オーバーロード 希死念慮を持つ御方 作:0806
一.朝
フォスが来た。
「おはようございます、しとろん様」
「……うん」
それだけだった。
昨日とは、全く違った。
フォスはお茶と薬をテーブルに置いた。
しとろんは窓の外を見ていた。
目が——どこかを見ているようで、何も見ていなかった。
「……お薬、飲めそうですか」
「……ごめん」
「え?」
「……毎日来てくれて。ごめんね」
フォスは少し止まった。
「謝らなくていいです」
「……でも」
「謝らなくていいです」
しとろんは——返事をしなかった。
フォスの言葉が、届いていないようだった。
ただ——窓の外を見ていた。
フォスは薬を、しとろんの手の届くところに置いた。
掃除を、いつもより短くした。
帰り際——しとろんは、まだ窓の外を見ていた。
「……また来ます」
「……ごめんね」
また、謝罪だった。
二.午前中
セバスが来た。
部屋に入って——しとろんを見た。
昨日と全く違う空気を、すぐに感じた。
「しとろん様」
「……セバス、ごめんなさい」
「何をですか」
「……来てもらって。いつも、私のために——」
「謝らなくていいです」
「……でも」
「謝らなくていいです」
しとろんは少し口を開けた。
何かを言おうとした。
でも——言葉が出なかった。
頭の中に、言葉がありすぎた。
申し訳ない。
来てくれてありがとう。
でも来させてしまってごめん。
みんなの時間を奪っている。
自分がいるから、みんなが困っている。
全部が、頭の中でぐるぐるしていた。
どれを言えばいいかわからなかった。
だから——何も言えなかった。
「……しとろん様」
「……」
「今日は——話さなくていいです」
しとろんは少し、セバスを見た。
また、目を外した。
三.昼
アウラが来た。
フェンが先に入ってきた。
しとろんの足元に来た。
しとろんは——フェンを見た。
「……フェン……ごめん」
「フェンに、ですか」
「……いつも、そばにいさせてしまって」
「フェンが来たいんです」
「……でも」
また、止まった。
頭の中がうるさかった。
アウラへの申し訳なさ。
フェンへの申し訳なさ。
フォスへの申し訳なさ。
セバスへの申し訳なさ。
全員への申し訳なさが——頭を占領していた。
他のことを考える余裕が、なかった。
アウラが聞いた。
「今日——昨日と気分が違いますか」
「……普通、だと思う」
「本当ですか」
「……うん」
アウラは黙った。
しとろんの「普通」は——普通ではなかった。
でも——しとろん本人は、気づいていない。
「……何か、食べましたか」
「……あ」
「食べていないですか」
「……忘れてた」
「何かを考えすぎていましたか」
しとろんは少し間を置いた。
「……みんなに、申し訳なくて」
「はい」
「……頭から、離れなくて」
「……ずっと、考えていたんですね」
「……うん」
四.ペストーニャのところで
アウラがペストーニャに連絡を入れた。
ペストーニャが来た。
「しとろん様」
「……来てくれてありがとうございます。ごめんなさい、わざわざ」
「謝らなくていいですわん」
「……でも」
「謝らなくていいんですわん」
ペストーニャは椅子に座った。
しとろんは——また、黙った。
頭の中がうるさかった。
ペストーニャへの申し訳なさも、加わった。
「しとろん様、今——頭の中はどんな感じですか…わん」
「……うるさい」
「うるさい、とは」
「……みんなへの、申し訳なさが。ずっと、頭の中にあって」
「ずっと、ですか」
「……朝から。消えない」
「それは——つらいですわん」
「……ペストーニャにも、申し訳なくて」
「はい」
「……来させてしまって。私のために時間を使わせてしまって」
「しとろん様」
「……」
「私は、来たくて来ていますわん」
「……でも」
「でも、ではないですわん」
しとろんは——返事をしなかった。
受け取れなかった。
頭の中の申し訳なさが——ペストーニャの言葉より、ずっと大きかった。
「しとろん様、今——自分を傷つけたい気持ちはありますかわん」
長い沈黙があった。
「……ある」
「今日は、どのくらい強いですかわん」
「……みんなへの申し訳なさが——体に向いてくる感じがして。自分が、傷ついた方がいい気がして。……迷惑をかけた分、自分が痛い目を見るべきで。そうじゃないと——申し訳なさが、収まらない感じがして」
ペストーニャは静かに聞いていた。
「……それは、今日になって強くなりましたかわん」
「……わからない。気づいたら、こうなってた」
「昨日のことは——覚えていますか。元気だったことは、覚えていますか…わん」
「……なんか、遠い感じがする。……元気、だったっけ」
五.夜
夜、シズが来た。
部屋に入った。
しとろんはベッドの端に座っていた。
膝を抱えていた。
シズはしとろんを見た。
椅子には座らなかった。
床に——しとろんの近くに、座った。
しとろんは少し、シズを見た。
「……シズ」
「……はい」
「……ごめん」
「……謝らなくていいです」
「……でも」
「……謝らなくていいです」
同じ言葉を繰り返した。
しとろんは——また、黙った。
言葉が出なかった。
頭の中が、申し訳なさで埋まっていた。
シズへの申し訳なさも、今は頭の中にあった。
何かを言いたかった。
でも——言葉が、形にならなかった。
申し訳なさが——全部の出口を塞いでいた。
シズは——何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
しばらくして、しとろんが言った。
「……頭が、うるさい」
「……はい」
「……みんなへの、申し訳なさで——他のことが、考えられない」
「……はい」
「……シズにも、申し訳なくて」
「……はい」
「……でも、いてほしい」
「……います」
それだけだった。
しとろんは膝に顔を埋めた。
右手が——動きかけた。
シズの手が——しとろんの右手の上に、静かに乗せられた。
重かった。
温かかった。
しとろんは——動かなかった。
シズの手が、乗っていたから。
どれくらいそうしていたか、わからなかった。
しとろんが、小さく言った。
「……シズ」
「……はい」
「……頭の中、少し——静かになった」
「……そうですか」
「……シズがいるから、かな」
「……わかりません」
「……でも——少し、静かになった」
シズは何も言わなかった。
手を——乗せたまま、いた。
六.その夜のまま
シズはその夜、朝まで動かなかった。
手入れも——しなかった。
ただ——しとろんの手の上に、手を乗せたまま。
夜中、しとろんがまた言った。
「……シズ」
「……はい」
「……疲れてる」
「……はい」
「……申し訳なさで——疲れてる」
「……はい」
「……こんなに、申し訳なくなるって——知らなかった」
「……はい」
「……こんなに頭がうるさいの——つらい」
「……はい」
「……でも」
「……はい」
「……シズがいるから——今夜は、手が止まってる」
「……はい」
「……それだけで——今夜は、いい」
シズは何も言わなかった。
ただ——手を、少し強くした。
しとろんは目を閉じた。
頭の中はまだ、うるさかった。
申し訳なさは——まだ、あった。
でも。
シズの手の重さが——それより少しだけ、近くにあった。
それだけが——今夜の、全てだった。