異世界から来た中堅冒険者のおっさん、現代日本で始末屋になるようです 作:鳥獣跋扈
バルドは、血と煙の匂いがこもった階段を一段ずつ降りていった。
階を下るごとに、転がったまま呻いている男たちが視界の端をかすめる。
折れた腕、あり得ない方向を向いた膝。意識がある者は、彼を見るだけで喉を鳴らして震えたが、バルドは一瞥もくれずそのまま通り過ぎた。
地上階に降りる。
ロビーの床には血とガラス片が散らばり、入口には自販機や大型のソファがバリケードのように積まれている。
先ほど、自身が積み上げたものだ。
バルドは、軽く息を吐いてそれを一つひとつ退かした。
普通の人間なら数人がかりでやっと動かせそうな自販機も、彼はヒョイと軽々と持ち上げられる。
最後のソファをどかりと横に除け、扉を押し開く。
外気が一気に流室内へと流れ込むと、夜の冷えた空気に血の臭いが一気に薄まった。
出ようと一歩踏み出した、そのときだった。
——男が“そこにいた”。
十数歩先。
ビルから少し離れたアスファルトの上。
先ほどまで、誰もいなかったはずの場所だ。
高速で駆け寄ってきた気配も、空間が裂けるような前兆も何一つ感じなかった。
バルドですら感知できない超高速での移動、という線もなくはないが……。
(……何かしらの術、か?)
バルドは、ほんの僅かだけ目を細めた。
警戒度を一気に最高まで引き上げる。
だが、戦闘に向かうように露骨に構えはしない。肩の力を抜いたまま自然体に、その場で足を止めた。
下手に敵意を見せて、未知の相手を刺激するわけにはいかない。
初めて対する魔物とのやり取りの時と同じだ。
現れた男は、三十そこそこといったところか。
細身で、線が薄い。どこにでもいそうな格好の、優男だった。
糸のように細い眼は、半分ほどしか開いておらず、口元にはどこか底の読めない笑みが貼り付いている。
バルドは、無意識に男の“内包している力”を探った。
そこにあったのは、確かに何らかの力の源泉。だが。
(……魔力、ではないな)
慣れ親しんだ魔力の渦とは違う感触。
けれど、まったく異質というわけでもない。似た“流れ”をかすかに感じる。
男はそんな視線など意に介さぬ様子で、建物と周囲を見回しながら口を開いた。
「いやぁ、なんや大変そうになってる気配を感じたら……けったいなことになってますなぁ」
柔らかな口調。
軽口のように言いながら、ひょいひょいとこちら——いや、正確にはビルの方へ歩いてくる。
バルドの存在を無視しているわけではないのだろう。
だが、睨み合うでもなく、警戒するでもなく、本当に散歩のついでに通りかかった、という風情だった。
すれ違いざま、ふわりと甘い香りが鼻先を掠める。
(……酒? いや、香油か?)
すぐ背後を通り過ぎていく足音を、バルドは首だけ少し回して視線で追った。
男はビルの入口まで歩くと、ようやくそこで足を止める。
扉の方を見据えたまま肩越しに声をかけてくる。
「ああ、せやったせやった。伝えとかなあかんことがあったんや。——ほい」
男が片手をひょいと振ると、いつの間に手にしていたのか茶色い封筒が弧を描いて飛んできた。
掌ほどの厚みがあり、中に紙の束が詰まっているような見た目。
バルドは反射的に手を伸ばし、ぱし、とそれを受け取る。
重みを確かめるように指先で軽く押しながら、視線だけを男に戻した。
「……?」
問いかけようとした瞬間、男の方が先に言葉を継いだ。
「あんたが
言いながら、軽く掌を振ってみせる。
「ただな、このままっちゅうわけにもいかへんから、ちぃっとこっちで手ぇ加えさしてもらうわ。
飄々とした調子。
しかしその言葉の意味は、決して軽くない。何かをしようとしている態度だが、何をしようとしているのかまでは分からない。
バルドが何か返そうと口を開く前に、男は「ほな」とだけ言って、ひらひらと手を振りながらビルの中へ消えていった。
靴音が階段を上っていく気配までは聞こえたが、それもすぐに遠ざかる。
男の背が見えなくなるまで入口を見つめ、それからようやくバルドは一つ息を吐いた。
(……よく分からんが、“敵”ではなさそうだな。今のところは)
警戒だけは解かず、カズの待つ車へと歩き出す。
夜気が、戦闘で火照った肌を撫でる。
血の匂いがまだ服にまとわりついている。
駐車スペースに停められた車の横で、カズが神妙な顔つきで立っていた。
「……お疲れ様っす。ところで、さっきの奴は……」
フロントガラス越しにやり取りを見ていたのだろう。
カズの視線が、バルドの手にある封筒へもちらりと向けられる。
質問に答えようとした、その瞬間——。
バルドは、肌の上を走る
全身の毛穴が同時に粟立つ感覚。
魔力ではない。だが、自然現象とも違う。
彼は反射的にビルの方へ振り返った。
次の瞬間。
ビル全体が、燃え上がった。
「——っ!」
導火線も、爆発も、その前触れもなかった。
一瞬前まで、闇の中に沈んでいたコンクリートの箱が、突然、真昼のような光を放つ。
壁という壁から、炎が噴き出した。
窓ガラスの内側で火が踊るのではない。建物そのものが、一本の巨大な火柱に変わったかのようだった。
夜空に向かって、橙と白の炎がうねりながら伸びていく。
熱風が数十メートル離れた車のところまで押し寄せ、バルドのスーツの裾をはためかせた。
「んな……!?」
カズが、素っ頓狂な声を上げる。
次の言葉が出てこないのか、そのまま口をあんぐりと開け、燃え上がるビルを見上げた。
炎は、あまりにも早すぎた。
油を撒いたとしても、こうはならない。
燃え広がる過程が存在しないのだ。まるで“点火”ではなく“状態変化”であるかのように。
「バルドさん……これって」
目を離せないまま、カズが横目で伺うように問いかけてくる。
その視線の裏側には——バルドが見せた“魔術”という言葉が、はっきりと浮かんでいるのだろう。
バルドは、炎を見据えたまま小さく首を振った。
「……違う。魔術ではない。魔力の高鳴りは、感じなかった」
あの男が現れたときにも魔力の渦はなかった。
今、この燃焼にも魔力の波はない。
「何か、別の——」
そこまで言うと、眉間に皺を寄せて言葉を飲み込む。
ビルの上で乾いた破裂音がした。
ボンッ、と空気が弾けるような音。
屋上から何かが弾丸のように飛び出した。
黒い影は、炎を背景に一瞬だけシルエットを浮かべ——そのまま夜空の闇に吸い込まれるように消えていった。
「……」
何だったのか。
人影だったのか、物体だったのか。
魔力の残滓は——やはり感じない。
バルドは唇を結んだまま、その軌跡を見送った。
遠くで、サイレンの音が鳴り始める。
この辺りは人気が少ないとはいえ、真夜中にビル一本が炎の柱になる様を見て誰かが通報しないはずがない。
「……行くぞ」
促すように短く告げると、カズがはっと我に返ったように頷いた。
「は、はいっ……!」
二人は慌てず、しかし急いで車に乗り込む。
エンジンがかかり、ヘッドライトが闇を切り裂く。
バックミラーの中で、ビルはまだ炎の塔のままだった。
その光を背に受けながら、バルドは膝の上に置いた封筒へと視線を落とす。
あの男の“気配”と、今の炎。どちらとも無関係だとは、とても思えなかった。
(魔術ではない“力”か……)
突然現れた謎の男と、手の中の封筒。
バルドは、その二つについて考え込みながら、静かに目を細めた。