オーバーロード 希死念慮を持つ御方 作:0806
一.朝
フォスが扉を開けた瞬間——また、違った。
「おはよう、フォス。今日も六階層は晴れてる?」
昨日と——同じ声だった。
いや、昨日より——少し、高かった。
フォスは少し間を置いた。
「……はい、晴れています」
「よかった。今日もフェンと走り回りたい」
「……昨日も行きましたね」
「うん。また行きたい」
フォスはお茶を置きながら、しとろんを見た。
目が——昨日より、少し違う気がした。
明るかった。
でも——少し、速かった。
動きが。呼吸が。言葉が。
「しとろん様」
「なに?」
「……昨日、よく眠れましたか」
「眠れた。でも——早く目が覚めて。そのままずっと起きてた」
「何時頃から?」
「……わからない。暗いうちから」
フォスは黙った。
「でも——すごく頭が冴えてて。色々したいことが浮かんできて」
「……色々、とは」
「階層守護者やメイドのみんなに新しいお菓子を作ろうとか、フェンに新しい指示を教えようとか、インクリメントの本棚を一緒に整理しようとか——」
言葉が、速かった。
フォスは静かに聞きながら——胸の中で、何かが引っかかっていた。
二.午前中
セバスが来た。
しとろんは話しかけてきた。矢継ぎ早に。
「セバス、今日は厨房に行っていい?」「その後で第六階層に行って、アウラの訓練を見たい」「夜はモモンガのところに行こうかな」「インクリメントの本棚も気になってた」
セバスは静かに聞いていた。
「……全部、今日中にされるおつもりですか」
「できそうな気がして」
「……しとろん様」
「なに」
「少し——ゆっくりされてもよいのではないでしょうか」
「でも、したいことがたくさんあって」
「はい。ただ——昨日も外に出られて、今日も早くから起きておられます。体が——」
「大丈夫。今日は本当に元気で」
セバスは少し間を置いた。
「……元気な時ほど、少し立ち止まることが——大切なこともございます」
「わかった。でも——少しだけ、動かせて」
「……少しだけ、でございますね」
「うん」
セバスは頷いた。
でも——心の中で、ペストーニャに連絡を入れることを決めていた。
三.昼
ペストーニャに連絡が入ったのは、昼前だった。
セバスから。フォスから。
二人とも——同じことを言っていた。
昨日から続く明るさが、今日は少し、違う。
ペストーニャは静かに受け取った。
そして——しとろんを呼んだ。
しとろんは元気よく来た。
「ペストーニャ、今日調子いいんだよね」
「昨日からですね…わん」
「うん。二日連続でこんなにいい日、久しぶりで」
ペストーニャはしとろんを見た。
目が、少し——速かった。
動きが、少し——多かった。
昨日の明るさとは、少し——違った。
「しとろん様、少し聞いてもいいですかわん」
「なに」
「今、頭の中はどんな感じですかわん」
「すごく冴えてる。色々なことが浮かんできて」
「眠れましたか」
「少し。でも——早く目が覚めて。眠れなかったけど、眠くなかった」
「食事は?」
「……あんまり食べたくなくて。でも、それより動きたい気持ちがあって」
ペストーニャは静かに頷いた。
「しとろん様、一つだけ、正直に答えてもらえますか…わん」
「うん」
「今——少し、怖いと思いませんか」
しとろんは——少し、止まった。
「怖い?」
「今の自分が、どこかに行ってしまいそうな感じ、とでも言いますかわん」
しとろんは少し間を置いた。
「……少し、ある」
「そうですか」
「なんか——止まれない感じが、少しあって。でも止まりたくない気持ちもあって」
「はい」
「これって——よくないの?」
四.ペストーニャの言葉
ペストーニャは静かに答えた。
「昨日の明るさは——本物でした。しとろん様が楽しんでいたことは、本当のことでございますわん」
「うん」
「でも今日は——少し、波が高くなりすぎているかもしれませんわん」
「高くなりすぎる?」
「気分の波は——低い時だけでなく、高くなりすぎる時も——体に負担をかけることがありますわん」
「……それも、波なの」
「はい。低い波も、高すぎる波も——どちらも、しとろん様の状態でございます…わん」
しとろんは少し俯いた。
「……元気な日なのに、ダメなの?」
「ダメではないです。ただ——今日は少し、速度を落とした方が——明日のしとろん様のためになるかもしれませんわん」
「明日のため」
「はい。高い波のまま動き続けると——その後に、より深く落ちることがありますわん」
「……知ってる、なんとなく」
「はい。しとろん様は、ご自身のことをよく見ていらっしゃいますわん」
「でも——止まれない」
「止まれない感じが、ありますか」
「うん。止まろうとすると——焦る感じがして」
ペストーニャは少し間を置いた。
「今日一つだけ、してもいいことを決めましょうわん」
「一つだけ?」
「はい。今日は、一つだけ。したいことが十あっても一つでいいです。どれが一番、したいかですわん」
しとろんは少し考えた。
「……フェンと、一緒に6階層を周ること」
「わかりました。それだけにしましょう。他のことは、明日以降でいいです。明日以降でございます…わん」
「……できるかな」
「できなくても——その時は、また話しましょうわん」
五.外で
午後、アウラとフェンと外に出た。
しとろんは——昨日より、少し控えめに歩いた。
走りたい気持ちがあったが——少し、抑えた。
アウラが隣を歩きながら言った。
「今日は、昨日より——ゆっくりですね」
「ペストーニャに言われた。一つだけにしろって」
「……そうですか」
「アウラも、心配してた?」
「……はい」
「なんで」
「昨日と今日で——少し、違う明るさに見えたので」
「どう違う?」
「昨日は——しとろん様自身が明るかった。今日は——明るさに、しとろん様が引っ張られてる感じがして」
しとろんは少し立ち止まった。
「引っ張られてる?」
「うまく言えませんが……昨日は、しとろん様が明るかった。今日は、何かがしとろん様を明るくさせてる感じ、とでも言いますか」
「……なんか、わかる気がする」
「そうですか」
「止まれない感じが——あった。ペストーニャに言われるまで、気づかなかったけど」
フェンが、しとろんの足元に来た。
歩くペースに合わせて、横を歩いた。
しとろんはフェンを見た。
「……フェンも、ゆっくりしてくれてる」
「フェン——しとろん様のペースに、合わせるんです」
「いつも?」
「最近は、いつも」
しとろんはフェンを見ながら、少し——呼吸を整えた。
風が吹いた。
昨日と同じ風だった。
でも今日は——少し、ゆっくり感じた。
「……これでいいのかな」
「何がですか」
「一つだけにして、ゆっくり歩いて——これで、いいのかな」
「はい」
「もっとできる気がするのに」
「できる気がする日に——あえて、しない。それも——大切なことだと思います」
しとろんは少し間を置いた。
「……難しいね」
「はい。でも——できていますよ、今日は」
「そう?」
「はい。一つだけにして、ここにいる。それができています」
六.夜
夜、シズが来た。
「シズ」
「……はい」
「今日——止まった」
「……はい」
「難しかった」
「……そうですか」
「止まれない感じがあって——でも、止まった」
「……はい」
「これって——進歩?」
シズは少し間を置いた。
「……はい」
「なんで言い切れるの」
「……以前のしとろん様は——止まれないことに、気づかなかったから」
しとろんは少し間を置いた。
「今日は、気づいた?」
「……はい。自分で、怖いと言っていた」
「ペストーニャに言われて、気づいたけど」
「……気づけたことが、大切です」
しとろんは天井を見た。
「……明日、どうなるかな」
「……わかりません」
「また明るいかもしれない。崩れるかもしれない」
「……はい」
「どっちでも——来てくれる?」
「……当然です」
しとろんは目を閉じた。
今日は——少し疲れていた。
昨日より、ゆっくりしたのに——疲れていた。
高い波が——少し落ち着いてきた感じがした。
怖かった。
でも——止まれた。
それだけで——今夜は、十分だった。