オーバーロード 希死念慮を持つ御方   作:0806

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鍵のない扉


一.入浴の日

 

 「今日は、お風呂に入りませんか」

 

 フォスが言ったのは、昼過ぎだった。

 しとろんは少し間を置いた。

 

「……うん」

 

「一緒に、準備しますね」

 

 浴場には、ユリ・アルファが控えていた。

 プレアデスの一員。

 しとろんが浴場に入った瞬間——ユリが立っていた。

 

「しとろん様、失礼いたします」

 

「……うん」

 

「入浴中も——控えさせていただきます」

 

「……わかってる」

 

 しとろんは少し笑った。

 作った笑顔だったが——笑顔だった。

 

「ユリって、こういう時も真面目だね」

 

「……任務でございますので」

 

「任務かあ。なんか、ユリらしい」

 

「……ありがとうございます」

 

「それ、褒め言葉として受け取ってくれてるんだ」

 

「……はい」

 

 しとろんはゆっくりと衣を脱いだ。

 ユリが——視線を逸らした。

 でも、完全には逸らさなかった。

 しとろんの腕を——確認していた。

 傷が、あるかどうか。

 ミトンを外した瞬間——ユリの視線が、少し止まった。

 ミトンを外すのは——入浴の時だけだった。

 しとろんはその視線に気づいていたが——何も言わなかった。

 

「ユリ、お湯の温度、確認してくれた?」

 

「はい。適温です」

 

「ありがとう」

 

 お湯に入った。

 温かかった。

 

 浴槽に浸かりながら、しとろんは天井を見た。

 ここにも——小さな魔道具があった。

 映像ではなく、音を拾うものだった。

 浴場だから、配慮はされていた。

 でも——あることは、あった。

 

「ユリ。……お風呂って、なんか落ち着くね」

 

「左様でございますか」

 

「うん。お湯に入ると——少し、頭が静かになる。ユリは、お風呂好き?」

 

 ユリは少し間を置いた。

 

「……嫌いではないです」

 

「なんか、ユリらしい答え」

 

「そうでしょうか」

 

「うん。嫌いではない、って」

 

 しとろんは少し笑った。

 ユリは——何も言わなかった。

 でも、口元が——少し、動いた気がした。

 

 しばらくして、しとろんが言った。

 

「ユリ」

 

「はい」

 

「……見てるの、つらくない?」

 

「何がですか」

 

「……こういう役目。入浴中も、ずっと控えてて」

 

「任務でございますので」

 

「でも——気を遣うでしょ。どこを見ればいいか、とか」

 

「……慣れております」

 

「慣れてるんだ」

 

「はい」

 

「……ユリって、やっぱり真面目だね。好きだよ、そういうとこ」

 

「……ありがとうございます」

 

 ユリの声が——少し、柔らかくなった。

 しとろんは気づいていたが——何も言わなかった。

 ただ、お湯に浸かり続けた。

 左腕が——お湯の中にあった。

 傷が——見えた。

 でも、今は——それを確かめる気持ちが、少し遠かった。

 お湯が、温かかったから。

 

 上がる時、ユリがタオルを渡した。

 

「しとろん様。……今日は、よく入れましたね」

 

「そう?」

 

「はい。最近、食事と同じで——入浴も、難しい日があると聞いていたので」

 

「……そっか。今日は、入れた。……ユリがいてくれたから、かな」

 

「私がいたから、というより——」

 

「ユリがいてくれたから、だよ」

 

 ユリは少し間を置いた。

 

「……ありがとうございます」

 

「こちらこそ」

 


二.気づいた日

 

 しとろんがトイレに向かった時、最初に気づいた。

 扉を閉めた。

 手が自然に、鍵に向かった。

 でも。

 鍵が、なかった。

 鍵穴ごと、なかった。

 しとろんは扉を見た。

 少し間を置いた。

 

「……そっか」

 

 誰にも聞こえない声で、呟いた。

 鍵を外されていた。

 いつの間にか。

 部屋の改修の時に、一緒に。

 

 担当はシクススだった。

 扉の外に立っていた。

 用を済ませて出てきた時、シクススがいた。

 

「……シクスス。鍵、ないんだね」

 

「……はい。安全のため、外させていただきました」

 

「……いつから?」

 

「……部屋の改修の時に、一緒に」

 

「……そっか」

 

 しとろんは少し間を置いた。

 

「……扉は閉まってたけど、鍵はなかった」

 

「……はい」

 

「……誰でも、開けられる」

 

「……はい。ただ——私は—必要がない限り、開けません」

 

 しとろんは少し笑った。

 

「……シクスス、それって——見張ってるけど、入らないってこと?」

 

「……はい。外にいるだけで、十分だと判断しています」

 

「十分かどうかは、誰が決めるの」

 

「……ペストーニャ様と、アルベド様の指示に従っています」

 

「……そっか」

 

 しとろんは歩き出した。

 

「……なんか、複雑だね。鍵はないのに——扉の外にいてくれる。管理されてる感じと、気遣われてる感じが——両方ある」

 

「……そうかもしれません」

 


三.ある夜のこと

 

 夜、就寝前にトイレへ向かった時——担当はセバスだった。

 セバスが扉の前まで来た。

 しとろんが中に入った。

 扉を閉めた。

 鍵がなかった。

 少し間があって——しとろんが言った。

 

「セバス。……鍵がないって、最初に気づいた時——なんか、嫌だった」

 

「……はい」

 

「でも——みんなが、ちゃんと外にいてくれてる」

 

「……はい」

 

「……入ってこない」

 

「……必要がない限りは」

 

「……その必要がない限りは、ってとこが——なんか、気遣いだなって」

 

「……しとろん様のためにできることを、しているだけでございます」

 

「……それが、気遣いだよ」

 

 セバスは何も言わなかった。

 でも——扉の向こうで、静かに待っていた。

 

 出てきた時、セバスが立っていた。

 

「しとろん様。……今日は、よく過ごせましたか」

 

「……まあまあ、かな」

 

「まあまあ、ですか」

 

「うん。全部、こなせた。お風呂も、ご飯も、トイレも」

 

「それは——よいことでございます」

 

「小さいことだけど」

 

「……小さくないです」

 

「そうかな」

 

「はい。今のしとろん様には——全部こなせることが、大きいことでございます」

 

 しとろんは少し間を置いた。

 

「……セバスって、そういうこと言ってくれるんだね。いつも」

 

「……本当のことを言っているだけでございます」

 

「……ありがとう」

 


四.就寝前

 

 ボディチェックが終わった。

 ミトンをはめた。

 ベッドに横になった。

 フェンが横に伏せた。

 今日を思い返した。

 鍵のない扉。

 でも——外で待っていてくれる人たちがいた。

 入ってこなかった。

 でも——声が届いた。

 管理されていた。

 でも——気遣われていた。

 しとろんは天井を見た。

 

「……こういうことに、なったんだね、私」

 

 誰にも聞こえない声で言った。

 

「鍵のないトイレを——誰かに外で待ってもらいながら使う。そういう人間に」

 

 フェンが、鼻を鳴らした。

 

「……フェン、聞いてた?」

 

 フェンは動かなかった。

 ただ、そこにいた。

 

「……うん。でも——みんなが、ちゃんと待っててくれた」

 

 それだけだった。

 それだけが——今夜、少しだけ温かかった。

 右手は——動かなかった。

 今夜も——伸びなかった。

 目を閉じた。

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