オーバーロード 希死念慮を持つ御方 作:0806
その日のフェンは、珍しく大人しかった。
アウラが訓練の指示を出しても、反応が鈍い。鼻先をしきりに空へ向けて、そわそわとしていた。
アウラは手を止めた。
フェンがこういう顔をする時は、決まっている。
「……行くよ」
しとろんは第六階層の草原の端にいた。
ナザリックの壁際、誰も来ない場所。草が少し伸びていて、座るとほとんど見えなくなるような場所。
膝を抱えて、座っていた。
アウラが近づくと、顔を上げた。驚いた様子はなかった。フェンを見て、小さく笑った。
「また来た」
「はい」
アウラはしとろんの隣に腰を下ろした。フェンがしとろんの膝に頭を乗せた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
草原の人工の風が、静かに流れていた。
先に口を開いたのは、しとろんだった。
「ねえ、アウラ」
「はい」
「消えたいって思う時、ある?」
アウラの手が、止まった。
フェンの首を撫でていた手が、静止した。
しとろんは膝の上のフェンを見ながら、続けた。
「死にたい、っていうか——ただ、消えたい。何もなくなりたい。この体も、この感覚も、全部」
声は平坦だった。告白というより——ずっと胸の中にあったものが、ただ零れ落ちた、そういう言い方だった。
「……いつから、そう思っていましたか」
「覚えてない。気づいたら、そう思ってた」
「今も?」
「……今も」
アウラは、すぐには何も言わなかった。
言葉を探した。正しい言葉を。でも——正しい言葉が何かわからなかった。
ただ。
「しとろん様」
「なに」
「怖いですか」
しとろんが、初めてアウラを見た。
「……何が」
「消えることが——怖くないですか」
しとろんは少し考えた。
「……わからない。怖いかどうかも、よくわからなくなってきた」
アウラは息を吸った。
「私は」
「うん」
「怖いです」
しとろんが、少し目を細めた。
「アウラが?」
「しとろん様が消えることが——怖い」
静かな言葉だった。感情を押し込めたような、でもその奥に確かなものがある言い方だった。
しとろんは黙った。
フェンが鼻を鳴らした。
しとろんの手が、反射的にフェンの耳を撫でた。
「……フェンも?」
「コイツは——ずっとしとろん様のことを気にしてます。今日も、訓練中にずっとそわそわしてた」
「動物って、わかるんだね」
「はい」
「……なんで、こんなに」
しとろんの声が、少し掠れた。
「なんで、こんなに気にしてくれるの。私のこと」
アウラは少し間を置いた。
「……しとろん様が、そこにいるから」
「それだけ?」
「それだけです」
しとろんは視線を草原に落とした。
「私、大したことしてない。至高の御方として、胸を張れるようなことも——たぶん、してない」
「関係ないです」
「なんで」
「しとろん様がしとろん様だから、です。それ以外に理由はいりません」
しとろんは何も言わなかった。
草原の風が、また流れた。
しばらくして、しとろんが言った。
「アウラ」
「はい」
「一つだけ、聞いていい」
「何でも」
「……私がいなくなったら、困る?」
アウラは即座に答えた。
「困ります」
「なんで」
「フェンが、悲しみます」
しとろんは少し目を丸くした。
「……それだけ?」
「私も」
短かった。飾りがなかった。
「私も、悲しみます。ずっと」
しとろんは俯いた。
しばらく、黙っていた。
アウラは待った。急かさなかった。
やがてしとろんが、小さな声で言った。
「……そっか」
「はい」
「悲しむ人が、いるんだ」
「います」
「……フェンも」
「います」
しとろんはフェンの頭を、両手で包んだ。大きな頭が、小さな手の中に収まりきらなかった。
それでも、包もうとした。
「……今日は、消えなくていいかな」
アウラは息を、そっと吐いた。
「今日だけじゃなくていいです」
「明日は?」
「明日も」
「明後日は」
「明後日も」
しとろんは少し笑った。
「しつこいね」
「はい」
「……悪くない」
帰り道、アウラはしとろんの半歩後ろを歩いた。
フェンはしとろんの隣を、離れなかった。
アウラは、今日聞いたことを誰かに話すべきか——まだ答えが出ていなかった。
でも今は。
この背中を、見ていようと思った。
今日、消えなかった。
それだけで——今夜は、十分だった。