オーバーロード 希死念慮を持つ御方   作:0806

1 / 30
プロローグー柑橘の君


一.終わりと、始まり

 

 ユグドラシルのサービス終了カウントダウンが、ゼロになった。

 その瞬間——しとろんの意識は、どこかへ飛んだ。

 次に気づいた時、視界が変わっていた。

 天井が高かった。

 石造りの壁。豪奢な調度品。どこかで見た——いや、何度も見た場所。

 ナザリック地下大墳墓、第九階層。

 

 (夢か?)

 

 思った。でも——手のひらを見た。

 小さかった。

 白かった。

 爪が、細く、鋭かった。

 ヴァンパイアの爪だった。

 鏡があった。

 近づいた。

 映っていたのは——しとろんが何年もかけて作り上げたアバターだった。

 金色の髪。黄金の瞳。青白い肌。幼い顔立ち。十歳にも満たないように見える、小さな体。

 女の子だった。

 紛れもなく——女の子だった。

 

 しとろんは——少し、笑った。

 

「……嘘だろ」

 

 声が出た。

 高かった。

 自分の声じゃなかった。

 でも——出た。

 ゲームの中でずっと使っていた、このアバターの声が。

 

「……本物だ」

 

 呟いた。

 もう一度、鏡を見た。

 金色の髪が、動いた。

 自分が動かしたからだ。

 黄金の瞳が、きらりと光った。

 自分の目が、光ったからだ。

 

 (本物だ)

 

 もう一度、思った。

 今度は——もっと、確信を持って。

 


二.最初の喜び

 

 しばらく、鏡の前にいた。

 髪を触った。柔らかかった。

 手のひらを開いたり閉じたりした。動いた。

 足踏みをした。音がした。

 一つ一つ確かめるたびに——何かが、胸の中で弾けた。

 

 (これは、俺のアバターだ)

 

 ユグドラシルを始めた頃、深い意味もなく作ったアバターだった。

 女の子。幼い見た目。ヴァンパイア。

 最初は「ロールプレイとして面白そう」という、それだけの理由だった。

 でも——何年もかけて、愛着が生まれていた。

 このアバターで、たくさんの場所を旅した。

 たくさんの人と出会った。

 ギルド「アインズ・ウール・ゴウン」に加わったのも、このアバターとしてだった。

 そのアバターが——今、本物になっていた。

 

 (悪くない)

 

 思った。

 むしろ——いい。

 この体は、自分が作り上げたものだ。

 何年もかけて、細部まで調整したものだ。

 それが本物になった。

 それは——喜んでいいことだと、思った。

 

 少しして、モモンガが来た。

 しとろんより少し早く、この世界に来ていたらしかった。

 

「……しとろんさんも来ましたね」

 

「モモンガ。君も、ちゃんとここにいるんだな」

 

「はい」

 

 モモンガはしとろんを見た。

 

「……随分、幼い見た目ですね」

 

「うるさい。お前が作ったアバターよりは、可愛げがあるよ」

 

「それはどういう意味ですか」

 

「そのままの意味」

 

 二人は少し、笑った。

 ユグドラシルの頃と——変わらないやり取りだった。

 体は変わった。

 世界は変わった。

 でも——この感じは、変わっていなかった。

 その時のしとろんには——それが、十分だと思えていた。

 


三.ナザリックの現実

 

 ナザリックの守護者たちと、少しずつ顔を合わせるようになった。

 アルベド。デミウルゴス。シャルティア。コキュートス。アウラとマーレ。

 全員が——至高の御方として、しとろんを迎えた。

 しとろんは最初、それが新鮮だった。

 ゲームの中では、ただのプレイヤーだった。

 でも今は——「至高の御方」として扱われている。

 モモンガと並ぶ存在として。

 

 (まあ、悪くない)

 

 最初は——そう思っていた。

 

 変化に気づいたのは、少し経った後だった。

 守護者たちと話す中で——ある違和感が、少しずつ積み重なっていった。

 デミウルゴスが、外の人間について話した時だった。

 しとろんは思わず、眉をひそめた。

 

「……それは、人間に対して少し、酷くないか」

 

 デミウルゴスが、少し間を置いて答えた。

 

「しとろん様のカルマ値は——善性に傾いていらっしゃいますから」

 

 カルマ値が善性なのは、しとろんだけではなかった。

 セバスやペストーニャなど——善性に傾いているものもいる。

 でも。

 シトロンが違和感を覚えたのは、カルマ値の問題だけではなかった。

 価値観の——根底にあるものが、自分とは違う者が、ナザリックには多かった。

 外の世界の人間を、道具として見ることが当たり前の者たちの中で——しとろんは、それに馴染めなかった。

 馴染めないまま、至高の御方として振る舞わなければならなかった。

 セバスのように——善性を持ちながら、それでもナザリックの中で自分の立場を持っている者を見るたびに、しとろんは思った。

 (どうして、あんなにうまくやれるんだろう)

 自分には——できなかった。

 善性の価値観が——ナザリックの中で、居場所を作れなかった。

 それが——じわじわと、何かを削っていった。

 


四.積み重なるもの

 

 少しずつ、わかってきた。

 守護者たちは——しとろんを至高の御方として敬っていた。

 それは本当だった。

 でも——価値観が、根本的に違った。

 外の世界の人間を、道具として見ることが当たり前の者たちの中で——しとろんだけが、それに違和感を覚えていた。

 覚えていても——口に出せなかった。

 出せば、守護者たちが困惑した。

 善性のカルマ値が——笑われるわけではなかった。

 でも——「しとろん様は、そういうお方だから」という目で見られた。

 違う生き物として——扱われた。

 それが——じわじわと、何かを削っていった。

 

 それだけではなかった。

 しとろんが作ったアバターの設定には、こう書いてあった。

 『精神的に不安定。外界には穏やかに接するが、内面に深い闇を抱えている。自己評価が低く、存在することへの不安を常に感じている。』

 ロールプレイのための設定だった。

 面白そうだと思って、書いた設定だった。

 でも——今、それは設定ではなかった。

 本物になっていた。

 精神的な不安定さが——本物になっていた。

 鏡を見るたびに感じる違和感。

 自分の声を聞くたびに感じる距離感。

 中身と外側が噛み合わない感覚。

 以前は——それをゲームのロールプレイとして楽しんでいた。

 でも今は——生きることそのものになっていた。

 


五.最初の夜

 

 最初の夜、しとろんは一人で鏡の前に立った。

 金色の髪。黄金の瞳。青白い肌。幼い顔。

 来たばかりの頃は——喜んで見た鏡だった。

 今は——少し、違う感じがした。

 これは、自分だ。

 でも——自分じゃない気もする。

 元の世界の自分は、男だった。

 もっと大きくて、もっと違う顔をしていた。

 でも今は——これだ。

 永遠に——これだ。

 

「……まあ、いいか」

 

 呟いた。

 声が高かった。

 でも——出た。

 もう一度、鏡を見た。

 金色の髪が揺れた。

 黄金の瞳が、じっとしとろんを見ていた。

 鏡の中の自分が。

 しとろんは——目を逸らした。

 その夜は、眠れなかった。

 眠れない理由がわからなかった。

 ただ——なんとなく、胸の中に何かがあった。

 まだ名前もない、小さな何かが。

 


六.始まりの種

 

 それから、時間が経った。

 善性のカルマ値が——少しずつ、孤独を作っていった。

 アバター設定の不安定さが——少しずつ、現実になっていった。

 中身と外側の違和感が——少しずつ、大きくなっていった。

 でも——しとろんは、それを誰にも言わなかった。

 モモンガには——心配させたくなかった。

 守護者たちには——わかってもらえないと思っていた。

 だから——一人で、抱えた。

 笑って。

 穏やかに。

 至高の御方として。

 その下に——静かに積み重なっていくものに、気づかないふりをしながら。

 

 あの夜、最初に鏡を見て喜んだ時のことを——しとろんは、時々思い出した。

 あの時は、単純に嬉しかった。

 本物になった、と思っていた。

 でも今は——何が本物で、何が自分なのか。

 わからなくなっていた。

 それが——全ての、始まりだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。