怪異探偵 千駄ヶ谷卓郎しか知らない世界 作:哀愁のガムテープ
四年前。俺が探偵を志すきっかけとなったあの日
あの時はまだ、
物心が付く頃から、俺は人一倍霊感が強かった。
ただ、それだけだ。視たくないものが、無条件に視える…。
でも、向こうは何かを訴えるように、恨めしく纏わり付いてくる。
いつの頃からか、自分の力を過信していた俺は霊力を制御することさえ放棄し、傲慢な殺意を秘めた圧を撒き散らしながら過ごしていた。力を使って生業にしていた訳じゃない。
ただ視界に入る怪異など、邪魔なノイズだった。
煩わしく、鬱陶しい。
俺の霊力に引きつけられる異形たちを、ただの鬱憤晴らしに、優越感に浸るだけの為に祓っていたんだ。
「…消えろ、目障りだ」
指一本で簡単に弾ける命。そこにあるのは救済でも対話でもない。ただ、力を行使することへの満足感と、爽快感。
ゲームのような感覚だったんだと今にしてみれば思う。
そんな日常を知ってか知らずか恋人、
結は、ショートカットの黒髪がよく似合う、太陽のように元気で活発な女性だった。
俺が当時やっていた仕事でミスって落ち込んでいる時は、「大丈夫。卓郎ならきっと出来る」と背中を思いっきり叩き励ましてくれ、楽しい事や嬉しい事があった時は、「卓郎ー!」と無邪気に、俺の胸に飛び込んできて眩しすぎる弾けるような笑顔を見せてくれた。
俺は、そんな結を心から愛していた。
「あっ!卓郎。あそこ見て。あの路地裏…。なんか、すっごく綺麗な虹色が見えない?」
都会のありふれた誰もが通り過ぎてしまうどこにでもある袋小路。その日は朝から空に憂鬱な分厚い灰色の雲が広がり、強い雨が降り続いていた。虹など出るような天候ではなかった。
その瞬間…。俺は何もかもがもう、遅すぎたんだと悟ってしまった。
路地の闇から溢れ出したのは、影よりも黒く、光よりも眩しい不定形の悪意を秘めた怪物だった。
俺が身構えるより速く、呼吸をする一瞬の間に
膝から下が逆方向に折れ、右腕が肩から千切れかける。背中からアスファルトに叩きつけられた衝撃で腰骨は折れ、下半身の感覚が無くなった。視界は、瞬時に自分の血で真赤に染まり、道端の
爽快感?優越感?人一倍の霊力…笑わせる…そんなもの、コイツの前では、ただの目立つ目標。忌むべき存在としての目印に過ぎない。
「…ぁ…。ゆ…ぃ…。に…げ……、ろ」
濁った俺の視界の先で、夢であってくれと願う事を諦めさせる残された微かな希望を、踏み躙るような最悪で陰惨な儀式が始まった。
怪異の中心部がザクロ色に割れ、血管のような触腕が結の細い腰を絡め取る。
「いやっ!卓郎!!助けて…なにこれ…卓郎!たく、ろ…」
恐怖に震える彼女の声。グチャリグチャリと耳を塞ぎたくなるような湿った吸着音と共に、絶望の侵食が始まった。
結の健康的な肌の下でみみずのような細長い何かが蠢き、骨を、神経を、怪物の論理で強引に編み変えていく。
バキッバキッ!っと、関節という関節が不自然な音を上げ折れ曲がり、彼女の体は不格好な
その瞬間…。俺の中の殺意が静かに激しく大きく爆ぜた
「ころ…す。ごろ、して…や、る…ご、ろして…やる…ご、ろす…お前だけは…ごろ…ろ…、す」
ぐちゃぐちゃになった身体が燃えるように熱い。もうどうなってもいい…。結のいないこの世界に何の未練もない。
今は、目の前にいるこの化け物を結を獲り込んだこの怪物を俺はただ、ただ殺したい。痛みと哀しみと怒りで満ちた俺の頭がそうさせるのか。魂が最後の力を振り絞っているのか。立ち上がれるはずもない足が、血と雨に塗れたアスファルトを踏む。
その時だった。
自我すら泥に溶けかけたその瞬間、結が俺を視た。その瞳は濁った緋色に染まっていたが、そこには運命をねじ伏せるほどの凄まじい意志が宿っていた。
『だ…め。…卓…郎。ダ…、メだよ。怒りに、…身を任せ…ちゃ、ダメ…、。怒り…は憎し、みを、生み。復讐は…虚しさし…か残らない。私は…そ、んな醜…く悲しい…輪…、廻に、あなたを…落とさ…せは、しない……』
彼女は、自分を壊し続ける怪異の拍動を、自らの第六感で逆に掌握し始めていた。怪物という猛毒を覚醒した魂で濾過し、コントロールしようとしている。
結の目覚めた力…それは怪物を力で抑えるのではなく、愛で包み込み怪物の真意を理解し、赦す。怪物の心と一つになり安らぎを与えようと必死に自分の心と繋げようとしている。
『卓…郎。お願い…。聞い、て…」
怪物が結を支配しようとする力が弱まり、結の瞳に生の光が蘇る。次第に口から放たれる言葉も明瞭さが戻ってきていた。
「ゆ…。い、ゆ、い…。ゆぃぃいいい!!!!!」
「あまり…時間が、ない。聞…いて。あなたの…その…力を、復讐なんかじゃなく…優しさに、代えるの。私、知ってた。あなたが…ただ、余りある…力を発散させる為に、この子たちを軽い…気持ちで祓っていたこと。それも、赦すの。
後悔なんか…哀しみを生むだけ…。時間がかかっても…良いから。自分の…行いも、この子の事も、全てを赦すんだよ…この子達は、ただ恐かっただけ…行き場を無くして、話を聞いてくれる人もいない…、視える人はいるのに…寄り添ってほしいのに…嫌われ、祓われ…伝えたい事があるのに…伝えられない…卓郎。あなたが,この子達を救う器になるの…その力を私があげる!」
「そ、ん…なこと…でき、ねー…よ」
「大丈夫。卓郎ならきっと、出来るよ!」
取り込まれる結のその言葉と、最後の笑顔は俺を励ましてくれたあの時と何一つ変わらなかった。
『一人じゃないよ。私は、卓郎の中で…生きる。あなたがこれから、優しさをいっぱいに広げた…意識の空間の中で作るこの子達の安らげる拠り所を、私が必ず護る。あなたの心が怒りと哀しみで溢れて闇に染まらないように、私があなたの蓋になる…』
「蓋な、ん…て。いらな、い。行かな、いで…くれ、結…おまえ…が、いな…きゃ。俺は…俺はっ……ゆい…」
結は、怪物の影のような異形を動かし俺の形を無くした左手にそっと暖かい歪な手を合わせ戻ることのない落命の抱擁を捧げた。あの日、胸に飛び込んで来てくれた結の温もりが、雨と混ざり俺の体に溶けていく。怪物の悍ましい脈動はいつしか消え悲壮感や孤独ゆえのもがき苦しんできた感情が一気に俺の心へと流れてくる
(…分かる?。この子の抱えていた気持ち…ただ、恐かっただけなんだよ。話を聞いてほしかっただけなんだよ…。)
突然、左の掌に熱した鉄を直接神経に押し当てられたような悲痛さと衝撃が走る。掌の中の一点が熱を帯び鼓動を感じる。俺のボロボロになった身体は、気がつくと薄い痣だけとなり千切れかけた右腕も、無残に折れた骨も治っていた。
見返りを求めず。相手の幸せを深く願い。いつくしむ温かい心。結が命を賭して覚醒し、その身に宿した[慈愛]の能力。
その力が今、俺の中に…
こんな俺なんかの為に…
「結…すまない…俺が…こんな…ごめん…ごめん…」
この雨は、全てを洗い流す慈悲の雨か…。
こんな俺すらも赦そうと、立ちあがれと慰めてくれるのか…。絶叫し、失意にかられ絶望しかけたその瞬間。
耳の奥で、元気な、けれど泣きたくなるほど静かな声が響いた。
(卓郎…。謝らなくていいから…。忘れないで…私は必ず…あなたの…側にい…る。だ…から…約…束、だ…ょ………)
それが、彼女との最初で最後の永遠に続く結びとなり
俺だけしか知らない世界へと旅立ってしまった。