オーバーロード 希死念慮を持つ御方 作:0806
モモンガがペストーニャに話を通したのは、しとろんとの会話から二日後だった。
ペストーニャ・S・ワンコ。ナザリックのメイド長にして、回復魔法の使い手。その穏やかな在り方は、ナザリックの中でも特別な位置にあった。
呼ばれた時、ペストーニャは静かに頷いた。
「……承知いたしましたわん」
それだけだった。余計なことを聞かなかった。
しとろんがペストーニャの部屋を訪れたのは、翌日の午後だった。
モモンガから「一度、ペストーニャと話してみてくれないか」と言われた時、しとろんは少し考えた。
断る理由も、なかった。
扉をノックすると、柔らかい声が返ってきた。
「どうぞ、お入りくださいわん」
部屋は、ナザリックの他の場所とは少し違う雰囲気だった。
豪奢ではあるが——どこか、温かみがあった。小さな花が飾られていて、柔らかい布のソファが二つ、向き合って置かれていた。
ペストーニャは立ち上がって、しとろんを迎えた。
「しとろん様、よくいらしてくださいましたわん」
「……呼ばれたから来ただけ」
「それで十分でございます。どうぞ、お座りになってくださいわん」
しとろんはソファに腰を下ろした。
ペストーニャが向かいに座った。膝の上に手を置いて、ただ静かにしとろんを見た。
急かさない。何かを始めようとしない。ただ——待っている。
しとろんは少し、居心地が悪かった。
「……何か、話さないといけないの」
「いいえでございます。話したくなければ、黙っていてもよいのでございますわん」
「それでもいいの」
「はい。いまここはしとろん様のための場所でございますからわん」
しとろんは少し間を置いた。
「……変な場所だね、ナザリックっぽくない」
「左様でございますか。そうかもしれないですわん」
ペストーニャは微笑んだ。
「ここだけは、至高の御方も、守護者も、メイドも——ただの一人として話せる場所にしたいと思っておりますわん」
しばらく、沈黙が続いた。
しとろんはぼんやりと部屋を見渡した。花。柔らかい光。静かな空気。
やがて、口を開いた。
「ペストーニャって、怖くないの」
「何のことでございましょう。あ、わん」
「私のこと。あんなことがあったのに」
「怖くはないですわん」
「なんで」
「しとろん様が怖いのではなく——しとろん様が、それほど苦しかったのだということが、わかったのでございますわん」
しとろんは視線を落とした。
「……苦しかった、か」
「違いましたでしょうかわん」
「……合ってる。たぶん。ただ——苦しいっていう感覚も、最近よくわからなくなってきてた。感覚が、全部遠くなる感じ」
「遠くなる、とは」
「痛みも、嬉しさも、全部——どこか霞みがかった感じで。自分がここにいるのか、いないのか、わからなくなる」
「それはいつ頃から、でございますかわん」
しとろんは少し考えた。
「……この世界に来てから、ずっとかな。最初は気にしてなかったけど」
「この体になってから、でございますかわん」
しとろんが、少し目を細めた。
「……知ってるんだ」
「モモンガ様から、少しだけ伺いました。詳しくは存じませんわん」
「そう」
しとろんは膝の上に視線を落とした。
「中身と外側が、合わない感じがずっとある。鏡を見るたびに——これが自分だって、思えない」
「それは、とても苦しいことでございます。毎日、そう感じていたのですかわん」
「毎日じゃないけど——多い。特に、静かな時間が続くと」
「だから、痛みで確かめていたのでございますかわん」
しとろんは少し間を置いた。
「……誰から聞いたの」
「誰からも聞いておりません。しとろん様が今おっしゃったことと、これまでのことを、繋げただけでございますわん」
しとろんは少し考えてから、頷いた。
「……そう。痛みがあると、ここにいるってわかる。体が自分のものだって、少しだけ思える」
「それがなければ、確かめる方法がなかったのですね…わん」
「そうかもしれない」
ペストーニャは少し間を置いた。
「しとろん様。一つ、聞いてもよろしいですかわん」
「なに」
「今この瞬間——ここにいると、感じられますか」
しとろんは少し驚いた顔をした。
それから、部屋を見渡した。花。光。向かいに座るペストーニャ。
「……少し、感じる」
「それは、何のおかげでございましょうかわん」
「……わからない。でも——ここが、静かすぎないから、かな。音がある。ペストーニャの声とか、外の気配とか。完全な無音じゃないから——少し、いられる気がする」
ペストーニャは静かに頷いた。
「教えてくださって、ありがとうございますわん」
「……それが何か、意味があるの」
「はい。しとろん様が今ここにいられる条件が、少し見えましたわん」
しとろんは少し考えた。
「完全な沈黙が、苦手なんだと思う。そういう時に、遠くなる」
「ではそういう時間を、なるべく減らせるとよいですね。…わん」
「でも、一人の時間もほしいし」
「一人でも、完全な無音でなければいいのでございます。音楽や、外の気配や——フェンがいるだけでも、違うかもしれませんわん」
しとろんは少し目を丸くした。
「……フェンのこと、知ってるの」
「存じております。あの子、しとろん様によく懐いておりますねわん」
「うん。重いけど、嫌いじゃない」
「それも——大切なことでございますわん」
しばらく話して、しとろんは少し疲れた顔になった。
ペストーニャが立ち上がった。
「お茶をお持ちします。少し休みましょうわん」
「……話、もう終わり?」
「今日はここまでで十分です。一度にたくさん話さなくてよいのでございますわん」
「また来ていいの?」
「もちろんです。いつでも」
しとろんは少し間を置いた。
「……話すの、あんまり得意じゃないけど」
「黙っていてもよいです。ここにいるだけでも…ですわん」
「それでもいいの」
「はい。しとろん様がここにいることが——大切なのでございますからわん」
お茶を飲みながら、しとろんはぽつりと言った。
「ペストーニャって、やっぱり変だね。メイドなのに、メイドっぽくない」
「どういう意味でございますかわん」
「なんか——お母さんみたい」
ペストーニャは少し尻尾を振った。
「それは、嬉しい言葉でございますわん」
「褒めてるつもりはなかったけど」
「それでも、嬉しく思いますわん」
しとろんは小さく笑った。
今日一番、自然な笑い方だった。
帰り際、扉の前でしとろんが振り返った。
「……また来る」
「お待ちしておりますわん」
「モモンガには、ここで話した内容は言わないでよ」
「もちろんでございます。ここで話したことは、ここだけのものでございますわん」
しとろんは頷いた。
扉を開けて、廊下に出た。
振り返らなかった。
でも——歩き方が、来た時より少しだけ、軽かった。