怪異探偵 千駄ヶ谷卓郎しか知らない世界   作:哀愁のガムテープ

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五月十三日 am 7:50

目を覚ました千駄ヶ谷が見上げたのは、いつもの事務所の、湿気でわずかに歪んだ天井だった。
微睡の境界で、背中に柔らかい感触を感じる。それが、かつて自分を包んでくれた亡き恋人、結の慈愛に満ちた手の温もりであったなら…。

そんな叶わぬ空想は、古い革ソファーの冷ややかな感触によって無残に引き裂かれた。
背中の温もりなどどこにもない。そこにあるのは、自分一人の体温で温まっただけの、年季の入った孤独な感触だけだ。



正義と慈愛の激突

 

「…起きたか」

 

重い瞼を押し上げ、濁った意識を振り払おうとする卓郎に、低く濁った声が届く。

 

「轟さん…。すみません。かなり眠っていたようで」

 

「過呼吸になってぶっ倒れたんだよ、お前は。…かなりうなされていたが、大丈夫か」

 

轟の声には、隠しきれない懸念が混じっていた。

 

「昔の夢を…見ていました。でも、もう大丈夫です」

 

千駄ヶ谷は嘘を吐いた。大丈夫なはずがない。夢の中の結は今もあの路地裏で血を流し、微笑みながら蓋となり消えていった。あの日から、心の中の時計は一秒も進んでなどいない。

 

「そうか。俺もあれから、疲れ果てて署に帰るのも億劫でな。ここで休ませてもらった。風呂、借りたぞ」

 

轟のレインコートが、カーテンレールで生乾きのまま、まるで絞首刑の死体のように力なく吊るされている。昨夜の激しい雨の名残が、床に小さな水溜りを作っていた。

 

「卓郎〜。大丈夫か?」

 

「やっと起きたのかよ! おせーぞ卓郎。明星さーん、卓郎が起きたって!」

 

「ホントですねぇ。卓郎さん、おはようございますぅ」

 

テツオが寄り添い、亜子が口悪く罵り事務所の喧騒が戻ってくる。明星のどこか間の抜けた、それでいて温かい声。

そこには、残酷なほどに変わらぬ日常があった。

結が消えても、世界は壊れなかった。

時計は無慈悲に時を刻み、こうして自分を案じる仲間たちが目の前にいる。

死者への執着を、生者が無理やり引き戻していく。

 

(ありがとう…みんな)

 

彼女が命を懸けて自分に遺した[結び]。その意味を証明できるのは、この世界に俺しかいない。

千駄ヶ谷はゆっくりと立ち上がる。膝の震えを悟られぬよう、ソファーの端を強く握りしめた。

 

「轟さん。…もう一度、あのフィルムケースを貸してくれませんか?」

 

昨夜の恐怖の殘址(ざんし)が、まだ胃の奥を焼いている。それでも、怪異の正体へあの忌まわしい負の感情に手を伸ばさずにはいられない。

 

「その前に、顔ぐらい洗って来い。ひっでぇツラしてるぞ。お前」

 

そんなにひどいかと内心呟きながら、無言で洗面台へ向かう。冷たい水で顔を叩く。鏡の中に映る自分は、幽霊のように青白く、それでいて瞳の奥には昏い決意が灯っていた。

滴り落ちる水滴を拭い去ると同時に、卓郎は心の奥底にある俺だけしか知らない世界の扉にもう一度、固く鍵をかけた。

 

 

顔を洗い終えた千駄ヶ谷は、はポリ袋に入れられたフィルムケースと、その中に丸められていた犯行声明文を机に広げた。

部屋の空気が、その瞬間わずかに重く澱む。

 

「何かが、おかしい……」

 

声明文の紙面に、まじまじと視線を注いだまま呟いた。その瞳は、文字の羅列ではなく、紙の繊維に絡みつくナニカ(・・・)を凝視している。

 

「どうした?何か見えたか」

 

轟が身を乗り出す。

 

「この遺留物から溢れ出る力の殘址が異質すぎるんです。あまりに純粋で、暴力的な…。亜子、分かるか?」

 

「ちょっと貸してみ。……うえっ、やっぱくっせぇなぁ」

 

亜子は顔をしかめながらポリ袋に鼻を近づけた。

 

「テツオと明星さんも嗅いでみな。これ、普通じゃねーわ」

 

テツオが嫌々に鼻を寄せ、その瞬間に顔を強張らせた。

 

「なるほどな……。俺や亜子に近いモンを感じる。エグいな、こりゃ」

 

「私は……そこまで具体的には分かりませんけどぉ。でも、心臓を直接掴まれてるような、得体の知れない怖さを感じますねぇ」

 

明星が肩を震わせる。

 

「だよな〜。卓郎、轟のおっさん。たぶんこいつ、混じってる(・・・・・)ぞ」

 

「混じってる……? どういう意味だ」

 

轟の表情に、刑事としての鋭い警戒心が戻る。

 

「亜子、続けてくれ」

 

千駄ヶ谷が確認を促すように頷いた。

 

「いいか? 怪異っつっても色々いんだよ。明星さんは、元人間が地縛霊になった一般的な幽霊的存在な。で、うちやテツオは最初からヒトの理の外にいる存在だ。この声明文に残ってる臭いは、明星さんのような人間由来のものと、もっと根源的で、獣に近い…うちやテツオと同じ、古の妖怪の臭いだ」

 

「待て。ということは、この犯人は何かに取り憑かれた犠牲者だってことか?」

 

慌てて問いかける轟に、亜子は首を横に振った。

 

「逆だよ、おっさん! 最後まで聞けって。取り憑かれて正気を失ってるにしちゃ、この声明文の文字、筆圧が安定しすぎてんだよ。…いいか?自分の意志が、これっぽっちも揺らいでない。この猟奇殺人の手口を見ろよ。怪異なら空腹を満たすか、怨みを晴らせば終わりだ。こんな風に楽しんで飾り立てるような趣味の悪りぃ殺しはしねーよ。めんどくせー」

 

千駄ヶ谷が、亜子の言葉を引き継ぐように口を開いた。

 

「轟さん。はっきりした事はまだ分かりませんが、この犯人は恐らく…自らの意志で、怪異と同化していると思います」

 

「おいおい…嘘だろ。人間が化け物と一つになったってのか?」

 

「ああ。それも、ただの怪異じゃない。理性を喰らい尽くすはずの強大な力に、人間のエゴが打ち勝って、手綱を握っている。…純粋に己の力だけを鼓舞し捕食ではなく、ただ生き甲斐として人を蹂躙する存在。…そうか、この圧倒的な力と破壊の快楽…」

 

千駄ヶ谷の脳裏に古き文献の一節と、昨夜見た悪夢の残像が結びついた。

 

「明星さん。ネットで調べてほしい。場所は北関東の古い伝承。キーワードは…【異形の角】と【人喰いの宴】」

 

「はぁ〜い」

 

明星は、いつもの気の抜けた返事をしながら、積み上げられた古書の隙間にあるノートパソコンのキーを叩き始めた。

青白いディスプレイの光が、彼女の顔を無機質に照らし出す。

 

「ええっと……亜子さんたちのイメージと、卓郎さんのキーワードを合わせて……」

 

カタカタとキーボードの音だけが、静まり返った事務所に響く。やがて、明星の手が止まった。

 

「出ましたぁ。これ、ですね…」

 

明星の指がエンターキーを押すと、画面に古ぼけた郷土資料のデジタルアーカイブが表示された。

そこに描かれていたのは、血を連想させる朱色の絵の具で描かれた、天を突く二本の角を持つ異形の姿。

 

「…鬼、ですね。それも、ただの伝承じゃない。飢饉の際、村人を喰らい尽くし、その肉の味に憑りつかれて悪行の限りを尽くした…という記録が残っています。最後は、震え上がるほどの伝説と化し、その姿を消した…と」

 

明星の言葉が落ちた瞬間、事務所の空気が物理的な重さを伴って凍りついた。

 

「おい、待てよ…」

 

轟が、ポリ袋に入ったフィルムケースと犯行声明文を、穴が開くほど見つめながら後ずさる。

 

「鬼だと…? 令和のこの時代に、そんな絵本の中の化け物が犯人だってのか? 冗談じゃねえぞ。俺たちは狂った殺人鬼を追ってるんだ。浮世離れしたお伽話の相手をしてる暇はねえ!」

 

轟の叫びは現実を守ろうとする男の、必死の抵抗だった。

しかし、震える彼の手の中にある証拠品が、何より雄弁に異常を物語っている。

ただの紙のはずの犯行声明文からは、まるで見えない毒素のようにどす黒い圧迫感が放たれ続けていた。

 

「轟さん。……その紙に残る執念を見てください。轟さんにも、視えるはずだ(・・・・・・)

 

千駄ヶ谷が低く、断罪するように言った。

 

「かつて村を滅ぼし、歴史の闇へと消えたはずの鬼が、現代の狡猾な知性と一つなって戻ってきた。

犯人は、その渇きを自分の力として飼い慣らし破壊そのものを生き甲斐に変えた男だ」

 

「そんな…バカなことが…」

 

轟は、手の中のフィルムケースを凝視する。

中に残るナニカの気配。それは、今まで彼が数多の凶悪犯から感じてきた、どんなドブ川のような悪意よりも冷たく鋭い。

 

「人の皮を被り、鬼の渇きを支配している。…これこそが、最悪の混じりモノ。俺たちが相手にしているのは、この世で最も理不尽な…現代の鬼ですよ…」

 

鏡の前で洗ったばかりの顔が、再び深い苦渋に歪んだ。

これまで数々の怪異を「慈愛」で包んできた千駄ヶ谷でさえ、その証拠品から伝わる純粋な悪に静かに背筋を凍らせていた。なぜなら、怪異と同化して消えていった人間を自分は知っているから…

 

「おい…探偵。一応、聞いておくぞ」

 

轟の声は、地を這うような低さだった。

千駄ヶ谷は、その問いの先にある拒絶をすでに理解していた。

 

「…赦す気か?」

 

轟の言葉は、氷の楔となって千駄ヶ谷に突き刺さる。瞬間的に震える左の掌を無意識に握りしめ、逃げることなくその眼光を真っ向から受け止めた。

 

「…許したいと、思っています」

 

「…おっまえッ!!!!」

 

轟の怒号が事務所の空気を震わせた。同時に、岩のような拳がテーブルに叩きつけられる。凄まじい衝撃に、ポリ袋の中のフィルムケースが跳ねた。

 

「分かってんだろうな!? こいつはすでに最低三人は、殺してる! しかも、ただ殺すだけじゃ飽き足らず、死体を作品として公衆の面前に晒してんだぞ! ?人の理性が欠け落ちたバケモンの所業だ。それを赦すだ? 舐めるなよ小僧ッ!!!!」

 

轟は千駄ヶ谷の胸ぐらを掴み、至近距離から吠えた。飛び散る唾液と、刑事として何千という悪意と対峙してきた男の凄まじい圧。

 

「俺はデカだ! この狂った鬼混じりか何だか知らねえクソ野郎に、ワッパをかけるだけじゃ腹の虫が収まらねえ! 俺がこの手で絞首台まで引きずり上げてやりてえぐらいなんだよ! 赦すなんて言葉、二度と口が裂けても吐くんじゃねぇ!!」

 

胸ぐらを掴まれたまま、千駄ヶ谷の瞳に宿る静かな光は消えなかった。

むしろ、その奥底にある覚悟がより深く、昏く沈んでいく。

 

「俺には…俺にしかできないことがあるんです。轟さんがここへ来たのも、少なからずこの事件にこの世のものではない何かを感じたからじゃないんですか?」

 

「それがどうしたっ!」

 

「俺のやり方は、最初から知っていたはずだ…。これだけは、例えあんたが相手でも譲れない。俺は、この犯人を…赦し、助け、そのたまし…」

 

「ふざけるなッ!!」

 

千駄ヶ谷の言葉が、慈愛の核心に触れようとした瞬間轟の右拳が爆発した。岩のように厚く、怒りに満ちた一撃が頬を貫く。

殴られた勢いで玄関まで吹き飛び、凄まじい衝撃に視界が火花を散らした。口内が切れ、鉄の味が広がる。

それでも、這いつくばったまま血を吐き捨てて轟を見上げた。

 

「…轟さん…。俺の…気持ちは、変わらねーよ…俺は……」

 

「黙れ。次その口を開いたら、容赦しねえ。お前の慈愛なんてな!死んでいった被害者たちの前じゃ、ただの身勝手な傲慢なんだよ!」

 

事務所の中に、二人の荒い呼吸だけが響く。

法の名の下に正義を執行しようとする刑事と、狂気に満ちた業まで引き受けようとする探偵。

二人の間に、かつてないほど深い絶望の溝が横たわり始めたその時。

 

「…あー、もう。朝飯前から、なに青春ドラマやってんだよ」

 

頭の後ろで手を組み冷蔵庫から取り出したちくわを咥えた亜子が、我慢しきれないといった様子で口を開いた。彼女の派手すぎるパジャマが、緊迫した空気の中で異質なほど鮮やかに浮き上がっている。

 

「卓郎は[鬼まじりを赦したい]。轟のおっさんは[犯人をパクりたい]。……だったらさ、いっそのこと引っ剥がし(・・・・・)ちゃえばいいんじゃねーの?」

 

亜子は、まるで「朝飯は何食う?」とでも言うような軽さで、とんでもない提案を口にした。

 

「……引っ剥がす?」

 

 轟が眉をひそめる。

 

「そうそう。この鬼まじりは、たぶん人間の魂に、どす黒い呪いが接着剤でガッチリ塗り固められてるような状態なんだと思うね。だから、二つに分けちまえばいいーんだよ」

 

亜子はツカツカと進み、二人の間に割って入った。

 

「卓郎。あんたの慈愛なら、外側の呪いだけをターゲットにして、優しく溶かして消滅できんだろ?あんたが赦すのは、その呪いの部分だけでいい」

 

そして、亜子は轟を指差した。

 

「で、中から出てきた[ただのイカれ野郎]を、おっさんが公務執行妨害なり殺人容疑なりでぶっ倒しゃいい。名付けて、怪異分断大作戦!!これなら、卓郎のお人好しもそのままで、おっさんも犯人を刑務所にブチ込める。ウィン・ウィンじゃねーか!」

 

「作戦名が、クソだせーって思うのは俺だけか?」

 

テツオが前脚で顔を洗いながら少し笑っている。ように見える。

 

「オペレーション・セパレート。って言うのはどうですかぁ?カッコイイ響きだし、チームって感じがしません?」

 

すき間から明星が、ワクワクする瞳で話の輪に入る。

千駄ヶ谷が殴りとばされた衝撃の緊迫した空気感が一気に和らいだ。

 

「……そんなことが、可能なのか」

 

轟が息を呑む。超常現象を相手にしてきた彼ですら、魂を分かつなどという発想はなかった。

 

「大丈夫!卓郎ならやれるさ!なっ!」

 

亜子の言葉が、あの日の結と重なる。

 

(大丈夫。卓郎なら、きっと出来るよ)

 

結の温もりが、今もそこにある。

怪異を赦し、人間を罪へ還す。それは、かつてないほど繊細で、苦痛を伴う慈愛の行使になるだろう。

 

「ああ。やるよ。必ず」

 

 





トースターが軽快な音を鳴らし、焦げたパンの香りが事務所に広がる。
テーブルを囲む朝食。メニューは、バターを塗っただけのシンプルな食パンだ。

「俺のカリカリ出してくれよ〜」

「待てよっ!順番!!」

テツオと亜子の陽気なやり取りだけが、重い空気をかろうじて繋ぎ止めている。
明星は、雨上がりのさかえ通りを眩しく照らす窓の側で一日の始まりを目を細くして感じている。
昨日までの泥濘を洗い流したような、残酷なまでの晴天。
千駄ヶ谷は、赤く腫れた頬の熱を感じながら無言でパンを口に運ぶ。その隣で、轟もまた苦虫を噛み潰したような顔で焦げたパンを咀嚼していた。
相容れない正義を抱えたまま、それでも二人は同じテーブルを囲む。

その時、朝食を終えた轟のスマホが静寂を切り裂くように鳴り響いた。受話器越しに流れる焦燥した声。
それを聞く轟の顔から、みるみる血の気が失せていくのを千駄ヶ谷は、覚悟の眼差しで見つめていた。
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