オーバーロード 希死念慮を持つ御方 作:0806
一.朝
フォスが扉を開けた瞬間——違った。
「おはよう、フォス」
声が、明るかった。
フォスは少し面食らった。
「お、おはようございます……!」
「今日、いい天気? 六階層」
「あ、はい。晴れていると思います」
「よかった」
しとろんはもう起き上がっていた。
朝に飲む用の薬も、フォスが来る前に飲んでいた。
「今日、フェンと六階層を周りたい。アウラに聞いてみる」
「は、はい……!」
フォスはお茶を置きながら、そっとしとろんの顔を見た。
明るかった。
よく笑っていた。
でも——どこか、少し違う気がした。
うまく言えなかった。
言えなかったから——黙っていた。
二.午前中
セバスが来た瞬間、しとろんが言った。
「セバス、今日調子いいんだよね」
「……左様でございますか」
「なんか、久しぶりにすっきりしてる気がして」
「それは——よいことでございますね」
「うん。昨日まで重かったのが、嘘みたいで」
セバスは静かに頷いた。
しとろんの話を聞きながら——表情を変えなかった。
でも。
内側で、少し——慎重になっていた。
急に明るくなる日が——時々、その後に大きな波が来ることを、セバスは知っていた。
知っていたが——何も言わなかった。
今のしとろんに、水を差すことは——したくなかった。
「セバス、何か話して」
「何でもよろしいですか」
「うん。今日は聞きたい気分」
セバスは少し考えた。
「……先日、第九階層の廊下の燭台を磨いた時のことでございますが」
「うん」
「一つだけ、形が歪んでいるものがあって。でも——その歪みが、光の当たり方によっては、他の燭台より美しく見えまして」
「歪んでいる方が、きれいに見えるの?」
「角度によっては」
しとろんはそれを聞いて、少し笑った。
「……なんか、いい話だね」
「左様でございますか」
「歪んでいる方がきれいに見える角度がある、って」
「はい。物事によっては、そういうこともあるかと」
三.昼
アウラとフェンと、外に出た。
しとろんはよく喋った。
フェンに指示を出して、走り回って、草を踏んで、風を感じた。
「アウラ、今日気持ちいいね」
「……はい」
「空が広い」
「はい!」
「こういう日、好きだよ」
アウラはしとろんの隣を歩きながら——静かに、しとろんの顔を見ていた。
明るかった。
よく笑っていた。
フェンも——嬉しそうに走り回っていた。
でも。
アウラは、少し——慎重だった。
こういう日の後に——大きく崩れることがあるのを、知っていたから。
でも——今は、言わない。
今は、ただ——一緒にいる。
「アウラ」
「はい」
「今日、楽しい」
「よかったです!」
「昨日まで、あんなに重かったのに——なんか、嘘みたいで」
「はい」
「波って、不思議だね。来たと思ったら、引いてる。引いてる時は——こんなに軽いのに」
アウラは少し間を置いた。
「……今の軽さを、覚えておいてください」
「何のために?」
「……また重くなった時に、軽い日があったと——思い出せるように」
しとろんは少し間を置いた。
「……アウラって、そういうこと言うんだね」
「たまに」
「好きだよ、そういうの」
アウラは少し視線を逸らした。
「……ありがとうございます」
四.夕方
ペストーニャのカウンセリングがあった。
しとろんは部屋に入るなり、言った。
「今日、調子いい。なんか——久しぶりに、すっきりしてて」
「そうですか、どのくらい久しぶりですかわん」
「……わからない。でも、久しぶりな気がする」
ペストーニャは静かに聞いた。
「今の気持ちを、もう少し教えてもらえますかわん」
「明るい。軽い。何かしたい気持ちがある」
「それは——よいことですね」
「うん。でも——」
しとろんは少し止まった。
「でも?」
「なんか、少し——怖い気がする」
「どんなことが怖いですかわん」
「こんなに明るい日の後って——大きく崩れることがある気がして」
ペストーニャは静かに頷いた。
「鋭い気づきでございますわん」
「当たってるの?」
「そういうことが——あることは、あります。でも——だからといって、今日の明るさを否定しなくていいのでございますわん」
「今日は、楽しんでいいの?」
「はい。ただ——今日の自分の状態を、少し客観的に見ておくことが、大切かもしれませんわん」
「客観的に?」
「今日はとても元気だ、と——知っておくこと。そうすれば、後で波が来た時に——ああ、あの時は元気すぎたのかもしれない、と気づけるかもしれませんわん」
しとろんは少し考えた。
「……元気すぎた、ってこともある?」
「あることがございます。今日のような日は——少し、疲れやすくもあるので。無理しすぎないことも、大切でございますわん」
「無理してるつもりはなかった」
「はい。でも——体は、気づかないうちに疲れることがありますわん」
五.夜
夜になって、しとろんは少し——静かになってきた。
朝の明るさが、少し落ち着いてきた感じがした。
燃え尽きた、というより——適度に落ち着いてきた感じ。
シズが担当だった。
「シズ」
「……はい」
「今日、明るかった」
「……知っています」
「みんな、少し心配してたでしょ」
「……少し」
「わかってた」
「……そうですか」
「急に明るい日って——その後、大きく崩れることがあるって、わかってるから」
「……はい」
「でも——今日は、本当に楽しかった」
「……よかったです」
「嘘じゃないよ。明るく振る舞ってたわけじゃなくて——本当に、そう感じてた」
「……知っています」
「わかるの?」
「……作った明るさと、本物の明るさは——少し違います」
「どう違うの」
「……目が、違います。今日のしとろん様の目は——本物でした」
しとろんは少し間を置いた。
「……シズって、よく見てるんだね」
「……ずっと見ているから」
「今日みたいな日も——来てくれた」
「……当然です」
「明るい日も、暗い日も——同じように来てくれる」
「……はい」
「それが——安心する」
シズは何も言わなかった。
ただ——静かに、うなずいた。
六.眠る前に
しとろんは目を閉じた。
今日一日を思い返した。
フォスの顔。セバスの燭台の話。外の風。フェンが走る姿。アウラの「今の軽さを覚えておいて」という言葉。ペストーニャの「今日の明るさを否定しなくていい」という言葉。シズの「本物でした」という言葉。
色々なことがあった。
明るい日だった。
でも——少し疲れた。
それでも。
疲れる価値のある一日だったと——思えた。
明日、波が来るかもしれない。
でも——今日は、楽しかった。
それは——本当のことだった。
右手は——動かなかった。
左腕には——伸びなかった。
今日は——それどころじゃなかった。
よい意味で。
目を閉じた。
今日の風の感触が、まだ少し残っていた。
それを感じながら——眠った。