これは、ある年の夏休みに入る少し前のこと。
俺が一人で渡り廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。
「ねえ」
振り返ると、おかっぱ頭の小柄な子どもが立っていた。上履きの色を見る限り、おそらく三年生くらいだろう。
その子は俺と目が合うと、どこか安心したように近づいてきた。
誰だったかなと思いなが待っていると。
「体育館の天井にボールが挟まっちゃったんです。取ってもらえませんか?」
そう頼まれたものの、俺は内心で首をかしげた。
——それを俺に頼むのか?
とはいえ、せっかく声をかけてきたのだ。様子を見るだけならいいだろう。
そう考えて体育館へ向かおうとした、そのときだった。
強烈な違和感が全身を襲った。
身体中を駆け抜ける怖気。それだけで、あの場所へ行くのは危険だと理解するには十分だった。
意識して思い返してみれば、たった今、頼み事をしてきた後輩の顔が思い出せない。
確かに目の前で見たはずなのに、覚えているのは、おかっぱ頭だったことだけだ。
(怪異関連かい!)
俺は、おかっぱ頭の幽霊らしきものを背に、すぐさま行き先を体育館から職員室へ変更した。
あれとの会話を長引かせるべきではない。
会話のどの言葉が引き金となって、異界なんかに引きずり込まれるか分かったものではないからだ。
「頼まれて嬉しいけど、さすがに先生を呼んでくるね!」
そう早口で言い残すと、返事も待たずに廊下を駆けだした。
その後、近くにいた先生を呼び止める。
「体育館の天井にボールが挟まったって、困ってる子がいましたよ」
それだけ伝えると、先生の返事も待たず、何事もなかったかのようにその場を離れた。
夏休みが明けたあと、あのとき呼び止めた先生に会い、話を聞くことができた。
体育館の天井には、確かにボールが挟まっていたらしい。
けれど、その場には誰もいなかったという。
あのとき、もし俺が体育館へ行っていたら、どうなっていたのだろうか……。
こうした出来事を、俺はこれまでに何度も経験してきた。
◇ ◇ ◇
この世界に転生して、早十年。
前の世界ならホラー作品の中でしか起こらなかったような出来事が、この世界では日常のように襲いかかってくる。
かといって、怪異が誰彼構わず襲うわけではない。
どうやら奴らは、自分たちの存在に気づける人間を狙い、集中砲火よろしく四方八方から襲いかかってくるらしい。
転生した影響なのか、怪異の気配を察知できる俺はもちろん、転生など関係なく霊感の強い人間も、もれなく標的になるようだ。
反対に、霊感のない人間はほとんど被害を受けない。
絶対に安全というわけではないようだが、それでも羨ましい限りである。
転生ものの定番といえば、異世界への転生や、原作のある物語世界への転生など、いくつか種類がある。
そして最近になって、俺の中に一つの疑いが生まれた。
この世界は、原作のあるタイプのホラー作品の中なのではないか——と。
なぜ、そう思うようになったのか。
きっかけは、俺が小学三年生のころ、ある三人組を見かけたことだった。
三人とはクラスが違い、関わりもなかった。四年生になるまで一度も同じクラスにならなかったため、詳しい人となりは知らない。
それでも、ちらりと見るだけで分かる。
いかにも物語の主人公らしい、正義感の強そうな男の子。
そして、そんな彼に惹かれるようにしてそばにいる、小学生にしては妙に容姿の整った女の子が二人。
そんな、コテコテの三角関係が始まりそうな彼らが少し気になった俺は、普段話す程度には仲のいい友達に、それとなく三人のことを聞いてみた。
すると、これがまあ、出るわ出るわ。
曰く、死んだはずのクラスメイトが、何事もなかったかのように登校してきた。
曰く、三人の担任が、本人そっくりのドッペルゲンガーに襲われた。
曰く、山へ遠足に行った日には存在しない学校へ迷い込み、何人かのクラスメイトとともに命からがら逃げ帰ってきた。
——などなど。
それらの話を聞いて、俺はピンときた。
(これ、原作のあるタイプの恋愛ホラーものだな)
二次創作なんかであれば、転生者は原作知識を使って、うまいこと——うまくいくとは言っていない——おいしい展開へ持ち込んだり、逆に原作とは関わらないよう距離を取ったりするものだろう。
だが、残念ながら俺には、そのどちらの策も選べない。
だって、原作を知らないから。
せめて……せめて曖昧でもいいから……あらすじだけでも教えてくれ……!
ホラーものも、アニメも漫画も好きだったから、有名どころは一通り知っているつもりだった。
だが、いくら頭をひねっても、なーんにも出てくりゃせん。
もしかすると、この世界の原作は、あまり日の目を見なかったマイナー漫画なのかもしれない。
俺にできることといえば、この物語の想定読者層を考察し、全年齢向けなのか、それともお子様お断りのR指定ものなのかを推測することくらいだ。
物語の定番トリオらしき三人が小学生なのだから、令和の時代を考えればお茶の間でも流せるタイプのホラー作品として、恐怖描写も多少はマイルドにされていると思いたい。
方向性としては『怪談レストラン』方面に近い——そう信じたいところだ。
ただ、俺自身がこれまでに経験してきた怪異を考えると、結構えげつないものが多かったので、何とも言えないんだよな。
三人組が『怪談レストラン』担当で、俺だけ『怪談新耳袋』か『闇芝居』担当だったら、もう泣くしかないが。
考えれば考えるほど泣けてくる状況だが、悪いことばかりでもない。
転生した影響なのか、それとも俗にいう転生特典というやつなのか、俺には一つだけ特殊な能力がある。
こんな地雷原だらけの世界を生きていくうえで、何度も重宝してきた能力。
それが、危険察知だ。
『ヒロアカ』でいうところの「危機感知」であり、『スパイダーマン』でいうところのスパイダーセンス。俺自身は、そのようなものだと考えている。
知っている人には今ので通じただろうが、一応説明しておくと、俺自身に危険が迫ったとき、身体がそれを感じ取る能力だ。
怪異で例えるなら、トイレの花子さんがいるトイレへ入ろうとしただけで、扉を開ける前からとてつもない怖気を感じる。
いわくつきの品も、目にした瞬間に「これは触れたらまずい」と判別できる。詳しい由来や効果までは分からないが、少なくとも危険なものを自分から拾わずには済む。
さらに、頭上から物が落ちてくる、車が近づいてくるといった物理的な危険にも反応する。
転生したせいで怪異に狙われやすくなったことまで含めれば、プラスマイナス、そこそこマイナスといったところだ。
そんなこんなで、何とか今まで元気に生き延びてきた俺だが……そんな俺にも、どうしようもない危機が迫っていた。
その危機が訪れたのは、五年生の始業式の日だった。
張り出されたクラス分け表を目にした俺は、周囲の視線を気にする余裕もなく、その場に膝から崩れ落ちた。
俺の名前と、あの定番トリオ三人の名前が、同じクラスの欄に並んでいたのだ。
「……終わった」