オーバーロード 希死念慮を持つ御方 作:0806
一.前兆
その日の午前中は、穏やかだった。
シズが手入れをして、しとろんが窓の外を見て。
いつもの静かな時間だった。
でも——昼過ぎから、少し変わった。
しとろんの視線が、定まらなくなった。
膝の上で、手が小さく動いていた。
シズはそれに気づいていた。
でも——何も言わなかった。
待った。
しとろんが立ち上がった。
部屋をうろうろし始めた。
壁に手をついた。また離した。
呼吸が、少し速くなっていた。
「……しとろん様」
「大丈夫」
「……大丈夫、ですか」
「大丈夫だって」
でも声が、震えていた。
シズは銃を膝の上に置いたまま、しとろんを目で追った。
しとろんが——シズの方に来た。
銃を、手に取った。
二.その瞬間
シズは一瞬だけ、静止した。
しとろんは銃を持ったまま、立っていた。
敵意はなかった。怒りもなかった。
ただ——パニックになっていた。
呼吸が乱れていた。目が、どこも見ていなかった。
シズは立ち上がった。
ゆっくりと、しとろんに近づいた。
「……しとろん様」
「……っ」
「……ここにいます」
しとろんは銃を持ったまま、動けなかった。
シズはしとろんの前に立った。
手を、そっと差し出した。
「……返してください」
命令ではなかった。
ただ——静かに、求めた。
しとろんは震えていた。
シズはその手を、急かさなかった。
ただ待った。
しばらくして——しとろんの手から、力が抜けた。
銃が、シズの手のひらに収まった。
シズはそれを、すぐに自分の手の届かない場所へ置いた。
それから——しとろんの両手を、両手で包んだ。
「……大丈夫です」
しとろんは答えなかった。
でも——手が、シズの手を握り返してきた。
三.応援を呼ぶ
シズは片手でしとろんの手を握ったまま、もう片方で通信魔道具を取り出した。
呼んだのは——アウラ、セバス、ペストーニャの三人だった。
短く、状況だけ告げた。
来てください、と。
しとろん様のそばにいてください、と。
しとろんはシズの手を握ったまま、床に座り込んでいた。
シズも一緒に、床に座った。
「……怖かったですか」
「……わからない」
「……パニックになりましたか」
「……なった。なんで、なったかも、わからない」
「……わからなくていいです」
しとろんは俯いたまま、言った。
「……銃、取ってしまった」
「……はい」
「シズの大事なものを」
「……大事だけど、しとろん様の方が大事」
しとろんは少し間を置いた。
「……そういうこと、さらっと言うんだね」
「……本当のことだから」
四.皆が来た
最初にアウラが来た。フィンも一緒だった。
扉を開けて——床に座っている二人を見た。
一瞬で状況を理解した。
何も言わずに、しとろんの隣に座った。
フィンがしとろんの膝に頭を乗せた。
次にセバスが来た。
部屋に入って、静かに控えた。
「……しとろん様、ご無事で」
「……うん」
「それだけで、十分でございます」
ペストーニャが来た。
しとろんの前に膝をついた。
「しとろん様、今——どんな感じですか」
「……わからない。ぐるぐるしてる」
「ぐるぐる、とは」
「頭の中が、うるさい。でも——何がうるさいかわからない」
「……わかりました。今は、ぐるぐるしていていいです」
「……いいの?」
「はい。今すぐ整理しなくていいです」
最後にモモンガが来た。
部屋に入って——全員を見渡した。
しとろんを見た。
何も言わなかった。
ただ——部屋の中に、入ってきた。
それだけだった。
でもしとろんには——それが、一番重かった。
五.落ち着いてきた頃
しばらくして、しとろんの呼吸が少し落ち着いてきた。
ペストーニャが静かに聞いた。
「今は、どうですか」
「……少し、落ち着いてきた」
「よかったですわん」
「……みんなが来たから、かな」
「そうかもしれないですわん」
しとろんはシズを見た。
「シズ……ごめん。銃、取って」
シズは首を横に振った。
「……謝らなくていいです」
「でも」
「……呼んでほしかった。パニックになる前に」
「……言えなかった」
「……わかります。でも——次は、言ってみてください」
「……難しいかもしれない」
「……難しくてもいい。一言だけでいいから」
「……一言?」
「……『シズ』って、呼んでくれるだけでいい」
しとろんは少し間を置いた。
「……それだけ?」
「……それだけで、来ます。すぐに」
しとろんは俯いた。
「……うん。次は、呼ぶ」
「……約束ですか」
「……約束」
六.夜
全員が帰った後、シズだけが残った。
今日の担当は、最後までシズだった。
しとろんはベッドに横になっていた。
「シズ」
「はい」
「今日——ごめん、本当に」
「……謝らなくていいです」
「でも、怖かったでしょ。銃を取られて」
シズは少し間を置いた。
「……怖かったです」
「そっか」
「……しとろん様のことが、心配で。怖かった」
しとろんは目を閉じた。
「……シズのことも、心配させてしまった」
「……はい。でも」
「でも?」
「……来てくれました。皆が」
「呼んでくれたから」
「……しとろん様が手を返してくれたから」
しとろんは少し間を置いた。
「……返せた」
「……はい」
「シズが待っててくれたから、返せた」
シズは何も言わなかった。
ただ——椅子に座ったまま、静かにいた。
「シズ」
「はい」
「今日、ありがとう。待っててくれて」
「……当然のことです」
「当然じゃないよ」
「……しとろん様には、当然のことです」
しとろんは目を閉じた。
薬が効いてきていた。
少し、眠くなってきた。
「……おやすみ、シズ」
「……おやすみなさいませ」
シズは銃を、今日は膝の上に置かなかった。
手のひらを、ただ膝の上に乗せていた。
しとろんの呼吸が、穏やかになるのを待った。
時間がかかっても——待った