怪異探偵 千駄ヶ谷卓郎しか知らない世界 作:哀愁のガムテープ
am 8:20
事務所で朝食を終えた轟へ舞い込んだ突然の連絡…。
それは同じ戸塚署の同僚刑事からだったが、その連絡は正に青天の暦壁とも言うべき衝撃的な内容だった。
『萬さん。四件目だ…。すぐ新宿へ行ってくれ!もうむちゃくちゃだ』
同僚の喉を掻き切るような絶叫。轟と千駄ヶ谷はすぐに事務所を出た。一件目の現場へ行き、何か鬼混じりの手がかりを掴もうとした矢先の、犯人の新たなる犯行。決して
「こんな短時間で、もう次の作品か…舐めやがって…」
轟は、飛び乗った車内で消え入りそうな声で呟いた。隣に立つ千駄ヶ谷も、緊張が隠せない。この東京で今、大変な事が起きている。新宿駅へと向かう山手線の車内は、いつも通りのどんよりとした、だが平穏な空気に包まれていた。だが、一駅隣の新大久保を過ぎたあたりで、その平穏が物理的にひび割れる音を聞いた。
乗客たちが一斉にスマホを手に取り、窓の外を指差しては、言葉にならない喘鳴を漏らし始めたのだ。
電車が新宿駅のホームに滑り込み、ドアが開いた瞬間、流れ込んできたのは
甘ったるい香料と、それを突き破る生々しい鉄錆の臭気。階段を駆け上がり広場へ飛び出した二人の前に、新宿の日常を完膚なきまでに破壊する展示物が現れた。
広場の中央。3D巨大猫のビジョンの真下。
二人の男女が背中合わせに、一本の杭を共有するように貫かれ縫い合わされている。
全身に穿たれた無数の精密な穴から、血が霧となって噴き出し朝日に照らされて禍々しい虹を描いていた。
それを目にした群衆の反応は一様ではなかった。スマホを向けたまま、画面越しにソレが本物の肉体であると理解した瞬間、指を震わせてアスファルトに尻もちをつく若者。縁石に手をつき胃の中のものをぶちまけて膝をつくサラリーマン。
「なんだ…これ。フェイクじゃねーのか」
「嫌だ、嫌だ…嫌だ!」
「なんなんだよ…あれはぁぁ!」
錯覚ではなく現実に起きている地獄を拒絶し、自分の髪を掻き毟りながら逃げ惑う女性の叫びが新宿のビル風に虚しく響く。パニックは波紋のように広がり、駅の入り口では逃げようとする人々の将棋倒しさえ起き始めていた。
世界一の乗降客数を誇る駅の広場は、一瞬にして逃げ場のない屋外屠殺場へと変貌した。
パニックが臨界点に達した瞬間、巨大ビジョンの華やかな広告映像が消え、不気味な姿をした何者かが画面に現れる。
スピーカーから溢れ出したのは重厚で、あまりに静かな男の肉声。それは呼吸をするのと同じくらい淡々と、だが広場の空気を真空に変えるような圧を伴っていた。
〘静粛に…新宿という名の…愛しき迷い子たちよ〙
ビジョンに映し出されたのは、真っ赤なマントを羽織った男の立像。
轟はそのマントを視認した瞬間、脳が理解を拒絶するのを感じた。それは布ではない。何枚もの人間の皮膚を、血管の一本一本が刺繍に見えるよう精密に縫い合わせ、血液で
そして男が被っている仮面。それもまた、被害者から剥ぎ取られ、防腐処理を施された
男の唇が動くたび、仮面の口元が不自然に引き攣り、死者が喋っているかのような錯覚を撒き散らす。
〘忘却は罪だ。私は夜を作りに来た。再び逃れ得ぬ、血肉に染まる夜を〙
「なんだ…コイツは…忘却…。あの姿。どこかで…」
轟が、震える拳で自分の腿を叩いた。得体の知れぬ常軌を逸した化け物が、当然のように令和の街に君臨している。
画面の中の男は、眼下の騒がしいパニックに一切の興味を示さない。
彼はただ、自分のマントの質感を慈しむように指先でなぞり、淡々と語り続ける。
〘諸君は死というものを終わりのように語るが、それはあまりに想像力が欠如している。…人間とは、ただの容れ物だ。温かい肉、流れる血、そして剥がせばしなやかに広がる皮。……私はただ、その無意味な容れ物を、永遠の美しさへと昇華させているに過ぎない〙
男の言葉には、狂乱も怒りもなかった。ただ、天気を語るような平熱のまま、サイコパス特有の論理が新宿の空に響き渡る。
〘警察の諸君。君たちは、私を追うという娯楽を享受しているつもりかもしれないが、残念ながら私はまだ、
男は最後にカメラを、あるいは広場全体を見渡すように顔を上げた。
「テメェ!!!ふざげんなよ!」
轟の怒号が虚しく響く。
〘さあ、次の夜を待て。赤がいいか?青がいいか?いや…次も
ビジョンが暗転し、3D猫の映像が戻る。だが、その猫が可愛らしく欠伸をする映像は、もはや地獄の入り口を飾る安っぽい書き割りにしか見えなかった。
ビジョンが暗転し、3D猫のあくびが戻る。しかし、新宿東口広場の空気は二度と元には戻らなかった。
「おい…。探偵。見たか」
轟の声が、群衆の悲鳴にかき消されそうになる。
「ああ。あれは、無残に殺された人達の執念そのものを着込んで愉しんでいる」
千駄ヶ谷の視線は、映像の消えたモニターの奥。
犯人がいたはずの虚空を射抜いたままだった。
「クソッ、本庁が動くぞ! 規制線を張れ! 応援を呼べ!」
轟がスマホ取り出し怒鳴り散らしながら、刑事の顔に戻る。
「探偵、俺は一旦署に戻って緊急配備の指揮を執る。お前は…」
「俺は、アイツの
「赤マント…聞いたことねーか?俺がガキの頃流行った都市伝説に出てくる怪人の名だ。赤と青を選ばせ、赤なら血まみれに。青なら血を抜かれ殺される。くっだらねー。必ず見つけるぞ…何か分かったらすぐ連絡しろ」
轟の脳裏に、あの昭和の子供達を震え上がらせた仮面の男が浮かび上がる。
「分かりました。轟さんも、気をつけて」
轟は苦渋の表情で頷き、荒波のような人混みを掻き分けて新宿署へと走り出した。
一方、新宿の喧騒から離れた千駄ヶ谷事務所。
テレビから流れるニュース速報を、テツオと明星が食い入るように見つめていた。
「これは、ひどい。卓郎さんたち、大丈夫でしょうかぁ」
「あの二人なら大丈夫だ。だが、あの赤マント…かなり鬼の力が増してるな。画面越しにまで飢えた気配が漏れ出してる」
テツオが苛立たしく爪を立てる。明星のパソコンには、事件を揶揄するSNSの書き込みが滝のように流れ、現実の恐怖を薄っぺらな娯楽へと変えていた。
「よしっ! 飯も食ったし。うちは出かける」
空になった皿を重ね、亜子がファンシーなピンクのパーカーを掴み取った。
「どこ行くんだ? パトロールか?」
テツオが欠伸を噛み殺しながら尋ねる。
「亜子さん、出掛けるならついでにスーパーでマヨネーズ買ってきてもらえません? ストックがないんですよねぇ」
明星がのんきな声を重ねると、亜子の眉間がピクリと跳ねた。
「あーー! ちげーよ! この鬼混じりの変態野郎を捕まえに行くんだよ! 目白坂だな。あそこはまだ、
「おいおいおい。卓郎に許可取ってから行けよ。これ以上面倒事起こしたらさすがにアイツもキレるぞ?」
テツオの制止を、亜子は鼻で笑い飛ばした。
「へッ!ガキの使いじゃねーんだ! うちら、探偵の助手だろ? こんな時に動かねーで、いつ動くんだよ!?」
「……今、でしょ」
明星がすかさず、合の手を入れる。なかなか古いが最高の台詞で亜子の背中を押す。
「ったく…明星まで。俺は知らねーぞ。後で卓郎に怒られても」
テツオは呆れ顔で頭を掻いたが、その瞳には鋭い光が宿っていた。
「まぁ、俺も仲間にそれとなく情報を集めるよう手配はしてやる。あの野郎を、このままにしとくのは、寝つきが悪すぎる」
「私も、ネットの掲示板に犯人らしき人がいないか探ってみますね。あそこまで大胆に出てきたからには、注目されたい欲求も少しはあるんじゃないかなって思いますから」
「ほれ見ろ! 決まりだ。さぁ!! 千駄ヶ谷探偵事務所の本気、見せてやろうぜ!」
亜子はニヤリと不敵に笑うと、壊れそうなドアを勢いよく開け放った。
雨上がりのさかえ通り。眩しすぎる太陽の光の下、彼女のチカチカする派手な服装が弾丸のように目白坂へ向けて飛び出していく。
それは、卓郎の慈愛でも、轟の正義でもない。
自分たちの居場所を荒らす外敵に対する怪異たちの本能的な反撃の始まりだった。