オーバーロード 希死念慮を持つ御方 作:0806
扉が閉まった。
フォスの足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
部屋の中は静かになった。
アウラとシトロンと、フェン。
二人と一頭だけ。
アウラは何も言わなかった。
シトロンの肩に触れたまま、ただそこにいた。
フェンはシトロンの膝から離れなかった。重い頭を、ずっと乗せたままでいた。
シトロンは俯いていた。
アウラは立ち上がって、静かにカーテンレールに結ばれた縄をほどいた。
それだけだった。責めなかった。何も言わなかった。
また隣に戻って、座った。
どれくらい時間が経ったか。
シトロンが、小さな声で言った。
「……怒ってる?」
「怒っていません」
「なんで」
「怒っても、仕方ないから」
シトロンは少し間を置いた。
「……呆れてる?」
「呆れていません」
「なんで」
「シトロン様が、そこまで追い詰められていたということが——わかったから」
シトロンは黙った。
フェンが、低く鼻を鳴らした。
「アウラ」
「はい」
「私、消えようとしてた」
「……はい」
「止めてよかったの」
アウラは少し間を置いた。
正直に答えた。
「よかったです」
「なんで」
「シトロン様がいなくなったら——私が、悲しいから」
「それだけ?」
「フェンも悲しみます。フォスも。セバスも。シズも。皆が」
シトロンは俯いたまま、小さく笑った。
笑い声ではなかった。泣き声でもなかった。その中間みたいな音だった。
「……みんな、そんなこと思ってたの」
「はい」
「知らなかった」
「知らなくて当然です。言っていなかったから」
シトロンは膝の上のフェンを見た。
「フェンも?」
「フェンが一番、ずっと気にしていました」
シトロンはフェンの頭に、そっと額をつけた。
フェンは動かなかった。受け止めるように、じっとしていた。
しばらくして、シトロンが言った。
「……消えたかったのは、本当なの」
「はい」
「嘘じゃない」
「わかっています」
「それでも、止めるの」
アウラは迷わなかった。
「止めます」
「なんで」
「それが——私の答えだから」
シトロンがアウラを見た。
アウラは真っ直ぐにシトロンを見返した。
「消えたい気持ちを、なかったことにはできません。でも——私は、シトロン様にいてほしい」
「いてほしい、か」
「はい」
「……強引だね」
「はい」
「勝手だよ」
「わかっています」
シトロンは少し間を置いた。
「……嫌いじゃない、そういうの」
アウラは何も言わなかった。
でも——肩に触れていた手に、少しだけ力を込めた。
セバスが来たのは、それからしばらくしてからだった。
フォスも一緒だった。
扉を開けると、まだ二人と一頭が床に座っていた。
セバスは一瞬で状況を把握して、静かに膝をついた。
「シトロン様」
「……セバスも来たの」
「はい。参りました」
「呼んでないのに」
「フォスが呼んでくれました」
シトロンはフォスを見た。
フォスは目が少し赤かった。でも、真っ直ぐに立っていた。
「……また来た」
「はい。すぐ戻ると言いましたから」
シトロンは少し目を細めた。
「……君たち、全員で来るんだ」
「当然でございます」
セバスが静かに言った。
「シトロン様が一人でいる必要は、ございません」
四人と一頭が、しばらく部屋にいた。
誰かが話すわけでもなかった。何かをするわけでもなかった。
ただ——いた。
シトロンは最初、壁を作っていた。
でも少しずつ、力が抜けていった。
やがて——アウラの肩に、そっと頭を預けた。
自分でも気づかないような、ゆっくりとした動きで。
アウラは動かなかった。
ただ、シトロンの重さを、静かに受け止めた。
「……疲れた」
シトロンが言った。
「はい」
「ずっと、疲れてた」
「……はい」
「もう少しだけ、こうしていていい?」
「いてください」
シトロンは目を閉じた。
フェンがシトロンの足元で、大きな体を丸めた。
セバスは部屋の隅で、静かに控えた。
フォスは扉の近くで、膝を折って座った。
誰も、去らなかった。
しばらくして、シトロンの呼吸が穏やかになった。
眠ったのだと、アウラは思った。
アウラはシトロンの重さを崩さないように、じっとしていた。
フォスがそっと近づいてきて、上着を一枚、シトロンの肩にかけた。
アウラと目が合った。
二人とも、何も言わなかった。
でも——わかった。
今日、間に合った。
それだけが、今夜の全てだった。