純白の乙女とブリュンヒルデ   作:詩音

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プロローグ

 世界が崩れる音を、少年は初めて耳にした。

 

 それは轟音であり、衝撃であり、振動そのものだった。ただの「音」という枠には収まりきらない。地の底から噴き上がるような唸りが、骨を鳴らし、血を揺さぶり、体を内側から粉々に砕こうとする。

 

 地面が割れ、耳を塞いでも届く低い咆哮と共に、石畳は蛇のように波打ち、ぱっくりと裂け、何もかもを飲み込んでいく。立ち並んでいたはずの建物は、音もなく、あるいは悲鳴を上げながら崩れていった。

 

 形を保てず砕け散る壁、折れた梁が突き立つ路地、舞い上がる灰色の粉塵。そこにあった街は、瞬く間に「積み重なった瓦礫」としか言いようのないものに変わっていく。

 

 肺が焼ける。

 息を吸い込むたび、熱と粉塵が喉を荒らし、胸の奥を爪で掻きむしるような痛みが走った。咳をしようにも声が出ない。ただ呼吸を繰り返すだけで視界が白く滲んでいく。

 

(……なに……これ……どうして……?)

 

 十歳の白雪には、その光景を説明する言葉はなかった。「災害」も「戦争」も、聞いたことがあるような、ないような曖昧な響きに過ぎなかった。外の世界をほとんど知らず、数字や記号で呼ばれて育った身には、起きている事象に名前を与えることなどできない。

 

 ただひとつ分かるのは――街が、消えていくということ。その単純すぎる現実だけが、理解を拒む頭に容赦なく突き刺さる。

 人の声があった。叫び声、泣き声、助けを求める声。だがそれらは次の瞬間、轟音に掻き消される。灰の向こうから聞こえてきたはずの声は、途切れたあと二度と戻らない。

 

 視界の端に、赤が広がった。石畳に滲み、粉塵にまぎれ、どろりとした色を見せる赤。その正体を白雪は知らない。けれど、直感が告げていた。――これは見てはいけないものだと。

 足を動かそうとして、止まった。膝が震え、指先が痙攣する。息だけが荒く、空気の刃が喉を切り裂く。

 

(みんな……いない……)

 

 その思考は、事実の羅列にすぎなかった。感情の伴わない、ただの確認。施設で共にいた子どもたち。同じ部屋に並べられて眠っていた小さな影。声をかけ合ったわけでも、名前を交わしたわけでもない。けれど、確かにそこに存在していた者たちは――もう、この世界にいなかった。

 

 「死んだ」という言葉を白雪は持たない。ただ、「もういない」とだけ理解している。灰に呑まれ、炎に呑まれ、声も影も消えてしまった。それだけが事実で、それ以上を語る言葉は、白雪にはなかった。

 

 背後で、さらに何かが砕けた。大地が震え、体は勝手に地に伏せる。

 

 見上げた空を、赤き龍が覆っていた。

 十の角を戴き、七つの頭が咆哮する。ひとつの顎は炎を吐き、別の顎は稲妻を放ち、また別の顎は大気そのものを震わせる――それは黙示録に語られる災厄を具現化したかのような異形だった。体表の鱗は溶岩のように赤黒く光り、動くたびに地面が焼け、風が燃えた。

 

(あれが……アンノウン……)

 

 アンノウン。

 

 それは地球に属さぬ異形。姿は動物や植物、時には龍のような幻想の怪物にまで及び、既存の常識を嘲笑うかのように多彩な姿をもつ。人類が誇る通常兵器すら通じず、その巨体をもって都市を踏み潰し、捕食を繰り返しては成長していく。体の奥深くには「コア」を宿している。

 

 大きさや力によって細かく等級が定められ、人類にとっては生存を脅かす”天災以上の脅威”として恐れられていた。

 

 眩い光弾が、遠方から大気を裂いて飛来した。耳を裂く轟音と共に、紅蓮の龍の一つの頭を直撃する。分厚い鱗が粉砕され、炎を吐いていた顎が苦悶の咆哮をあげて仰け反った。地を焦がし、空を覆い尽くしていた威容が――わずかに、ほんのわずかに揺らいだ。

 

(……え……? なに……?)

 

 十歳の白雪は、瓦礫の山の上で呆然と空を仰ぐしかできなかった。全てを呑み込むはずだった赤き災厄が、一瞬でも退いた。その事実が、幼い胸に混乱とわずかな希望を同時に叩き込む。

 

 炎と灰に満ちる世界の中、視線は本能のままに光弾の発射源を追った。やがて――瓦礫と黒煙を越えた彼方に、“人の姿”が見えた。

 人だ。間違いなく。けれど、その在り様は人ではなかった。

 

 漆黒の翼を広げ、宙に浮かぶ影。肩から走る金属の装甲は光を反射し、背には砲塔のような機構が展開している。そこからなおも燐光を帯びた弾丸が形成され、龍へと放たれていった。

 

 炸裂音が空を震わせる。赤き龍が頭を振り乱し、七つの喉が咆哮を轟かせる。大気そのものが震動し、地平線が波打つほどの怒号。白雪は耳を押さえ、ただその場に蹲るしかなかった。

 

 だが、それは始まりにすぎなかった。

 次の瞬間――別の場所から、さらに三条の閃光が奔った。紅蓮を凍てつかせる蒼白の冷気。稲妻のように鋭い光の槍。そして、地平を裂いて立ち上る土煙を纏った巨大な斧の軌跡。全てが赤き龍を打ち据え、その巨躯をよろめかせる。

 

 炎の帳を割って、次々に姿が現れる。金属の翼を広げた者。重厚な鎧を纏い、大地に根ざすように立つ者。舞うように剣を振るい、光の残滓を描く者。数えるのも追いつかない。十を超える人影が、それぞれ異なる武装を纏い、空と地を駆け抜けていた。

 

 人間でありながら、人では届かぬ領域に至った姿。

 白雪の瞳に映ったのは――神衣兵装を纏った戦士たち。炎と雷鳴のただ中で煌めくその姿は、まるで神話に語られる聖戦姫《ヴァルキュリア》そのものだった。

 

 神衣兵装《ドレス》。

 

 それは人間の手では決して生み出せぬ、異界の力を結晶化させた鎧や武器。ただの金属ではない。核となるのは、倒したアンノウンから取り出された「コア」――その心臓部にあたる結晶だ。

 

 科学と異能、二つの理が交差することで初めて加工されるその結晶は、ひとつとして同じものがなく、持ち主との親和によって異なる姿を現す。

 

 神衣兵装を纏えば、地を蹴らずとも空を翔けることができる。人間の限界を越え、炎をまとい、雷を振るい、あるいは氷を纏って戦場を支配する。そしてそれだけでは終わらない。神衣兵装は生きている。使用者が生きている限り、経験を、戦闘を、痛みすらも記録し、時に自ら進化する。アンノウンと同様に形を変え、性能を変え、使用者にすら予想できぬ力を宿すことがある。極めて稀にだが――神衣兵装自体が意思を持つのではないか、と噂されるほどに。

 

 ゆえに人々はそれを「切り札」と呼んだ。人類がアンノウンに抗うための、唯一にして最後の希望。それが神衣兵装だった。

 

 その切り札が、今まさに目の前で顕現していた。白雪が息を呑んだ瞬間、赤き龍の顎を灼熱の炎が薙ぎ払った。だがそれは龍のものではない。聖戦姫の一人、全身を炎に包んだ戦士の一撃だった。紅蓮の翼が広がり、灼光が矢となって大気を裂く。その閃光は龍の鱗をも溶かし、黒煙を噴き上げさせる。

 

 次いで空気が凍りついた。氷の結晶を纏った聖戦姫が、舞うように指を振る。瞬く間に白銀の鎖が形成され、龍の一つの首を絡め取った。暴れる巨体を縛り上げ、灼熱の大気に亀裂を走らせる。凍てつく轟音が耳を裂き、白雪の頬を刺す。さらに雷鳴。天空を貫く蒼雷が、槍となって龍の胸を抉った。雷を纏った聖戦姫が空から急降下し、閃光と共に突き立つ。衝撃波は地を揺るがし、白雪の視界を白に塗りつぶす。

 

(な、なんだ……? 何が起きてる……?)

 

 目を凝らしても理解は追いつかない。ただ次々と繰り出される異能の奔流に、ただ呑まれていく。金属の翼を広げ、空を舞う者。巨盾で炎を受け止め、大地のように立つ者。細剣をひらめかせ、龍の脚を斬り裂く者。数えきれぬ聖戦姫たちが、それぞれの武装を輝かせ、龍を囲み、絶え間なく攻撃を浴びせていた。

 

 白雪の胸は痛いほどに脈打った。恐怖でも憧れでもない。両方が絡み合い、名もなき熱となってこみ上げる。彼女たちは人間だ。自分と同じはずの存在だ。だが、その姿は――どうしようもなく遠い。

 

(これが……神衣兵装か……。僕たちが、使われてきた理由……?)

 

 遠い日、暗い施設で聞かされた言葉が甦る。――アンノウンを討つために。そのための研究、そのための犠牲。今はただ、それが現実に目の前で繰り広げられているのだと理解できた。

 

 赤き龍はなお咆哮を上げる。七つの頭が互いに絡み、炎と稲妻と衝撃波を吐き散らす。地平が裂け、瓦礫が舞い、空が赤黒く燃え上がる。だが聖戦姫たちは怯まない。むしろその暴威を正面から受け止め、さらに激しく反撃していた。

 

 白雪は息をすることすら忘れていた。目の前の光景は、絶望と奇跡が重なった――神話の戦場そのものだった。

 

 七つの首が同時に咆哮し、大気そのものを震わせた。熱波が荒れ狂い、吹き荒れる風が瓦礫を巻き上げ、稲妻が空から大地を穿つ。束ねられていた鎖は粉々に砕け、傷ついたはずの鱗が瞬く間に赤黒い輝きを取り戻す。

 

 聖戦姫たちの声が断片的に届いた。

 

「退け――! こいつはまだ……!」

 

「持ちこたえろ!」

 

 その言葉の意味を理解するより先に、視界は灼光に呑まれた。

 炎の奔流が大地を薙ぎ払い、氷を砕き、雷をかき消す。咆哮と共に叩きつけられた衝撃波が、建物の残骸ごと白雪の小さな体を吹き飛ばした。瓦礫に叩きつけられた瞬間、肺の空気が一気に抜け、息を吸うことすらできない。

 

(……あ……くるしい……)

 

 耳鳴りが響く。目の端に、なお戦う聖戦姫たちの姿が映る。炎を纏い、光を振るい、龍の暴威に立ち向かい続ける人影。だが、彼女たちの輪もまた、赤き巨影の前では小さすぎた。

 

 龍が翼をはためかせた。その動きだけで嵐が生まれ、空気が裂け、白雪の体は再び宙を舞う。視界がぐるりと回り、天地が分からなくなる。頭を打ち、頬を切り、瓦礫の中に転がり落ちる。

 熱い。痛い。怖い。何も理解できない。ただ――それでも。

 

(綺麗……だ)

 

 意識の奥底でかすかに、そんな考えが浮かんだ。だがすぐに、世界は闇に沈む。最後に耳に届いたのは、聖戦姫たちの怒号と、赤き龍の咆哮だった。

 

 こうして白雪の記憶は、血と炎と轟音に塗り潰されて終わりを告げた。




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