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夏だ。
窓の外では油蝉の鳴き声が暑苦しく降り注いでいたが、冷房を効かせた室内はひんやりと乾いていた。掻塚のビジネスホテルを引き払ってからすでに数ヶ月が経ち、遠国春彦は都内の自宅兼事務所で平穏な執筆生活へと戻っている。
グラスの中で丸くなった氷をカランと揺らし、遠国はデスクの上で震えたスマートフォンを手に取った。画面に表示された番号を確認して通話ボタンをタップする。短い呼び出し音が二度鳴ったところで通話が繋がった。
不思議なものだ、と遠国は思う。
「もしもし、遠国です。ご無沙汰しております。先日はありがとうございました。報酬のほう、昨日確かに頂戴いたしましたよ」
遠国は革張りの椅子に深く身を沈め、穏やかな声で礼を述べた。
「いつもながら手厚いご配慮をいただき痛み入ります。私としてはただ依頼された分の仕事を果たしたまでですがね」
電話の向こうから、その後の首尾を問うような静かな息遣いが返ってくる。遠国はグラスの縁を指先でなぞりながら口元を緩めた。
「掻塚町の件でしたらもう何の心配もありませんよ。ホテルを引き払ったあとも月に一度は足を運んで様子を見ておりますが、かつての淀みはすっかり抜けきっています。先月も新しく建ったマンションに若い世帯がいくつも引っ越してきましてね。夜道で妙な声に怯える人間もいなければ、障りに当てられて寝込む人間もいない。どこにでもある健全で退屈な住宅街そのものです」
年明けの時点ではまだ半信半疑だった
「ああ、伊佐朗君ですか。彼ならば相変わらず元気にやっていますよ」
遠国はデスクの端に置かれた一枚の広報チラシへ視線を落とした。区の地域文化振興課が刷り上げた夏休みのイベント案内である。
「実は先月から彼には掻塚町の『怪奇アンバサダー』という役回りを務めてもらっておりましてね。ええ、行政が企画した町おこしの観光キャンペーンですよ。私がアドバイザーとして少しばかり口利きをしまして、地元の顔として彼を推薦したのです」
受話器の向こうで、呆れたような、あるいは困惑したような僅かな間が生まれる。遠国はくすりと笑って肩をすくめた。
「本人は最初こそ面倒くさそうに渋っていましたが、区から出る謝礼の額を聞いたら喜んで引き受けたそうですよ。配信者だけあって話す事は慣れているようで、いくつかトークショーも無難にこなしています」
チラシの隅には、どこか引きつった笑顔でタスキを掛けられた青年の写真が小さく載っている。遠国は指先でその写真を軽く弾いた。
「しかし、大したものですね。ここ最近の彼の配信や立ち回りを拝見しておりますとね、中々どうして慎重なものなのです」
遠国はブラインドの隙間から覗く夏の白い空へ目を向けた。
「『あちらの世界』の事をいたずらに面白がるでもなく、むしろ面白がる世間の空気を掣肘しているようにも見えますよ。賢明な立ち回りです。誰に言われたのかは知りませんが、大した心掛けではありませんか。無闇に恐れず不遜に踏み荒らすこともない。彼のような人間が町の看板として矢面に立ち見物客の軽薄な好奇心に程よい重石を乗せてくれているからこそ、掻塚町の均衡はこれほど綺麗に保たれているのでしょう。結果論ではありますが彼をアンバサダーに据えたのは実に良い一手だったと自負しておりますよ」
スピーカーの奥から、今度はどこか安堵の滲んだ柔らかな溜息が聞こえた気がした。
「ええ、しばらくは今のまま彼に任せておけば間違いありますまい。私も折を見て後ろからフォローを入れておきますよ。それではまだまだ暑さが続きますゆえ、どうぞご自愛ください」
通話を終え、遠国はスマートフォンをデスクに戻した。
グラスに残った冷たいアイスコーヒーを一口で飲み干す。丸くなった氷が底で乾いた音を立てた。
「……さて、こちらの原稿も片付けてしまうか」
遠国はチラシを脇へ寄せ、書きかけだった小説の画面へと向き直った。