オーバーロード 希死念慮を持つ御方 作:0806
アルベドがアウラを呼んだのは、深夜だった。
場所は第九階層の小さな応接室。二人きりで、誰にも聞かれない場所。
アウラが扉を開けると、アルベドはすでに椅子に座っていた。いつもの余裕ある表情ではなかった。眉間に、微かに皺が寄っていた。
「来てくれたわね」
「うん」
アウラは向かいの椅子に座った。
アルベドは少し間を置いた。それから、静かに口を開いた。
「しとろん様のことで、話があるわ」
アウラは黙って聞いた。
アルベドが何を知っているか、まだわからなかった。
「最近、しとろん様のご様子が気になっていて」
「……具体的に、何が?」
「顔色。それから——お部屋に籠もる時間が長いわね。食事の量も減っているわ」
アルベドは守護者統括だ。ナザリック全体の動きを把握している。しとろんの変化も、細かく見ていた。
「アウラ、あなたはどう思うかしら? しとろん様と一番よく顔を合わせているでしょう」
アウラは少し考えた。
何を話すべきか。何を話していいか。
しとろんから直接聞いたことがある。消えたい、と。自分がここにいるかわからない、と。左腕の傷のことも、知っている。
でも——しとろんは言っていた。
誰にも言わなくていい、と。
「……気になることは、ある」
「具体的に教えてくれる?」
アウラは視線を落とした。
「……それは」
アルベドが、アウラを見た。
「言えないことがあるのね」
「……うん」
アルベドは少し間を置いた。責めなかった。
「あなたが言えないということは——しとろん様から、直接何か聞いているのね」
否定できなかった。
アルベドは静かに息を吐いた。
「……私も、あるわ」
アウラが顔を上げた。
「アルベドも?」
「直接ではないけれど——お部屋の担当メイドから報告があったわ。しとろん様の左腕に、傷があると」
室内の空気が、重くなった。
アウラは黙っていた。
「あなたは知っていたの?」
「……うん」
「そう」
アルベドは窓の外を見た。人工の夜が広がっている。
「セバスからも、話を聞きました。詳細は聞けなかったのだけど——表情が、いつもと違っていた」
「セバスが、表情を変えたの」
「ええ。セバスが表情を変えるのは、よほどのことね」
沈黙が続いた。
先に口を開いたのは、アウラだった。
「……モモンガ様に、伝えるべきかな」
アルベドが、少し目を伏せた。
「それを考えていたの」
「どう思う」
「……難しい」
アルベドらしくない言葉だった。いつも迷いなく判断を下す守護者統括が、難しい、と言った。
「しとろん様は至高の御方。モモンガ様と並ぶ存在。その御方の——内面の苦しみを、モモンガ様に報告することが、果たして正しいのか」
「しとろん様のためになるかどうか、ということ?」
「ええ。報告することで、しとろん様が傷つくことだってある。……あの方は、知られることを望んでいないかもしれない」
アウラは頷いた。
「でも」
「でも、このままにしておくことが正しいとも思えない」
アルベドは手を組んで、テーブルの上に置いた。
「アウラ。あなたは——しとろん様から、どんな言葉を聞いたの」
アウラは少し間を置いた。
しとろんの声が、耳の中に蘇った。
消えたい、と。
何もなくなりたい、と。
「……重いことを、聞いた」
「どのくらい、重い?」
「……すぐに誰かが傍にいるべきだと、思うくらいに」
アルベドの表情が、少し変わった。
それ以上は聞かなかった。でも——理解したようだった。
長い沈黙があった。
アルベドが、静かに言った。
「……モモンガ様に伝えることは、今すぐにはしない」
「どうして」
「しとろん様が自ら口を閉ざしているなら——その意思を、まず尊重したいわ。だけれど」
アルベドはアウラを見た。
「一人にはしない。それだけは、絶対に」
「……うん」
「あなたが傍にいる。セバスも気にかけている。メイドのフォスも——シズも」
アルベドは一人一人の名前を、静かに確かめるように言った。
「しとろん様の周りには、すでに人がいる。それを、もっと確かなものにするわ」
「具体的には?」
「自然に、誰か傍にいる。気づかれないように——でも、確実に」
アウラは頷いた。
「アルベドは?」
「私は——守護者統括として、全体を見ます。誰かが気づいたことを、共有できる場を作るわ。今夜のように」
アウラは少し考えた。
「……モモンガ様に伝える日は、来るかな」
アルベドは少し間を置いた。
「来るかもしれない。しとろん様が自ら話してくださる日が——来ることを、祈っている」
「祈る、か」
「そうよ」
アルベドは珍しく、柔らかい声で言った。
「私たちにできることには、限りがある。それが——歯痒い」
アウラは立ち上がりながら、言った。
「アルベド。私、しとろん様に伝えた。消えなくていい、と」
アルベドは静かに聞いた。
「そうしたら——今日は消えなくていいかな、って」
「……そう」
「今日は、って言ったの。明日のことは、わからない」
アルベドは視線を落とした。
「だから」
「だから、明日も傍にいるよ。明後日も」
アルベドは少しの間、黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……ありがとう、アウラ」
「ううん」
「あなたが傍にいてくれて——よかった」
アウラは何も言わなかった。
ただ、静かに礼をして、扉へ向かった。
一人になった応接室で、アルベドは窓の外を見た。
しとろんの部屋は、今頃静かだろう。
あの小さな体が、今夜も眠れずにいるかもしれない。
アルベドは手を、胸の前で組んだ。
祈った。
至高の御方に祈るという、おかしな話だと思いながら——それでも、祈った。
どうか今夜も——いなくならないでほしい、と。