怪異探偵 千駄ヶ谷卓郎しか知らない世界   作:哀愁のガムテープ

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轟の来訪と悔恨の雨

 

目白坂を下りきり、新目白通りに出た頃には、膝は悲鳴を上げていた。

深夜三時を回った大通りに、人影はない。

轟は雨の中、獲物を狩るような鋭さで前方を睨みつける。

そこへ、一台のタクシーが通りかかった。

 

「おいっ!!!!止まれぇっ!!!!!」

 

轟が力ずくで腕を挙げながら、車道へ進み始める。

空車のタクシーが急ブレーキを鳴らして停まる。急かすように「早く開けろ」と窓を何度か乱暴にノックし、びしょ濡れのまま後部座席に沈み込む姿に、運転手がバックミラー越しに怪訝な顔をした。

 

「高田馬場だ。急げ」

 

「あ、あの……お客さん、体がそんなに濡れて。シートが……」

 

「警察だ。協力しろ、市民の義務だ。それとシートのクリーニング代は、戸塚署に請求しろ。分かったら早く出せ」

 

轟は警察手帳を一瞬だけ見せつけると、濡れる手でタバコに火を点けた。

 

「あの! 刑事さん、車内は禁煙なんですが……!」

 

「うるせぇ。捜査中だ。こっちは頭を整理する為にヤニが必要なんだよ。文句があるなら、戸塚署の生活安全課にでも行って抗議しろ」

 

窓を開け、雨風が吹き込む車内に紫煙を充満させる。運転手は絶句し、ただアクセルを踏み込むしかなかった。轟は、ポケットからポリ袋の中に入れたフィルムケースの重みを感じていた。

あのハープにされた娘。指の花弁にされた犠牲者たち。そして、さっきの緋色のカーテン。

法も、科学も、管轄も。あの芸術家気取りの前では紙屑同然だった。

人を超えるバケモノは、今この瞬間も次の「作品」の素材を選別しているに違いない。

 

「…あいつらなら…この臭いが分かるはずだ」

 

タクシーをさかえ通りにある年季の入った商業ビルの前で捨て、轟は重い足取りで急な階段を上がった二階。

薄汚れたプレートは、少し斜めに傾いていた。

 

同日 am3:14 千駄ヶ谷探偵事務所

 

ノックもせず、轟はドアを平手で激しく叩きつけた。

 

「おい、ヘボ探偵! 起きろ! いつまで寝てんだ!コラッ」

 

数秒の静寂の後、内側から鍵が開く音がした。

現れたのは、寝癖のついた鳥の巣頭を掻きむしり、不機嫌さを隠そうともしない男——千駄ヶ谷卓郎だった。

 

「轟さん…。時間考えてくれよ…。近所迷惑だ」

 

「近所もクソもこのビルはお前しかいねーだろうが。一回も連絡してこねぇから、わざわざ迎えに来てやったんだよ。……最悪のネタ(・・)を持参してな…」

 

轟は千駄ヶ谷を突き飛ばすようにして事務所に上がり込む。

事務所の奥からは、轟が撒き散らす雨と煙草と死臭の混じった臭いに反応して、住人たちが姿を現した。

 

「うわっ、轟のおっさん!くっさ!!!うわー。臭いがうつる! 風呂入った意味ねーじゃねーか」

 

窓を開けようと駆け寄ってきたのは、座敷わらしの亜子だ。鼻を摘みしかめっ面でバタバタと騒がしい。ピンクとイエローが交じり合った何かのキャラクターをあしらった派手なパジャマが轟の目に入りチカチカする。

 

「あら。轟警部?いらっしゃる時はアポイントメントを取って頂かなきゃ困りますよぉ〜」

 

事務所の本棚のすき間から、寝ぼけ眼の明星(あかり)が半分顔を出し抗議する。

 

「明星よー。この間、アポ入れた時に折り返させるからって言ってたよな?このバカ。一回も電話掛けてこなかったぞ」

 

「あっ…ちょっと九州の別件で離れてまして…」

 

「卓郎さん。掛け忘れちゃったんですか?」

 

「…新幹線乗ったり。レンタカーとか、ビジネスホテルの予約とかで、その…まぁ…うん。すまん…」

 

「だ、そうですぅ〜」

 

「そうですぅじゃねぇ!!!このクソ忙しい時に!モジャモジャお前。新幹線乗ってる時に時間あったろ!」

 

轟が煙草に火を付けようとしていると、机の上に一匹のキジ猫が飛び乗る。化け猫のテツオだ。

 

「そんな事より萬次郎…。また随分と禍々しいもんを持ってきたな。鼻が曲がりそうだぜ」

 

「萬次郎」と呼び捨てにするテツオの声に轟は、眉一つ動かさず、フンッと鼻を鳴らす。ポリ袋に入れたフィルムケースを千駄ヶ谷の鼻先に突き出した。

 

「見ろ。探偵…。五月の頭辺りから立て続けに起きてる猟奇殺人のブツだ」

 

千駄ヶ谷の眠気がその瞬間、一気に吹き飛んだ。

袋越しに見るケースと声明文の紙。それは千駄ヶ谷の目には、単なる紙には見えなかった。紙の繊維一本一本が黒く脈動し、周囲の空間をじりじりと侵食している。

 

「臭いの正体は…これのようですね。これ…は…。これは、犯人の念だ…。しかも揺るぎのない…圧を、この紙自体に込めてる…」

 

千駄ヶ谷の顔が真剣なものに変わる。額にはうっすら生汗まで現れ始めていた。息もどことなく荒い。

轟はタバコを携帯灰皿に押し付けると、低い声で続けた。

 

「三件目の仏さんだがな。検視官の山城の見立てじゃ、大型の油圧プレス機並みの力で鎖骨を捻り抜き、細胞レベルで皮を吸い出したって話だ。刃物の跡はねぇ。一件目は小石川。若い女の皮を剥ぎハープのような楽器にした。

二件目は、後楽園。こっちは、何十人の指を千切って、百合の花を作ってやがった。針金細工までして、花弁が揺れるおまけ付きだ。後で現場写真見せてやる…どれもこれも、人間としてこなせるコロシじゃねぇんだ。

これはもう、捜査一課じゃ手に追えねぇ。法律も、科学も、あいつの前じゃ…無力だ。言いたかねーがな」

 

千駄ヶ谷は左の掌を、無意識に握りしめた。

窓の外では、湿った夜風がビルの隙間で泣いている。

 

その音が、あの日(・・・)の雨の音と重なった。

 

なんで…今…思い出すんだ…

 

千駄ヶ谷の呼吸が荒くなる…

 

視界がボヤけ…胸が苦しい…

 

意識が…

 

(ゆい)

 

俺は…

 

 




千駄ヶ谷の意識はあの日…降り止まない雨の底へと沈み、果たせぬ約束の疼きを呼び覚ます。
鮮血に染まった記憶の断片が体をすり抜けていき、終わりの始まりとなった風景へと埋没していく。
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