オーバーロード 希死念慮を持つ御方   作:0806

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逃げた夜


一.前夜

 

 その夜、担当はセバスだった。

 セバスは部屋の隅に立って、静かに控えていた。

 しとろんはベッドに横になっていたが——眠れなかった。

 天井を見ていた。

 頭の中が、うるさかった。

 消えたい気持ちが——今夜は特に、近かった。

 傍にセバスがいる。

 それが今夜は——助かるより、苦しかった。

 見られている。

 ここから出られない。

 この感覚から、逃げられない。

 (逃げたい)

 ただ——そう思った。

 

「セバス」

 

「はい」

 

「少し、一人にしてくれない?」

 

 セバスは少し間を置いた。

 

「……申し訳ありません。今夜は、難しいです」

 

「少しだけでいい」

 

「……しとろん様」

 

「わかってる。わかってるけど——今夜は、見られてること自体が、辛い」

 

 セバスは黙っていた。

 

「悪いのは、わかってる。でも——お願い」

 

「……十五分、廊下に出ます。ただし——扉は開けたままにさせていただきます」

 

 しとろんは少し間を置いた。

 

「……うん」

 

 セバスが廊下に出た。

 扉が、少し開いたままになった。

 しとろんは天井を見た。

 十五分。

 その間に——窓を見た。

 


二.脱走

 

 しとろんが動いたのは、セバスが出てから五分後だった。

 窓を開けた。

 別の階層への抜け道を、しとろんは知っていた。

 ナザリックの創造主の一員として、ナザリックの構造を把握していた。

 監視の目が届きにくい場所を——知っていた。

 静かに、部屋を出た。

 

 セバスが戻ったのは、十分後だった。

 部屋の中を見た。

 しとろんがいなかった。

 窓が、開いていた。

 セバスは一瞬だけ——静止した。

 次の瞬間、全員に連絡を入れていた。

 


三.ナザリックの中で

 

 しとろんは第六階層まで登っていた。

 人気のない場所。監視の目が届かない場所。

 ジャングルの中。大きな樹木に、背をついて座った。

 暗かった。静かだった。

 誰もいなかった。

 ここに来たかったわけじゃなかった。

 どこに行きたかったのか——自分でもわからなかった。

 ただ——あの部屋から、逃げたかった。

 見られることから。

 心配させていることから。

 迷惑をかけていることから。

 全部から——逃げたかった。

 でも。

 逃げた先にも——自分がいた。

 頭の中のうるさい声も、消えたい気持ちも——全部、ついてきていた。

 どこへ逃げても、自分からは逃げられない。

 わかっていた。

 でも——それでも、逃げたかった。

 壁に頭をもたせかけた。

 目を閉じた。

 

 どれくらい経ったか。

 足音が聞こえた。

 複数の足音。

 しとろんは目を開けた。

 


四.見つかった

 

 最初に来たのはアウラだった。

 フェンが先に走ってきた。

 しとろんの前で止まった。

 鼻先を、しとろんの膝に押しつけた。

 アウラが来た。

 しとろんを見た。

 無事であることを確認した。

 それから——樹木に背をついて、しとろんの隣に座った。

 何も言わなかった。

 次にセバスが来た。

 しとろんを見て、深く息を吐いた。

 

「……ご無事で」

 

「……ごめん、セバス」

 

「謝らなくていいです」

 

「でも——」

 

「今は、よかったです。それだけです」

 

 シズが来た。

 静かにしとろんの前に立って——地面に座った。

 しとろんと同じ高さになった。

 

「……逃げたかったですか」

 

「うん」

 

「……どこへ」

 

「……わからない。どこでもよかった。ただ——逃げたかった」

 

「……逃げてきた」

 

「うん」

 

「……それで、どうですか」

 

 しとろんは少し間を置いた。

 

「……逃げても、ついてきた」

 

「何が」

 

「……全部」

 

 シズは頷いた。

 

「……そうですか」

 

「逃げても意味なかった」

 

「……意味がなかったとは、思いません」

 

「なんで」

 

「……逃げたかった気持ちは、本物だったから」

 


五.アウラと

 

 セバスとシズが少し離れた後、アウラがしとろんに言った。

 

「……なんで逃げたかったか、話せますか」

 

「……見られてることが、今夜は特に辛かった」

 

「見られること、とは」

 

「監視されること。心配させてること。迷惑かけてること——全部が、今夜は重くて」

 

「……そうですか」

 

「逃げれば、少し楽になるかと思って。でも——ならなかった」

 

 アウラは少し間を置いた。

 

「……監視が辛いという気持ち、ペストーニャ様に伝えましたか」

 

「……言ってなかった」

 

「言えそうですか、明日」

 

「……うん」

 

「今夜——部屋に戻れますか」

 

 しとろんは少し考えた。

 

「……みんながいるなら」

 

「います」

 

「セバスも?」

 

「います」

 

「シズも?」

 

「います」

 

「……フェンも?」

 

「います」

 

 フェンが尻尾を振った。

 しとろんは小さく笑った。

 パニックの後の、疲れた笑い方だったが——笑った。

 

「……戻る」

 

「はい」

 

「……連れて帰って」

 

「はい」

 


六.戻った部屋で

 

 第九階層に戻った。

 全員がいた。

 アルベドも、来ていた。

 しとろんを見て、何も言わなかった。

 ただ——部屋の隅に立った。

 しとろんは椅子に座った。

 全員の顔を見渡した。

 

「……また、迷惑かけた」

 

「かけていません」

 

 アルベドが静かに言った。

 

「でも——みんなが探してくれた」

 

「当然のことです」

 

「当然じゃない」

 

「……しとろん様にとっては、当然に思えないかもしれません。でも——私たちにとっては、当然のことです」

 

 しとろんは俯いた。

 

「……監視、辛かった。今夜は特に」

 

「……言ってくれれば……」

 

「言えなかった」

 

「なぜ」

 

「……また迷惑をかけると思って」

 

 アルベドは少し間を置いた。

 

「……言ってくれる方が、迷惑じゃないです!」

 

「でも——」

 

「今夜のように、いなくなる方が——私たちには、辛いです」

 

 しとろんは黙った。

 

「……知ってる。知ってるけど——今夜は、言えなかった」

 

「……わかりました」

 

 アルベドは静かに言った。

 

「今夜は——もう、何も話さなくていいです。ただ、ここにいてください」

 

 しばらくして、しとろんがぽつりと言った。

 

「……逃げても、意味なかった」

 

「そうですか」

 

「どこへ行っても——消えたい気持ちは、ついてきた」

 

「……はい」

 

「逃げ場が、ない」

 

 アウラが静かに言った。

 

「……逃げ場は、ないかもしれません」

 

「うん」

 

「でも——一人でいる必要も、ないです」

 

 しとろんは少し間を置いた。

 

「……一人で逃げたのに」

 

「はい。でも——見つかりました」

 

「見つけてくれた」

 

「……これからも、見つけます」

 

 しとろんは俯いたまま、小さく言った。

 

「……ありがとう」

 

 夜が更けた。

 全員がそれぞれの場所に控えた。

 しとろんはベッドに横になった。

 消えたい気持ちは——まだあった。

 でも。

 逃げても、ついてきた。

 それなら——一人で逃げるより、ここにいた方がいいかもしれない。

 論理的な帰結でしかなかった。

 でも——今夜は、そう思った。

 それだけが、今夜のしとろんにできることだった。

 目を閉じた。

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