあ、」
「禁酒令を出すつもりはないが、飲み慣れた酒が一番うまいもんさ。」
「ぅーん…、」
「それから、貴重品かなあ。ああ、この場合の貴重品というのは世間一般の貴重品じゃなくて、千季が貴重だと思っているものでいいだろうな。割れたスマホでもなんでもいいさ。」
「どうして私のスマフォが割れている前提なんです?」
「千季は器用なくせにそういうところはズボラだからな。というか、まだスマフォ、って言ってるんだな。」
「私の
「そうか、」
「それで、その修理費用、どっからか出してもらえませんかね?」
「そうだなあ、ひとまず私が払って、あとでしれっと立て替えさせよう。」
「悪どいですね、お代官様。」
「代官山は渋谷区だ。」
「ふふ、相変わらずですね。」
「コロコロ変わる人間は、信用できないものだからな。」
「飯能信用金庫。」
「千季も、相変わらずだな。」
「そうですかね。」
「舵を操るんだ。」
「操舵、ですね。そうだ、とかけてそれ、何度も聞きました。」
「年寄りは同じことを何度も言うんだ。」
「嫌ですね、年をとるのは。」
「でも後少しで年金がもらえるのはいいぞ。」
「雀の涙ほどですがね。」
「どんなに少なくても、ないよりはましさ。」
「そういえば、LINE、交換しませんか? メールでああいった文面を送るのは、どうも
「電気抵抗出なくてだな、まあ、あれは読む方も
「角速度の話ではなくて…、まあ、そういうふうに書きましたから。」
「ほら、これが私のLINEだ。」
私は久しぶりに「友達」を追加した。
「じゃあ、割れた窓は何とかしておく。それと、夕方くらいには来てくれ。」
そう言って海将は去っていった。それを横目に見送って、ときはに制服だとか何だとかを渡した。
玄関に入り、眠いのに気づいて、それでも私はこの部屋を何とかしないとと思った。
今になって悔やんでも遅いが、悔やまざるを得なかった。ひとまず、ごみを袋に全部詰めようと思ったが、そもそも袋がないことに気がついた。まずいな。
しょうがないから一つ一つ手で拾い、シンクに放り込んだ。本来皿を洗うところなのに、一度もその用途で使ったことはない。それが今になってこんなふうに使われるとは、シンクも驚くだろうな。
ごみはシンクから溢れ出した。弱ったなあ。さっきもらったフランスパンの最後のひとかじりをし、ため息をついた。到底部屋は片付きそうになかったから、貴重品だけ集めることにした。
部屋のあちこちに置いてある飲みかけの酒を、全部焼酎の瓶に詰めて缶を捨てた。とんでもない味になっているだろうな、この焼酎。
それから煙草といつかもらったライターをポケットに入れた。あいつ、元気にしてるかな。
煙草は、吸わなくても落ち着く。結局は口唇期の固着、とどこかで聞いた気がする。
それから、リップやらリスカ用のカッターやら
あとは、思い出したくもない、春を売って得た金を咥えている財布と、ポケットにスマフォが入っているのを確認してこんなもんかと思った。あとは何かあるかな? 焼酎を手に取って、玄関に置いてあった制服を手に取って外に出た。振り返ると、割れた窓から光が差し込んでいるのが妙に
玄関の鍵を閉め、下を向いてそういえば、と思い、ポケットの中のポーチを開けて、カッターを取り出した。左手を後ろで回し、胸の辺りの高さで腰まである髪を握る。一息吸って、玄関の前に足を踏ん張り、カッターを横に流した。少し痛かったが、一気に髪を切った。握っている一房の髪を、風の赴くままに空に流す。
もう一息吸って、やっと私は踏み出す。
私は、やっと覚悟がついた。
* * *
昨日行った造船所は、思ったより近く感じられて、経験というのは世界を小さくさせるものだな、と思った。
深いため息をついて、それを消すように首を振り、造船所の敷居を跨いだ。海神などという
振り向くと、海将が恍惚感を含んだ顔で立っていた。
「私の背後をとるとは、流石ですね。」
「これでも、昔、私は手がつけられられないような愚連隊の隊長だったからな。」
「らしいですね。」
「それで自衛隊に半ば無理矢理入れられて、それでも意外面白かったから大学入って幹部候補生になって、んでトントン拍子に出世して、ほとんど玉突きみたいなもんだが、それで今度は国連軍の愚連隊の
「十三艦隊でしたっけ? 愚連隊なんですか、私が勤務するの。」
「まあ似たようなもんだ。開戦からもう一ヶ月半を数えるが、各国が国連軍を組織したって対立は熾烈の極致を極めているし、AI相手に戦っているもんだから
「人間は、所詮裸の猿ですからね。それに頭でっかちな
「その『彼ら』の中に私が入っていないといいんだが。」
「それはすいません、訂正しましょう。彼ら、ではなく海将以外の全ての上司、と言いましょう。」
「それならいい。それはそうと、髪切ったか?」
「わかりますか?」
「わからいでか?」
「いや、海将にとって他人の髪の増減などアウトオブ眼中なのかと。」
「千季は私の愛弟子だからな。それにしても、古い言葉を知っているな。」
「アラサーですからね。」
「全てのアラサーがそうというわけではないさ。千季だからだよ。」
「褒めてるんですか?」
「
「というより、変人扱いされているように聞こえましたね。」
「変わっているというより、どちらかというと抜きん出ているという意味で言ったぞ。」
「主観の相違ですね。」
「そういうことだ。」
「つまらないギャグはおいといて、作業はどこまで進んでいるんです?」
「あらかたオーライだ。補修も含めてあと数日で終わる予定だ。」
「あらかたオーライ、って戦前のギャグですね。」
「そおかあ? そんな古いか?」
「それはおいといて、そういえば、私の役職は、そういえばなんですか?」
「艦隊副司令、でどうかな?」
「副司令、ですか?」
「そうだ、司令に
「私はガルニチュールですか。」
「まあそう言うな、それはそうと、ガルニチュールなんて聞いたら腹が北山。」
「北山川は熊野川に注いでいますが、そうですねえ、何か食べられるものはありますか?」
「そうだな、多分食堂があるが、どうせそこでは嫌だろうから自室に持って行って食べるといい。」
「どうもありがとうございます。」
「ああそれと、大月大佐、」
「…私が大月ですが、」
「こちらが見ての通り、海神の先任伍長の大月
「よろしく、お噂はかねがね。」
「悪い噂ですか?」
「まあそうからかってやるな。」
「すみませんね、ブルーデーなので。」
「はあ。」
「あと、こちらが
「安善です。安全第一でやってます。」
「まあこういう人だ。」
安善という人は面白そうな人で、いや、どちらかというと尻の軽そうな奴だった。
「そろそろときはも来るかな。」
「そうですね、折角ですから、ときはと艦内を見て回りたいのですが、何か、トリセツみたいなものはありますか?」
「ああ、まあ機密も書いてあるがいいだろう、ほら。」
そう言って海将は仰々しい表紙の、分厚いファイルを手渡した。デジタル化の時代なのに。まあいい、どこかのアニメの一話でも、宇宙世紀なのに操作説明書はバインダーだったしな。
「足元には気をつけてな。」
そう言って海将はその場を後にした。それと入れ替わりに、ときはが慣れない様子でちかずいてきた。
「整理はついたかい?」
「はい、次はいつくらいに帰れる感じですか?」
「さあ、敵さんに聞いてみないとなあ。でも、半年以内には帰りたいと思ってるよ。私も、あのクソボロ団地が恋しいしね。」
「そうですか…。」
私は、少し寂しそうな顔をして俯くときはの頭をぽんぽん、と撫でた。ときはほどの人でも、こんな顔をするんだな。そういえば、私も最初はこんなんだったな。
「まあいいさ、若いからすぐ慣れるよ。まあまずは腹ごしらえしよう。」
そう言って私は食堂に足を向けた。しかし、そこで一つの疑問が湧き上がった。というのも、私の部屋はこの分厚い紙に書いてあったが、ときははどうなんだ?
慌ててその辺で作業員と話してる海将に尋ねた。
「ああそれか。急なことだったからな、しばらく千季の部屋にいさせてやってくれないか?」
私はときはの横顔を一瞥して答えた。
「わかりました、はい…。」
そう言って私は焼酎を一口すすった。やはり、混ぜ物はまずいな。階段を上がって、今度はちゃんと入り口から艦橋基部の下にある私の部屋に入った。部屋は狭くはなかったが、二人で寝起きするには狭そうだった。
ひとまず私はその辺に荷物を放って、ベットの上に倒れ込んだ。疲れた。
ときはは私と違ってベッドの脇に荷物を起き、私の隣に座った。
「いやあ、すまないね、こんな大人で。」
「大人がどんなものかよく知りませんが、少なくとも千季さんは連続殺人鬼ではありませんから。」
「そうかい?」
「それに、千季さんの隣は、落ち着きますので。」
「愛の告白だねえ、」
「愛の告白なら、こんな風にはしませんよ。」
「そうだな。」
「それと、制服着ますので、」
「私はずっとこのまま壁に向いてるよ。」
「あっ、はい、」
後ろでがさがさ音がしている間、私はついうとうとしてしまった。久しぶりに、と言うか随分ぶりにまともな布団で寝る。布団はこんなに柔らかいものだったんだな。
「どうだい? 初めて袖を通した気分は?」
「そうですね、やっぱりちょっと大きいですね、」
「そうかい? まあすぐ大きくなるさ。」
「千季さんみたいに?」
「私はパンピよりまあ大きい方だからな、今いくつだっけなあ、確か一七二か三くらいだったと思うんだけどなあ……、というか、私も着替えたほうがいいかな?」
「だと思います。」
袋を開けて服を取り出す。ズボンはまだいいとして、上はどうも着たくなかったから、下着の上から羽織るだけにした。
「それはそうと、飯を取りに行かないかい? 私は腹が空いて仕方ないんだ。」
「そうしましょ、さ、行きますよ。」
「はいはい、」
私はそう言ってダルそうに立ち上がった。実際ダルかったが、自分で思ってしまうほどオーバーアクションな気がした。一人相撲だな。
部屋に戻って手を合わせる。私が乗っていた時に比べて随分白米が美味い気がした。大型艦ならではの大釜で炊いたからだろうか。それにしても、これだけの大型艦となると道に迷うな。
私は少ししか食べる気になれなかったが、ときはは随分大盛りにしてもらったらしい。育ち盛りだからな。
私は、吐かないかな、なんて思いながら少しずつ食べた。そもそも箸を持つのも久しぶりで、それでも持ち方を覚えているもんだな、と思った。昔取った杵柄とはよく言ったものだ。
ご飯は半分も食べないうちに飽きてしまって、すぐかの焼酎に手を伸ばした。やはり不味かったが、愛着のようなものが湧いてきた。
ときはに私の分を食べてもらって、バキバキに割れたスマフォを一瞥した。まだ一九時過ぎで、私はゆっくり立ち上がり、背伸びをした。久しぶりに人間らしい生活の一端を味わった気がする。
さっきもらったぶ厚いファイルをもって、タウンページみたいなもんだな、と思いながらページを手繰った。食器だとかなんだとかを持って、それを艦の探検ついでに返すことにした。
食器を返し、まずは甲板に出た。暮れなずむ空はやはり美しくて、吹きすさぶ夜風が心地よかった。最初に見えたのは主砲で、ファイルによれば二一.五インチ砲だという。二一.五インチといえば大体五五cmか。この前沈んだらしい大和が四六cmで、次級の四季島型が四九cm、それでその次の碧海型と海神が五五cmか。順当といえば順当に、奇形的といえば奇形的に巨砲主義が
主砲は夕影を受けて鈍い
「ときは、いいかい?」
「あっ、はい、」
そう聞いて私は、ポケットから煙草とライターを取り出した。手すりの柱の部分にもたれかかって火をつけた。
夕方の煙草は、うまいな。
ふぅ、っと煙を吐くと、煙がオレンジ色に霞んで見えた。それが、妙に虚しかった。
一服して艦首の方に足を向けた。最初に乗った時も思ったが、この盛り上がりは何だろうか。準同型の碧海型はこんな出っ張り? 的なのはなかったはずだ。雷型駆逐艦とかの艦首が波浪に突っ込んだときに海水をすくい上げないように、水はけの良い
近づいてみると、主砲からレールのようなものが伸びているのに気がついた。そしてその先には、石碑のように上が半円型の長方形の扉にようなものが五つ、主砲の延長線上にあった。足元の主砲の斜め後ろにも放射線状にレールが伸びていた。
ファイルを見ると、「第一主砲砲身交換装置」と書かれていた。簡単にいえば、砲身命数が八〇発程度だから、戦闘中に撃てなくなる可能性がある。それは困るから、砲塔を斜め後ろにに回転させ、命数の尽きた砲身のロックを外し、斜め後ろに伸びるレール上の台車に乗せて外す。主砲身の外れた砲塔を正面に向かせ、砲身交換装置の中に格納されている砲身がレール上を進み、主砲に接続してロックをかける。これでもう一度撃てるようになるらしい。全然簡単じゃない。
確かにそれは便利だが、四主砲のうち、一主砲だけこのような装置がついていると言うのはむしろ使いづらいのではないのだろうか。一つの組の中で一人だけ上手い奴がいると、むしろその組の全体としての力は弱まる。上手い奴に
とにかく、一人だけよくできるというというのはやはり問題なのだ。私が設計したわけじゃないが、大戦時に活躍した駆逐艦の魚雷発射管のように全部の発射管が魚雷自発装填装置を持っているのならいざ知らず、こりゃ扱いづらくて仕方づらいだろうな。まあ使ってみなきゃわからないが、これは過剰に期待しないほうが良さそうだ。
そう思って艦首の方まで一通り回った。盛り上がりは装置の中心より少し手前まで上り坂になっていて、そこからは艦首まで緩やかな下り坂になっていた。
反対側をぐるっと回って今度は
艦首から第一主砲まではフレアがついていて、そこから第二主砲の後ろ、艦橋の前までは坂になっていた。
主砲を二基右に見て、雛壇状の機銃群の基部に登った。機銃群、と言っても機銃の他に何基も五インチ砲やレールガン、高出力マイクロ波照射装置などが備えられていて、雛壇の上と前後に機銃が並んでいる感じだった。その雛壇の一番下の部分は甲板にめり込んでいる形になっていて、そこにレールガンが付けられている。三笠や金剛などの二時大戦時の戦艦の副砲の上が外され、前後の甲板とのギャップは八〇度くらいの角度がつけられた坂で埋められている。そこから煙突などのあたりまで中心に向かって雛壇状になっていた。
煙突は直角から後ろに倒れる形で角度が少しついていて、その後ろには後部艦橋があった。それら機銃やらレーダーやら射撃式装置やらにまたがるようにマストが立っていた。
雛壇の左右にハリネズミの針のように広がる砲熕武器たちの上を歩いていった。妙に気分が高鳴る。男性原理が嫌いな私が、こんな権威を背負って歩くようなことをするのは、もはや鼻で笑うしかないな、ウケる。
太陽はもう沈みかかっていて、私はもう二基の主砲を横目に、艦尾まで向かった。第四主砲から艦尾までは意外と長くて、普段運動してこなかった私にとっては辛いものだった。まあこの場合、自分が悪いのだが、なればこそ悔やむというか、
何にしろ、時はもう夜風の支配する舞台となり、ただただそれは冷たく、そして少し優しさだけを孕んでいた。
物珍しい目で辺りを見回すときはを横目にもう一本吸おうかな、と思った時、急に呼び出しがかかった。うるせえな、と思いながらライターをしまい、手すりから背中を離した。
「ときは、しち面倒くさいことが起こったようだね、戻ろっか。」
そう言って私は歩き出した。
「何だと思いますか?」
「そうだねえ、敵機来襲、みたいなのかな。」
「それだったら警報じゃないですか?」
「だよなあ、何か悪いことしたかな?」
ときははそれ以上答えなかった。まあ、この状況で緊張しないほうがおかしいだろうな。
それは、私だって例外じゃない。艦橋のエレベーターに乗っている時間がどうも長く感じられた。エレベーターの扉が開くと、艦橋は騒々しい雰囲気を纏っていた。
「何か悪いことしました?」
「敵さんがね。」
海将は落ち着いた口調で言った。
「レーダーに引っかかったんだが、これを撃滅せよとのお達しだ。」
「はあ、」
「作戦を、立ててくれるか?」
「給料分ですから…、詳しく聞きましょう。」
「つい少し前、哨戒機が小笠原諸島付近にいる敵さんの艦隊をキャッチした。戦力は、戦艦四、重巡も同数、駆逐艦一ダース、潜水艦も何隻か、といったところらしい。こちらは準備が出来次第出航だ。出航後、途中で他の艦が加わる予定だ。」
「他の艦、というのは具体的にどんなもんです?」
「うちの艦隊はまだできて少ししか経っていないから、艦隊の全艦が揃ってないんだ。今間に合いそうな距離にいるのは、えーと、」
海将は机に備え付けられた地図を見ながら続けた。
「第五戦隊の甲斐と飛騨、あと直衛の第一独立巡洋戦隊の黒姫、あとは在日米軍の重巡、ユーティカとシトラスハイツ、軽巡天塩、それから駆逐艦のゴードン、ネビル、サーハンディー、ラスティー、第十三駆逐隊の宵崎、朝比奈、東雲、暁山、それで、第一護衛戦隊のあさぎり、やまぎり、ゆうぎり、あまぎり、第四潜水戦隊の春潮と夏潮、それからこの第二戦隊で旗艦の海神だな。」
「旧型艦揃い踏みじゃないですか、それに戦力が同数にも満たない…、あと、ユーティカとシトラスハイツって原子力打撃巡洋艦とかいう物騒な奴じゃなかったですか?」
「そうだ、うちはその目一杯物騒なのと解体寸前のやつが幾つか、それで旧式艦のオンパレードの艦隊なんだよ。新しいのはこの
「そして試験もやってない戦艦が旗艦ですか。」
「先が思いやられるな。」
「まったくですね。」
「敵さんの情報は他に…?」
「艦隊はこの分で行くと明日の昼までには八丈島のあたりまで来るらしい。だから、海神も朝には出航せんといかん。」
「間に合いますか?」
「無理でも行くさ。まあ、ギリギリ間に合いそうだがね。」
「そうですか、」
「では先に出られる
「もう連絡したさ。」
「さすが、手回しの良いことで。」
「褒めても何も出ないぞ。」
「それはそうと、艦級なんかは、わかります?」
「えーと、戦艦はいつぞや奪われたコネティカット級らしい。」
「あぁ、あれですか?」
「そうだ。それとファーブル級も二人。それから、重巡はマクリーシュ級。
「錚々たる面々ですね、まったく、敵さんも、偉人の名前を、奪った艦の艦名につけてくれなくても良さそうなものを…。」
「それが狙いかもしれないな。もちろん一つだろうが、それでもやはり、自分たちが反逆者という気がしてくるからな。」
「ですね。」
「じゃあ、作戦を考えてきます。一人になれそうな部屋、ありますか?」
「ああ、この下に作戦室があるから、そこを使ってくれ。CICの上だ。」
「では…、じゃあときは、行くよ。」
「あっ、はい。」
資料やら地図やらを貰ってエレベーターで降りると、整然と椅子が並べられた部屋が視界に入った。こういうものを見るとぶち壊したくなる。ひとまず一番奥の少し高そうな椅子を踏み台にして、机に上がった。机は一〇つほどあり、長方形に並べられており、真ん中には一辺が一mと少しありそうなサイズのデジタル地図があった。
机の上にあぐらをかいている私を、少し怪訝な目で見ているときはに言った。
「ねえ、ときは、消しゴムがないか聞いてきてくれるかい? そうだな、三ダースくらい欲しい。それから、赤と緑の油性ペンも一本ずつ頼めるかい?」
彼女は不思議そうな顔で頷き、外に出て行った。道を教えていなかったが、ファイルを持っているから大丈夫だろう。
五分もうとうとしていると、扉が開き、消しゴムの箱を三つとペンを二本持ったときはが帰ってきた。
「ありがとう、じゃあ箱を開けて半分はスリーブを外してくれるかい?」
「あ、はい。」
その間に私は消しゴムの上面の白いところに右に緑、左に赤色のペンで色をつけた。外したスリーブとペンを空いた箱に入れ、消しゴムをスリーブのないものとあるものを分けてを地図の上に置いた。
「スリーブのない裸のやつがわれわれで、そのままのやつが敵だ。緑は右で、赤は左を表す。」
ときははこくん、と頷いた。
「じゃあ考えてみようか。」
ときはは椅子に座って私の話を聞き、私は作戦を命令書のコピーの裏に書いていった。
* * *
二時間持ったった頃、時計は一〇時を過ぎていた。
「ありがとう、ときは、ゆっくり休んでてくれ。あしたは朝早く出るからね、おやすみ。」
そう言って私は、眠そうなときはがエレベーターで降りるのを見送った。私は机に乗ったまま、作戦のたたずまいを何度も見直した。
自分が艦隊を動かすという実感は湧かなかったが、戻れない楔が打ち込まれた気はしていた。失敗したくない、そんな気持ちが焦燥感とやらを際立てた。
眼鏡を外して目を擦ると、海将がエレベーターから降りてきた。
「どうだい、調子は。というか、ときはは?」
「ときはは寝かせましたよ。銚子なら千葉県です。」
「死者を悼むんだ。」
「それは弔詞ですよ。」
「バレたか。それで、作戦はどうだい?」
「一応は立ちましたが、」
「自信はない?」
「ですね。」
「作戦に完全な自信があるほうが怖いさ、何たって、それは臨機応変という言葉から一光年からの距離があるからな。」
「柔よく剛を制す、みたいなあれですか?」
「それみたいなあれだ。」
「はあ。」
「見せてもらおうか、私の愛弟子の作戦とやらを。」
「どうぞ、」
「ふぅう~ん、……、」
「……どお、ですか?」
海将は紙を一枚めくり、笑い出した。
「命令書に書くやつがいるかよ、千季、まじで、くっ、まじでさー、はっ、ねえ。」
「笑いが取れるかな、と思いまして、」
「なら成功だよ、ほんと、千季らしいな。」
「アイデンティティーの拡散は危険ですから。」
「だなあ。でも、ほんといいんじゃないか? 数箇所疑問は残るが、が、やはり、さすが私の弟子だ。」
「どうもどうも。」
「じゃあ、夜に日を継いで会議といこうか。」
「ええ、もう徹夜は覚悟してますよ。」
「すまんな……、それと、会議の間だけでいいから、椅子には、座っててくれよ。」
「あっ、ああ、あ、はい……。」
……ちくせう、言い返せんな。
* * *
「では、作戦会議を始めよう。敵は強大で我が軍はガタガタ、圧倒的な戦力不足、それでも戦わねばならんので、ここに集まってもらった。さて、早速作戦を私の愛弟子から説明してもらおう。じゃあ千季。」
「あ、はい。一応艦隊副司令の、空華三佐です。さて、作戦ですが、そも、えげつない命令が来てまして、というのも、敵さんの艦隊の戦艦の一部、アメ公の新鋭戦艦、コネティカットとジョージアで、建造費がものすごくかさんだらしく、できれば壊さずに拿捕してほしいなどというんです……。迷惑でしょう? しかもその二隻、みなさんご存知の通り、史上最強の戦艦と謳われ、そして強奪された後、二度の戦いで国連軍を壊滅させた奴らなんですよ。やばいですねぇ、ほんと。」
「そだねー。」
安善大佐が両手を組んだ上に、どこぞのゲンドウみたく顎を乗せて言った。
「それで、それを主眼に置いた結果、彼らが降伏するという選択肢を持ってる前提で話を進めますけど、つまり、この場合、兵糧攻めか、武装だけ使えなくするか、もしくはぐるぐるに締め上げて物騒なまま本土に連れて行くか、そんなもんだと思います、選択肢。まあもちろん他にもありますが、現実的、つまり、われわれの戦力で無理なくできることはそんなものでしょう。」
大月先任伍長が頷くのを目の端で捉え、視線を虚空に戻した。
「そこで、この三つをさらに精査すると、最後のものは途中で逃げられるかもしれないし、主砲は三連装のものが一隻につき六基一八門ですから合計三六基、味方艦の被害は目も当てられない程になることは容易に予想できますし、兵糧攻めは時間がかかります。そうすると、二番目の武器だけ使えなくするというのが選択肢として妥当かと思います。」
海将は後ろの方でニヤニヤしながら聞いていた。
「さて、その方法ですが、外から攻めてダメならば、やはり内から攻めるしかないでしょう。」
「内から、ですか?」
大月先任伍長が怪訝そうな目で言った。
「そうです。そのために、国連軍の陸戦連隊、
「ローゼン何とかって、あの特殊部隊みたいなあれか? あの、荒くれ者の集団の、」
安善艦長が言った。
「そうです、他に空いてる部隊がなかったからですが、まあそうです。あの愚連隊です。薔薇の愚連隊という名前はさておき、彼らの実力はみなさん知っての通りです。それを突入させ、艦橋を制圧したのちひとまずここに回航して引き渡し、という形になりましょう。」
しばしの沈黙の後、大月先任伍長が口を開いた。
「それで、他の作戦は?」
「それは……、」
* * *
「どうだったかい?」
「いや、会議という名前がついている割には、有意義な時間だったんじゃないでしょうか?」
「まあそうだな、あそこにいた連中はみんな、そんな感じの奴らだからな。艦長は上官を殴ってここにきたし、先任伍長は何かと口うるさくて嫌われていたからな。まあ私も
「要するに、ダメダメな連中が集まってダメダメな
「自分で言うのと他人に言われるのでは、まあ違うが要するにそういうことだな。」
「ですね。」
「そういえば,作戦名は何か決まってるか?」
「ああ、そうですねぇ、」
やばい、考えてない……、何か、ええと、他の………
「
「ほう。烽号、か、いい名前だな。」
「そうですか…?」
「そうだ。
「ならいいんですが…、」
「まあもう寝てくれ。明日は否が応でも五時くらいに起きてもらわにゃいかんからな。」
「いやですねえ、遅寝早起き。」
「まあ、軽く期待しているよ。」
「おやすみなさい、海将。」
「ああ、千季。」
そう言って私は会議室を出た。至極眠かったから、床に倒れ込んでそのまま重力に引かれた瞼を閉じてしまった。いつぶりだろうか、こんな健康な入眠をするのは。
* * *
「起きて下さい、千季さん、呼ばれてますよ、千季さん……」
そんな声で目が覚めた。
「今、何時だい?」
「四時台です。」
「ええ、まだあと一時間あるじゃないか、」
「いいえ、四時五九分です。」
「じゃあと一分だけ寝かしてくれ。」
「もういい加減起きて下さいよ、ほら、直木海将が艦橋で呼んでましたよ。」
私はやっと降参して、目をこすりながら起き上がった。
「じゃあ、行きますよ。」
そう言って、ときはは私の手を引いた。こういう人が隣にいて欲しい人生だったな、なんて思いながら艦橋に上がるともう日は登り始めていて、出航準備で艦橋は騒がしかった。
「おはよう、五時間ぶりくらいだな。よく眠れたか?」
「ええ、おかげさまで。起こされなかったら、もう少しよく眠れたんですが。」
「まあそう言わんでくれ。」
「出航用意は、どうなってます?」
「修理やら艤装は何とか終わって、あとは出航してできるものだけだ。機関の試運転はしたは、調子は良かったぞ。武装のチェックはあと少しで完了する。」
「残業というか、おつかれさまです。」
「まあいいさ、このくらいなんてことない。それより、ときはの特定秘密取扱の資格、とれたぞ。ほら、これだ。」
「これで、私の紅茶を用意してくれる子がいつでも隣にいるわけだ。」
「それが仕事なんですか?」
「それも、だな。ひとまずときは、厨房に行って、みんなの朝飯をとってきてくれるかい?」
「はい、海将。」
そう言ってときははまたエレベーターに乗って降りていった。海将は忙しそうに動き回っていて、私は特にやることもなかったから、もう一回作戦書を読んだ。作戦書は夜中のうちに清書されていて、烽号作戦と題された表紙と、そこに押された無数の朱印に、一抹の不安を覚えた。今更という気もするが、今更不安と実感が湧いたのだ。
それを隠したくて、気づかれたくなくて、Tシャツの上にパーカーを羽織ったまま、自分の椅子に座って机に足を投げ出して目をつむった。
気づけば一眠りしていて、起きてみれば机に朝食が置いてあった。時間はもう六時近く、思ったより腹がきていた。
「あ、千季さん、朝ご飯持ってきました。」
「ありがとう、戦闘中は、私の席座っているといい。どうせ私は、机の上に座るから。」
きょとん、としているときはを横目に、足を机から下ろして朝食を箸でつつく。
「そういえば、航空機の用意はどんな首尾でしたかね?」
「それなら夜のうちに用意してもらって、今、合流地点に向かってくれてるぞ。」
「部隊は?」
「第三飛行隊だ。」
「百里というとF−二ですか……、へえ、そりゃまた仰々しいことで。」
「対艦装備で待機してもらってる。増槽もついてるから…、彼らなら十分だろう?」
「ですね。」
「
「
「そうだな、さて、そろそろ出航だ。」
「そうですか。」
「今度はちゃんと…、抜錨しないとな」
「それは忘れて下さいよ、一応公式記録には向こうさんの自滅って書いてあるんですから……」
「だから公式なんてものは往々にして当てにならんのさ。」
「今スピーカが入ってたら、我々の敵がもう一組織増えていたでしょうね。」
「わざとじゃない。」
「あ、あの、出航しないと…、」
ときはがおどおどして言う。
「ああ、そうだったね、艦長、宜しく頼みます」
「諒解しました、総員、出航用意‼︎」
そうして喇叭の音が聞こえた。………録音ではいけないのだろうか、いけないんだろうな。階下から足音が聞こえ、続いて舫が外されたらしい。機関の音が少し聞こえるようになって、やや振動が感じられた。
「抜錨!」
私も、待っていてくれる人がいるのかな。
この日、二〇二六年五月三一日、戦艦海神は、赤く青い海へ漕ぎ出した。
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
鬱シーンは作者の趣味です、御容恕下さい。