オーバーロード 希死念慮を持つ御方   作:0806

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誰かがいる部屋


一.新しい朝

 

 常時監視が始まって、十日が経った。

 最初の頃と比べると——しとろんの部屋の空気が、少し変わっていた。

 変わった、というより——慣れてきた。

 誰かがいることが、当たり前になってきた。

 朝はフォスが来る。薬を確認する。お茶を飲む。

 午前中は守護者か、プレアデス、一般メイドが誰か一人いる。

 昼過ぎにペストーニャのところへ行く。

 夕方はアウラとフェンが来る。

 夜はシズか、セバスか、アルベドが控える。

 それが——しとろんの一日になった。

 

 ある朝、フォスがお茶を置きながら言った。

 

「しとろん様、今日の担当はフィースです」

 

「フィースが来るの?」

 

「はい。緊張してましたよ、廊下で」

 

 しばらくして、フィースがおずおずと扉を開けた。

 

「し、失礼します……!」

 

「どうぞ」

 

「あの、今日担当させていただくフィースです。その、何か、ご迷惑をおかけするかもしれないんですけど——」

 

「迷惑じゃないよ」

 

「本当ですか?」

 

「本当」

 

 フィースは少しほっとした顔をして、部屋の隅の椅子に座った。

 そわそわしていた。

 しばらくして、しとろんが言った。

 

「フィース、緊張しなくていいよ」

 

「し、してないです」

 

「してるよ」

 

「……少しだけ」

 

「ここ、普通の部屋だから」

 

「普通、ではないと思います。至高の御方の——」

 

「普通だよ。お茶飲む?」

 

「え、いただいていいんですか」

 

「どうぞ」

 

 フィースは嬉しそうに、でも少し遠慮がちに、カップを受け取った。

 一口飲んで、ぽつりと言った。

 

「……美味しいです」

 

「フォスが入れてくれたから」

 

「フォスって、お茶が上手いんですよね。厨房でもよく褒められてて」

 

「そうなの?」

 

「はい。あと、花の飾り方も上手くて——」

 

 フィースが喋り始めた。フォスのこと。他のメイドのこと。ナザリックの日常のこと。

 しとろんはそれを、ぼんやりと聞いていた。

 うるさくはなかった。

 むしろ——部屋の中に音があることが、今日は助かった。

 


二.インクリメントの番

 

 別の日、インクリメントが担当だった。

 インクリメントは本を持ってきていた。

 

「読んでいてもいいですか」

 

「いいよ」

 

「……しとろん様は何かなさいますか」

 

「特に何も」

 

「では、私も静かにしています」

 

 二人で、静かな時間を過ごした。

 インクリメントが本を読む。しとろんが窓の外を見る。

 しばらくして、しとろんが言った。

 

「何の本?」

 

「歴史書です。ナザリックの資料室にあったものです」

 

「面白い?」

 

「……整理されていない部分が気になりますが、内容は興味深いです」

 

「整理されていない部分が気になるんだ」

 

「はい。索引が不完全で——探したい項目がすぐ見つからないのが、少しストレスで」

 

 しとろんは少し笑った。

 

「インクリメント、本当に整理が好きなんだね」

 

「好き、というより——整っていない状態が落ち着かなくて」

 

「それって——私が、ここにいる感じがしない時の感覚に少し似てるかもしれない」

 

 インクリメントが顔を上げた。

 

「どういう意味ですか」

 

「自分の中が、整理されていない感じがする時がある。何がどこにあるかわからなくて、どこにいるかもわからなくて」

 

 インクリメントは少し考えた。

 

「……それは、辛いですね」

 

「うん」

 

「私の場合は、本を整理すると落ち着きます。しとろん様は——何かあるんですか、整理の代わりになるもの」

 

 しとろんは少し考えた。

 

「……フェンの温かさ、かな。あとフォスのお茶」

 

「それが——整理の代わりになっているんですね」

 

「そうかもしれない」

 

 インクリメントはまた本に視線を落とした。

 

「……なるほど」

 

 短い言葉だったが——何かを、納得したような声だった。

 


三.夜の担当

 

 夜の担当はよく変わった。

 アルベドの夜は、静かだった。

 部屋の隅に座って、書類仕事をしていた。

 

「アルベド、仕事持ち込んでいいよ」

 

「ありがとうございます。では遠慮なく」

 

 カリカリと書く音が聞こえた。

 しとろんはそれを聞きながら、ベッドに横になった。

 

「……アルベドって、いつ寝るの」

 

「必要な時に」

 

「それ、ちゃんと寝てないってこと?」

 

「守護者統括に、睡眠は必須ではありません」

 

「でも、疲れない?」

 

 アルベドは少し手を止めた。

 

「……疲れ、という感覚は、あります」

 

「休んでいいのに」

 

「しとろん様のそばにいる方が——今は、落ち着きます」

 

 しとろんは少し間を置いた。

 

「アルベドも?」

 

「はい」

 

「みんな、そう言う」

 

「本当のことですから」

 

 しとろんは天井を見上げた。

 

「……アルベドって、モモンガのことが好きだよね」

 

「はい」

 

「私のことは?」

 

 アルベドは少し間を置いた。

 

「大切です」

 

「モモンガとは、違う感じで?」

 

「違います。でも——どちらも、本当のことです」

 

 しとろんは少し笑った。

 

「……アルベドって、真面目だね」

 

「よく言われます」

 

「褒めてるよ」

 

「……ありがとうございます」

 


四.ある夜のシャルティア

 

 シャルティアが担当の夜は、賑やかだった。

 

「しとろん様、今夜は髪を梳かしてもいいでありんすか」

 

「梳かす?」

 

「わたし、人の髪を梳かすのが好きで。いいでありんすか」

 

「……いいけど」

 

 シャルティアが嬉しそうに後ろに回った。

 細い手が、しとろんの金色の髪に触れた。

 丁寧だった。痛くなかった。

 

「シャルティア、上手いね」

 

「褒め言葉でありんす。わたし、こういうの得意で」

 

「誰かにしてあげたことあるの?」

 

「アウラに。嫌がられたでありんすけど」

 

「なんで嫌がったの」

 

「……くすぐったいって。無愛想でありんす」

 

 しとろんは少し笑った。

 

「アウラ、そういうの照れるんだね」

 

「照れてるのか嫌なのか、わからないでありんす」

 

 シャルティアは丁寧に髪を梳かしながら、ぽつりと言った。

 

「しとろん様」

 

「なに」

 

「あの夜のこと——怒ってないでありんすよ」

 

 しとろんは少し間を置いた。

 

「……怒ってないの?」

 

「怒るより——悲しかったでありんす。わたしが気づけなかったことが」

 

「シャルティアのせいじゃないよ」

 

「わかってるでありんす。でも——もっと早く気づけたら、って思って」

 

「シャルティア」

 

「はい」

 

「気づいてくれてるよ、今」

 

 シャルティアの手が、少し止まった。

 

「……そうでありんすね」

 

「今、ここにいてくれてる。それで十分だよ」

 

 シャルティアはまた髪を梳かし始めた。

 少し、手が優しくなった気がした。

 


五.少しずつ

 

 常時監視が始まって、三週間が経った。

 ある朝、ペストーニャとのカウンセリングで、しとろんが言った。

 

「最近、部屋に誰かいることが——当たり前になってきた」

 

「それは、どうですか。嫌ですかわん」

 

「……最初は嫌だった。でも今は。誰かがいると、遠くなりにくい気がする」

 

「遠くなりにくい、とはわん」

 

「自分がどこにいるかわからなくなる感じが——誰かがいると、少し薄れる」

 

 ペストーニャは静かに頷いた。

 

「それは——大切な発見でございますわん」

 

「気づくのが遅かったけど」

 

「遅くないです。気づけたことが、大切なのでございますわん」

 

 しとろんは少し間を置いた。

 

「……一人でいることが、私には向いてないのかもしれない。一人が好きだと思ってたけど——実は、誰かの気配がある方が落ち着く」

 

「それは——恥ずかしいことでも、弱いことでもないでございますわん」

 

「そうかな」

 

「はい。人は——誰かとつながっていることで、存在を感じられる生き物でございますわん」

 

 しとろんは少し間を置いた。

 

「……じゃあ、私も人間みたいだね。中身は」

 

「はい。しとろん様は——とても人間らしい御方でございますわん」

 

 しとろんはそれを聞いて、少し笑った。

 

「それ、褒め言葉?」

 

「もちろんでございますわん」

 


 

 その夜、アウラが担当だった。

 フェンは床で丸くなっていた。

 しとろんはベッドに座って、フェンを撫でながら言った。

 

「アウラ」

 

「はい」

 

「監視、もう少し続けてもいいよ」

 

 アウラが顔を上げた。

 

「……本当ですか」

 

「うん。まだ必要だと思うから」

 

「しとろん様がそう言ってくださると——助かります」

 

「助かるの?」

 

「心配だから——傍にいたいと思っていたので」

 

 しとろんは少し間を置いた。

 

「……アウラ」

 

「はい」

 

「傍にいてくれて、ありがとう」

 

 アウラは何も言わなかった。

 でも——耳が、少し赤くなった。

 

「……どういたしまして」

 

 ぶっきらぼうな言い方だった。

 でも——本物の言葉だった。

 しとろんはフェンを撫でながら、目を閉じた。

 部屋に誰かがいる。

 フェンの温かさがある。

 アウラの気配がある。

 今夜は——それで、眠れる気がした。

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