オーバーロード 希死念慮を持つ御方 作:0806
一般メイドのフォスがしとろんの部屋を訪れたのは、いつもと同じ時間だった。
朝の掃除。お茶の用意。それだけのはずだった。
ノックをした。返事がなかった。
もう一度、ノックをした。やはり返事がなかった。
(眠っていらっしゃるのかもしれない)
そう思いながら、フォスは扉をそっと開けた。
次の瞬間、持っていた盆が床に落ちた。
しとろんは窓際にいた。
カーテンレールにつながる縄。その縄に、小さな体が——。
「しとろん様っ!」
フォスは考える前に動いていた。
駆け寄った。しとろんの腕を、両手で掴んだ。力の限り、引いた。
しとろんが振り返った。驚いた顔だった。誰かが来るとは、思っていなかったような顔だった。
「離して」
「嫌です」
「フォス、離し——」
「嫌です」
フォスは掴んだ腕を離さなかった。足を踏ん張って、椅子の上に立っていたしとろんを部屋の内側へ引き寄せた。
しとろんはそれ以上、抵抗しなかった。
力が抜けたように、床に座り込んだ。
フォスも一緒に、床に膝をついた。腕を、まだ離さなかった。
しばらく、二人とも何も言えなかった。
フォスの心臓が、痛いくらいに鳴っていた。手が震えていた。目の奥が熱かった。
しとろんは俯いていた。
やがて、小さな声で言った。
「……見なかったことにして」
「できません」
「フォス」
「できません」
フォスの声が、震えた。
「できません。絶対に」
しとろんは黙った。
「しとろん様、私——」
言葉が、出てこなかった。何を言えばいいか、わからなかった。正しい言葉が何かも、わからなかった。
ただ。
この手を、離してはいけないと思った。
フォスは深呼吸をした。
一つだけ、決めていることがあった。
「しとろん様」
「……なに」
「人を、呼んでもいいですか」
しとろんが顔を上げた。
「……誰を」
「アウラ様か、セバス様か——しとろん様が嫌でなければ、どちらでも」
しとろんは黙った。
「私一人では、力が足りません。しとろん様のそばに、ちゃんといられる人を——呼ばせてください」
「……アインズには」
「今すぐは、呼びません。しとろん様が嫌なら」
しとろんは少し間を置いた。
「……アウラを」
「はい」
「アウラだけ、でいい」
「わかりました」
フォスはしとろんの手を、そっと床に下ろした。でも——離さなかった。
「離さないの」
「離しません。呼ぶのは、誰か来てからです」
しとろんは何も言わなかった。
フォスは片手でしとろんの手を握ったまま、もう片方の手で緊急通信用の魔道具を取り出した。
指が震えた。
それでも、アウラを呼んだ。
短く、要件だけ告げた。
すぐ来てください、と。しとろん様のそばにいてください、と。
待つ間、二人は床に座っていた。
フォスはしとろんの手を握り続けた。
しとろんは俯いたまま、何も言わなかった。
しばらくして、ぽつりと言った。
「……なんで、来たの。今日」
「いつもの時間に参りました」
「いつも、か」
「はい」
「……いつもが、あったんだ」
フォスには、その言葉の意味がすぐにはわからなかった。
でも——なんとなく、胸が痛かった。
「しとろん様」
「なに」
「私、また来ます。明日も、明後日も」
しとろんは黙っていた。
「いつもが、あります。ずっと」
返事はなかった。
でも——握り返してきた。
小さな力で、ゆっくりと。
フォスはその力を、しっかりと受け取った。
扉が開いた。
アウラが飛び込んできた。フェンも一緒だった。
一瞬で状況を理解したアウラが、フォスと目を合わせた。
フォスは無言で頷いた。
アウラはしとろんの隣に膝をついた。何も言わずに、反対側から肩に触れた。
フェンがしとろんの膝に頭を乗せた。
しとろんは顔を上げなかった。でも——崩れなかった。
三人と一頭が、しばらく床に座っていた。
やがてアウラがフォスに静かに言った。
「……セバスも呼んでもらえる?私はここにいるから」
「はい」
フォスは立ち上がった。
しとろんの手を——今度は、ゆっくりと離した。
離す前に、一度だけ、強く握った。
行ってきます、という意味だった。
すぐ戻ります、という意味だった。
しとろんは顔を上げなかった。
でも、小さく頷いた。
廊下に出て、扉を閉めた瞬間——フォスは壁に手をついた。
足が、震えていた。
泣いてはいけないと思った。戻ってきた時に、泣いた顔を見せてはいけないと思った。
でも——目から、涙が落ちた。
間に合った。
それだけを、思った。
今日、間に合った。
フォスは袖で目を拭って、歩き出した。
セバスを呼びに。
しとろんのそばに、人を集めるために。