怪異探偵 千駄ヶ谷卓郎しか知らない世界   作:哀愁のガムテープ

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五月十三日、am2:43

文京区、目白坂。

空は、巨大な(すずり)で擦り潰した墨をぶちまけたような色をしていた。
坂道を濡らす雨は、天が流す慈悲の涙などではない。それは、東京という巨大な死骸から染み出した不純物であり、アスファルトにこびりついた孤独や怨嗟を洗い流すこともできず、ただ執拗に、街の輪郭を濁らせていく。

「……チッ、よく降るな」

その雨の中、一人の男が神田川に架かる橋の袂に立っていた。警視庁戸塚警察署殺人捜査一課強行犯捜査係
轟萬次郎(とどろきまんじろう)五十一歳。
深く刻まれた眉間の皺と、雨に濡れて張り付いた白髪が、隠しようのない歳月を感じさせる。
かつての鋭い筋肉は落ち、重くなった膝の痛みは日増しに強くなっている。
だが、レインコートを叩く激しい雨に打たれながらも、その背筋は鉄骨のように伸びていた。何より特徴的なのは、瞳だ。
濁り始めた白目の奥にある虹彩は、獲物を決して逃さぬ老いた猛犬の如く、鈍く、しかし消えない殺意を持って闇を射抜いている。
轟には、長年の殺人捜査で数々の無念の死を遂げた遺体と対面を続けてきた結果、霊力的な澱みや低級怪異を捉える力が微かに宿っていた。
今、目の前の坂を埋め尽くすように滞留している墨汁のような闇が彼の網膜をじりじりと灼いている。

「萬さん、本来は神田川(ここ)管轄(シマ)の境界なんだがな…。川を越えた文京区側は大塚署のシマだ。戸塚署の俺たちが勝手に踏み込めば、まーた越権行為だと絞られるぞ…」

 声をかけてきたのは、科捜研の山城だった。轟とは付き合いが長く、いくつもの凄惨な事件を共に潜り抜けてきた男だ。

「管轄の調整なんてもんはな。エアコンの効いた部屋でふんぞり返ってる上のアホ共(幹部)にやらせときゃいーんだよ。一件目から、このコロシを追ってんのは俺だ。仏さんがどこの誰だろうが関係ねぇ…。始末書なら事が終わった後にいくらでも書いてやる。行こうぜ。胸糞悪い臭いがプンプンしやがる…」



坂の下のデットアート

 

轟が橋を渡り、目白坂の街路樹の下へ足を踏み入れると、脳裏にこの数週間で焼き付いた忌まわしい記憶が蘇った。

 

一件目、五月三日。小石川。伝通院 am6:15

本堂前の石畳に忽然と現れたのは、人体楽器だった。

被害者は女性。年齢は二十歳前後(後の検視の結果判明)

この楽器は、生きたまま筋肉を裂き、それを「弦」として張り巡らせた肉のハープ。剥がされた皮膚の裏側に声明文が記されていた。

 

〈理という皮を脱ぎ捨て、死を奏でろ。剥げば皆一様に、美しい赤色の美が見える。だが、この素材はあまりに脆すぎた。次こそは、もっと「粘り」のある悲鳴を期待しよう〉

 

二件目、五月九日。後楽園。am2:03

深夜のゴミ捨て場にスポットライトまで持ち込み置かれていたのは、数十人の被害者から指だけを集め巨大な百合の花のように組み合わせたオブジェだった。ご丁寧に、切断した指の中に針金を入れ、まるで意思を持ったかのように動く細工まで施していた。

百合の花の下には、またしても不気味な犯行声明文。

 

〈死してなお痙攣する指先は、見事な花弁の揺らぎを再現してくれた。永遠に枯れない「赤」を、私はこの街というキャンバスに刻みたい〉

 

そして今、目の前にある三件目。

被害者の性別は男性。

街路樹の間に、人間の皮膚が薄く正確に裁断され、まるで緋色のカーテンのように吊り下げられている。

その中心には、生々しい筋肉を露出させた遺体が、幾何学的なポーズで固定されていた。

 

誕生を奏で、損壊を楽しみ。そして確信へと変わる。犯人の手口は回を追うごとに、生物としての尊厳を完膚なきまでに破壊する芸術へと洗練されていた。

 

「山さん、率直な意見で構わん。医学的に言えば、どうなる…」

 

山城が、震える手でライトを遺体の断面に当てた。

 

「説明なんて、何の足しにもならんよ。むごすぎる…

この皮膚の裁断、刃物の痕跡がまったくない。仏さんからは、細胞が鋭利な金属で切られた形跡がまったくない。

まるで、強靭な力で特定の層だけを吸い出したような……。

さらに言えば、この鎖骨。素手で掴み、関節を破壊せずに捻り抜いちまってる。必要な力は、大型の油圧プレス機に匹敵する。…人間が、素手で成し遂げられる領域じゃーねぇ。自分で説明してる言葉に寒気がするよ」

 

山城の声が激しくなる雨音に混じって震える。

 

「遺族の前じゃ決して言えねぇけどよ。萬さん…稀にあるよな…こんな人智を超越したブッ飛んだコロシがよ…」

 

轟は、遺体の足元に置かれた透明なフィルムケースを手袋越しに拾い上げた。犯人が丁寧に雨から保護した三件目の声明文だ。

 

〈ようやく、この街の湿度が私の美に馴染んできた。

彼女の背中を飾る十六の(ひだ)は、天を仰ぐ翼である。

肉を削ぎ、皮を繋ぎ、不純で汚れた「命」を排した先にこそ、真の静謐(せいひつ)が宿る。…嗚呼、美しい。この赤こそが、この街の夜を彩るべき唯一の正解だ〉

 

「…反吐が出るな。こいつは、自分の異常な身体能力の理屈を、この声明文で鼓舞してやがる」

 

轟は、遺体を冷めた瞳で見つめる。長年の凄惨な事件を捜査し続け宿った中途半端な視える眼には、遺体から立ち昇る狂気の念がドクドクと溢れていた。

 

「…捜査一課じゃもう、手に追えるホシじゃねぇな」

 

轟はレインコートのポケットに手を突っ込み、煙草を取り出し火を付ける。常軌を逸した狂人の思考を読み取ろうと考えたらタバコでも吸わなければ正気をたもてない。

雨に打たれ紫煙の仄かな灯りはすぐに消えてしまう。

 

しかし…

 

その瞳には消えない怒りの炎が宿っていた。

科学が匙を投げ、法が沈黙する。警察組織が管轄だの自分達の面子などと言い争っている間に、この人を超えるバケモノは狂った芸術家を気取り街を食い破り、四件目の作品を作り上げるだろう。

 

「あいつ…全っ然連絡してこねーじゃねぇか」

 

レインコートを濡らす雨粒を払い飛ばすように現場から背を向け、使いこなせないスマホの発信履歴にある【探偵】とぶっきらぼうに入力している文字を見つめながら、轟は雨の坂道を下り始めた。

膝に走る鈍い痛みを感じながら、かつての全盛期ならもう数歩早く犯人の影を捉えていたかもしれない、と自嘲する。

だが、その足取りには、一度噛み付いたら死んでも離さない猛犬の執念が宿っていた。

 

「たとえ人間に不可能でも、俺が捕まえると言ったら捕まえるんだ。…地獄の底まで追いかけてでもな」

 

ギラつく瞳で見据える先に、何が待っているのか。

轟は怒りで震える拳を残された理性でゆっくり開き、乱暴に銜えたタバコに火を付ける。あいつの力が必要だ…。

まだ静寂に包まれる街を抜け正義を背負う猛犬は、千駄ヶ谷探偵事務所へと重い歩を進めた。

 

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