オーバーロード 希死念慮を持つ御方 作:0806
一.決めた夜
しとろんが決めたのは、静かな夜だった。
ベッドに横になりながら天井の装置を見ながら考えた。
ミトン。
監視。
ボディチェック。
トイレの装置。
ペストーニャの部屋の装置。
どこにも、自分の場所がなかった。
どこにいても、見られていた。
嫌だと言っても変わらなかった。
でも。
(よくなれば緩むかもしれない)
思った。
回復しているように見せれば。
明るく、安定しているように見せれば。
少しずつ——監視が緩むかもしれない。
ミトンが外れるかもしれない。
装置が減るかもしれない。
(やってみよう)
静かに、決めた。
二.一日目
翌朝、フォスが来た。
「おはよう、フォス」
「おはようございます、しとろん様」
「今日、なんか気分がいい気がして」
「……そうですか」
「うん。昨日より、頭が軽い」
フォスはお薬を渡した。
しとろんは迷わずに、受け取った。
飲んだ。
「美味しい、お茶」
「ありがとうございます」
「フォスのお茶、やっぱり好きだよ」
フォスはしとろんの顔を見た。
笑っていた。
でも何か、少し、引っかかった。
うまく言えなかった。
でも何かが、いつもと違った。
フォスは何も言わなかった。
三.三日目
三日間、しとろんは続けた。
薬を進んで飲んだ。
食事に手をつけた。
アウラと草原を少し歩いた。
セバスに笑いかけた。
フォスのお菓子を美味しいと言った。
全部意識してやった。
でも。
全部本当のことでもあった。
薬は飲んだ。
食事は食べた。
草原を歩いた。
ただ気持ちが、それに追いついていなかった。
それだけだった。
アウラが、三日目の夕方に来た。
フェンも一緒だった。
しとろんは笑顔で迎えた。
「アウラ、今日も来てくれた。フェン、元気?」
フェンがしとろんに近づいた。
いつもより少し、じっとしとろんを嗅いだ。
「フェン、どうしたの?なんか、いつもより嗅いでる気がする」
「……フェンにしかわからないと思います」
「そっか」
しとろんはフェンの頭を撫でた。
ミトン越しに。
アウラはしとろんの顔を見た。
明るかった。
でも。
フェンが、いつもより近くにいた。
離れなかった。
アウラはそれを見て何も言わなかった。
ただ、頭の隅に留めた。
四.一週間後
一週間が経った。
ペストーニャがしとろんを呼んだ。
「しとろん様、最近よくなっていると聞いています。薬も、食事も続けられていますね…わん」
「うん。頑張ってる」
「今日のカウンセリングで気分はどうですかわん」
「……まあまあ、かな。悪くない」
「消えたい気持ちは?」
「……最近は、少し遠い気がする」
「自傷したい気持ちはどうでしょうかわん」
「……あんまりない、かな」
ペストーニャは静かに聞いていた。
頷いた。
「……そうですか。しとろん様、一つだけ聞いてもいいですかわん」
「なに」
「今日のお話全部、正直なことですか…わん」
しとろんは少し間を置いた。
「……うん」
「……そうですか」
ペストーニャはそれ以上、追わなかった。
でもしとろんの目を、少し、長く見ていた。
しとろんは視線を、少し外した。
「……ペストーニャ、じっと見るね」
「……失礼しましたわん」
「いいけどなんか、見られてると思って」
「……そういう仕事なので」
「そっか」
ペストーニャは何も言わなかった。
でも。
胸の中に何かを、留めた。
五.ペストーニャの提案
カウンセリングの終わり際、ペストーニャが言った。
「しとろん様。一つ、提案があります。最近——薬も、食事も、続けられています。行動として、安定してきていると思いますわん」
「……うん」
「それを受けて少しずつ、監視を緩めていくことを検討してもいいかもしれないと思っていますわん」
しとろんは少し、止まった。
「……緩める?」
「はい。すぐに全部、というわけにはいきません。ただ少しずつ、段階的にですわん」
「……たとえば?」
「ミトンを——日中は外せる時間を作ることとか。担当の人数を、少し減らすこととか」
「……本当に?」
「はい。ただ条件として、辛い時は言葉にしてほしいということが、あります。辛くなった時に一人で抱えるのではなく、誰かに伝える。それができれば——少しずつ、緩めていけると思いますわん」
しとろんは表情を、変えなかった。
穏やかに、うなずいた。
「……それは、頑張れると思う」
「はい。一度に全部でなくていいです。少しずつでよいですわん」
「……うん」
「しとろん様、どう思いますか」
「……ありがたい、かな。頑張ってみる」
「はい。焦らなくていいですわん」
でも。
しとろんの胸の中では全く違うことが、起きていた。
(緩む)
(本当に、緩む)
(ミトンが、外れるかもしれない)
(担当が、減るかもしれない)
(やっと——やっと)
心臓が、速くなっていた。
嬉しさが胸の中で、溢れそうになっていた。
でも顔に出してはいけないと思った。
普通に、穏やかに、頷いた。
「……ありがとう、ペストーニャ」
「はい。一緒に、進めましょうわん」
「……うん」
六.部屋に戻って
部屋に戻った。
扉を閉めた。
一人になった。
その瞬間しとろんは、毛布に顔を埋めた。
声が出ないように。
でも胸の中で、叫んでいた。
(緩む)
(やっと、緩む)
(ミトンが外れる時間が、できる)
(少しでも、自分の時間が戻ってくる)
涙が出てきた。
嬉しくて、出てきた。
悔しくて、出てきた。
こんなに頑張ってやっと、少しだけ。
それでも嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
しばらく、毛布に顔を埋めたままでいた。
少しして、フェンが来た。
フェンがベッドに近づいた。
しとろんが顔を上げた。
目が赤かった。
「……フェン」
フェンはしとろんを見た。
尻尾を、ゆっくりと振った。
「……緩むって、言ってもらえた」
フェンは答えなかった。
「……ミトンが外れる時間ができるかもって」
フェンはしとろんの手に、鼻先を押しつけた。
ミトン越しだった。
「……早く、この手でちゃんとフェンを撫でたい」
フェンは動かなかった。
そこにいた。
「……頑張ってよかった」
小さく呟いた。
誰にも聞こえない声で。
「……頑張ってよかった」
七.夜
夜、シズが来た。
「シズ、今日いいことがあった。ペストーニャが、少しずつ監視を緩めていくって言ってくれて」
「……そうですか」
「うん。ミトンも、日中は外せる時間ができるかもって」
「……それはよかったです」
「うん。すごく、嬉しかった。顔には出さなかったけど」
「……そうですか」
「なんか、出したら変に思われそうで」
「……変には思いません。嬉しいことを、嬉しいと思っていいです」
しとろんは少し間を置いた。
「……部屋に戻ってから一人で、泣いた。嬉しくて。こんなに嬉しいのって久しぶりかもしれない」
「……はい」
「……シズに言ったら変?」
「……変ではないです」
「よかった」
しとろんは目を閉じた。
「明日から、もう少し頑張れる気がする。フェンを、ちゃんと撫でたい、ミトンなしで。それが——今の、目標かな」
「……いい目標です」
しとろんは少し笑った。
今夜の笑顔は昼間より、少し、本物に近かった。
「おやすみ、シズ」
「……おやすみなさいませ」
フェンが横で伏せていた。
ミトンをはめた手が——フェンの頭の上にあった。
うまく撫でられなかった。
でももう少しの辛抱かもしれなかった。
その「もう少し」が今夜は、近かった。
目を閉じた。
今夜は眠れる気がした。