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朝晩の風に秋の気配が混じり始める頃、遠国春彦は自分の中で一つの区切りをつけた。
霊障や怪異を扱う者にとって一年で最も警戒すべきお盆の期間が、掻塚町で何ひとつ騒動を起こすことなく過ぎ去ったのである。あの土地の底に澱んでいたものが本当に力を失ったのかどうかを見極める上で、八月の半ばは最後の試金石だった。その最大の山場を街は無風のまま乗り切ったのだ。もうこれで掻塚の件は名実ともに片付いたと考えていいだろう。
遠国はこれまでビジネスホテルを引き払ってからも月に何度か掻塚町へ足を運んでいた。昼夜を問わず路地を見て回り、古い塚の周辺や商店街の様子を調べておかしな兆候がぶり返していないかを自分の目でチェックしていたのである。だがそれも先月末の巡回をもって終わりにすることにした。これ以上あの街へ通い詰める必要はどこにもない。
世田谷区の閑静な住宅街にある自宅の書斎で、遠国はパソコンのキーボードを叩きながらふと指を止めた。執筆中の次回作の原稿を画面に映したまま、椅子の背もたれに体重を預けて掻塚町のことを振り返る。
そもそも掻塚という土地が抱えていた歪みの本質とは何だったのか。
遠国なりの考察はこうだ。あの場所には古くから飢饉の折に岩の隙間へ生きたまま押し込められた無宿人の怨恨や、時代ごとに積み重なった失踪と変死の記憶が地層のように沈殿していた。そうした過去の後ろめたさや禁忌の意識が閉鎖的な住民たちの間で共有され続けることで、街全体が現世と幽世の境界を曖昧にする巨大な「魔の受け皿」として機能してしまっていたのである。
土地固有の濃密な文脈が保たれている限り、人々の畏怖を養分にして底の澱は何度でも形を得て這い出してくる。だからこそ正面から厳粛な祭祀で抑え込もうとすれば、かえって人間側が祟りの輪郭を強く意識してしまい逆効果になるのだ。
その点において遠国が採った手法は極めて合理的だった。外からメリーさんだの八尺様だのといったその土地の因縁とは何の脈絡もない三流の都市伝説を大量に吹き込んで文脈を希釈する。そこへあの伊佐朗という配信者の間の抜けた塩撒きや手印のブームが重なり、さらには行政の観光キャンペーンまで乗っかったことで逃げ場のない土地の呪いはどこにでもある安っぽいオカルト消費の波へと解体されたのだ。
「やはり『
遠国は静かな書斎でひとりほくそ笑んだ。依頼主である古い社家の女は遊び半分で幽世の事を持ち出すなだのネットの与太話でも危ういだのと最後まで渋い反応を示していたが、結果を見ればどちらが正しかったかは明白である。どれほど由緒ある血筋だろうと、時代遅れの畏怖に縛られていては大局を見誤るのだ。
気分よく思考を切り替えた遠国は再びキーボードへと向かい、その夜の予定の箇所まで原稿を一気に書き上げた。ファイルを保存してパソコンの画面を閉じ、軽く首を回してから二階の寝室へと上がる。
照明を落としてベッドに横たわると、心地よい疲労感とともにすぐさま眠気が訪れた。
だが、ふと夜中に目が覚めた。
何時頃なのかは分からない。遮光カーテンを閉め切った暗い寝室の中で、遠国は仰向けのまま瞬きをした。
ベッドのすぐそばに、誰かの気配を感じる……。
それと同時に、鼓膜の奥でキィンという甲高い耳鳴りが鳴り響いていることに気づいた。頭蓋骨の内側を金属の針で引っ掻くようなその音は、どれだけ待って見ても一向に止まらない。
遠国は布団の中で指先ひとつ動かせないまま、恐る恐る気配のするほうへ視線を向けた。
ベッドの脇に誰かが立っていた。
闇の中でそこだけ浮き上がるような白いワンピースの女だ……。しかし横たわる遠国の目にはその下腹部あたりまでしか見えない。異常なほどに背が高く、視界に収まらないのだ。
強張る眼球を動かし、遠国はゆっくりと視線を上げてみた。
まさに天井近くから見上げるような背の高い女が真上からこちらを見下ろしている。女といっても本来目のあるべき箇所には暗い空洞があき、口はぽかんと開いたように見えるがまるで血のように赤い。
遠国は声を出せず、ただ唖然とするばかり。
次の瞬間、遠国は壁を見ている事に気づいた。
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【社会】怪奇作家の遠国春彦さん自宅で不審死 世田谷区の住宅 警視庁が捜査
十日午後二時ごろ東京都世田谷区の住宅においてこの家に一人で暮らす怪奇作家の遠国春彦さん(四十二)が二階の寝室で死亡しているのを、打ち合わせのため訪れた出版社の担当編集者が発見し一一〇番通報した。前日から連絡が取れないのを不審に思い、合鍵を預かっていた管理会社とともに室内を確認したという。
警視庁世田谷署によると遠国さんは寝室のベッドの上で仰向けの状態で倒れており、頸部が不自然な方向へ大きくひねられて死亡していた。死亡推定時刻は九日未明とみられる。玄関および窓はすべて内側から施錠されており室内に物色された跡や争った形跡は確認されていない。同署は司法解剖を行って詳しい死因を調べるとともに、事件と事故の両面で慎重に捜査を進めている。
(完)