オーバーロード 希死念慮を持つ御方 作:0806
一.夜中
その夜の担当はシクススだった。
部屋の隅で、静かに本を読んでいた。
しとろんはベッドに横になっていた。
ミトンをはめたまま。
目を閉じていた。
眠れていなかった。
頭の中が——また、うるさかった。
罪悪感が来た。
後ろめたさが来た。
みんなへの負い目が来た。
毛布の中で——右手が動こうとした。
ミトンが——止めた。
何も感じられなかった。
それが——また、苦しかった。
息が——少し、乱れた。
ほんの少しだけ。
声も出ていなかった。
ただ——呼吸が、少しだけ速くなった。
その瞬間。
集音魔道具が——反応した。
シクススの手元に、小さな信号が届いた。
シクススは本から顔を上げた。
魔道具を確認した。
映像を見た。
しとろんは毛布の中にいた。
動いていなかった。
でも——呼吸が、速くなっていた。
シクススは立ち上がった。
「……しとろん様」
二.逆上
「……しとろん様、大丈夫ですか」
返事がなかった。
「……息が少し、速くなっていたので」
また、返事がなかった。
「……話せますか」
毛布が——動いた。
しとろんが、勢いよく起き上がった。
「……っ」
顔が、赤かった。
目が、充血していた。
「……なんで」
「え?」
「なんで、こんなことで——連絡が来るの」
「息が速くなっていたので、確認しようと——」
「息が速くなっただけでしょ!」
しとろんの声が、上がった。
シクススは少し、後退した。
「息をするだけで、監視されて——呼吸が変わるだけで、声をかけられて——」
「しとろん様、落ち着いて——」
「落ち着けない!」
しとろんはベッドから降りた。
ミトンをはめた手が、宙を彷徨った。
「……部屋に魔道具がついて、見られて、聞かれて、ボディチェックされて、ミトンまでして——それだけじゃなくて、息をするだけでも連絡が来るの?」
「しとろん様——」
「私はどこまで、自由がなくなるの?」
声が——震えていた。
怒りなのか、泣いているのか——わからなかった。
「息をするだけで、監視される。それが——今の私なの?」
「……落ち着いてください」
「落ち着けって言わないで!」
シクススは——緊急通報用の魔道具を起動した。
ペストーニャに、アウラに、セバスに。その他多くに連絡が入った。
三.応援が来る
最初に来たのはアウラだった。
フェンも一緒だった。
扉を開けた瞬間——しとろんの声が聞こえた。
「来ないで! 来ないで、来ないで——」
アウラは部屋に入った。
「しとろん様——」
「なんでみんな来るの! 一人にして!」
「一人にはできません」
「なんで!」
「……心配だから」
「心配しなくていい! 息が速くなっただけでしょ! それだけで、こんなに大勢——」
セバスが来た。
フォスが来た。
しとろんは——部屋に人が増えるたびに、声が大きくなった。
「来ないで、来ないで、来ないで——」
ミトンをはめた手が、壁に当たった。
何も感じなかった。
それが——また、叫びたくなる理由になった。
「息をするだけで、こんなことになって——私はどこまでいけばいいの! どこまで、管理されればいいの!」
誰も——何も言えなかった。
言葉が届かなかった。
しとろんの声だけが、部屋に満ちていた。
四.ペストーニャが来た
ペストーニャが来たのは、それから少し後だった。
部屋の中を見た。
しとろんは——壁際に立っていた。
ミトンをはめた手を、壁に押しつけながら。
呼吸が乱れていた。
目が充血していた。
声は——少し、嗄れていた。
「……来ないで。来ないで、ペストーニャも——」
「しとろん様」
「来ないで——」
「しとろん様、聞こえますかわん」
「……聞こえてる。でも、来ないで」
「少しだけ、近くに行っていいですかわん」
「……嫌だ」
「わかりました」
ペストーニャはその場に止まった。
手に——小さなものを持っていた。
「しとろん様、一つだけ、聞いてもいいですかわん」
「……なに」
「今——自分を傷つけたい気持ちはありますかわん」
「……ある。でも、ミトンがあるから、できない」
「そうですか」
「……息が速くなっただけで、こんなことになるなんて——思ってなかった。……嫌だ。全部、嫌だ。監視も、魔道具も、ミトンも、ボディチェックも——」
「はい。嫌ですね」
「……なんで、そんなに落ち着いてるの」
「……しとろん様のことが、怖いわけではないからですわん」
「……こんなに叫んでるのに」
「……叫ぶ理由が、あるからでございますわん」
五.鎮静剤
しとろんの呼吸が——さらに乱れてきた。
声が、少し、かみ合わなくなってきた。
言葉が——続かなくなってきた。
「……嫌だ、嫌だ、嫌だ——」
繰り返していた。
ペストーニャは、静かに一歩、近づいた。
「しとろん様」
「……来ないで」
「少しだけ、楽になるものを——使ってもいいですか…わん」
「……なに」
「体を、少し落ち着かせるものでございます。痛くはありませんわん」
「……嫌」
「はい。でも——今のしとろん様には、必要だと判断していますわん」
「……嫌だって言ってる」
「はい。聞こえておりますわん」
ペストーニャはゆっくりと近づいた。
しとろんは——逃げようとした。
でも、部屋の中だった。
アウラが——後ろに、静かにいた。
セバスが——横に、静かにいた。
しとろんは——壁際で、止まった。
「……嫌だ、嫌だ——」
「しとろん様、少しだけ——」
ペストーニャの手が、しとろんの腕に触れた。
小さな刺激があった。
痛みは——ほとんどなかった。
少しして——しとろんの声が、小さくなった。
「……なんで」
「……楽になっていきます」
「……嫌だ……」
声が、遠くなっていった。
「……嫌、だ……みんな、見てる……」
「……はい」
「……見ないで……」
「……わたしはここにいます」
「……嫌……」
目が——閉じていった。
ゆっくりと。
抗う力が——なくなっていった。
しとろんの体が——傾いた。
セバスが、静かに支えた。
ベッドに——横たえた。
部屋が、静かになった。
しとろんの呼吸が——穏やかになっていった。
荒れていた息が、ゆっくりと落ち着いていった。
ミトンをはめた手が——毛布の上にあった。
力が抜けていた。
六.部屋に残った人たち
しばらく、誰も何も言わなかった。
ペストーニャが静かに言った。
「……しばらく、眠られます」
「……どのくらい」
「数時間は」
アウラが——しとろんを見ていた。
「……苦しかったんですね」
「……息が速くなっただけで、連絡が来た。それが——限界だったのかもしれませんわん」
「……管理されることへの——」
「はい。少しずつ、積み重なっていたのでございますわん」
シクススが小さく言った。
「……もっと、うまくできれば」
「……シクススのせいではないですわん」
「でも——」
「……誰のせいでもないのでございます。しとろん様が——それだけ、苦しかっただけでございますわん」
フェンが——ベッドの横に来た。
しとろんの顔を、鼻先で確かめた。
呼吸が穏やかなのを確認して——そのまま、横に伏せた。
離れなかった。
アウラはそれを見ていた。
「……フェン」
フェンは動かなかった。
ただ——そこにいた。
七.眠る間際
鎮静剤が効いていく間、しとろんは——意識の端で、感じていた。
大勢の目が——あった。
見られていた。
叫んでいた自分を——みんなが見ていた。
(また、迷惑をかけた。こんなことで、叫んで。情けない)
思った。
でも——もう、声が出なかった。
体が、動かなかった。
ただ——眠くなっていった。
ペストーニャの声が、遠くから聞こえた。
「……ゆっくり、休んでください」
フェンの温かさが——横にあった。
誰かの気配が——部屋にあった。
嫌だった。
全部、嫌だった。
でも——意識が、落ちていった。
静かに。
ゆっくりと。
抗えないまま——闇の中に、沈んでいった。