異世界から来た中堅冒険者のおっさん、現代日本で始末屋になるようです 作:鳥獣跋扈
黒岩は、口元だけをわずかに緩めると、広間の奥――廊下へ通じる暗がりの方へ声を投げた。
「おい、しずく!」
返事はない。
遠くで、何か音楽の様な甲高い微かな音が響いていた。
黒岩は肩をすくめ、今度はわざとらしく、腹の底から声を張り上げた。
「しーずーくー! 客人だ! ちょっと降りてこい!」
しばしの沈黙。
やがて――上階のどこかで、きぃ……と軋むような足音がした。
ゆっくり、実に渋々としたリズムで。
数拍遅れて、廊下に面した階段の上に、人影が現れる。
ダボッとした服に、フードを半分だけ被った、細い肩。
長すぎず短すぎない黒髪が、顔の半分を隠すように垂れている。
視線は床に落とされたまま。
足元はサンダルのようなものをつっかけただけという、完全に部屋着の格好だ。
男衆とは、どこか決定的に距離感が違う。
バルドは直感的に悟った――家人、それも血縁だ。
「……何。なんかパンパン音してたけど。なんかあったの?」
半眼のまま、階段の途中で立ち止まり、父親を睨む。
「ゲームしてたから、よく聞こえなかったんだけど」
「ちょいとな。そっちはまぁいい。客人だ、挨拶しろ」
「意味分かんない」
溜め息ひとつ。
しずくは、心底面倒くさそうに肩を落としながら、しぶしぶ広間へ降りてきた。
そして――
座卓の向こうに座るバルドの姿を認めた瞬間、ほんの一瞬だけ、彼女の目が見開かれた。
だが、それも刹那。
すぐに無関心を貼り付けたような顔に戻る。
「……外人?」
「バルドだ」
簡潔に名乗ると、彼女は興味なさそうに鼻を鳴らした。
「ふーん。黒岩しずく。よろしく」
あまりにも端的な自己紹介。
胡乱げな視線がこちらを突き刺すが、そこに露骨な敵意はない。
ただ、“よく分からないものを見る目”だった。
黒岩は呆れたように笑い、娘へと向き直る。
「おいしずく。こいつはな、さっき庭でうちのピンチを救ってくれた、命の恩人だ」
「……へぇ」
その言葉に、しずくは再びバルドを測るように見た。
だがそこに宿るのは尊敬ではない。
諦めと、値踏みと、ほんの少しの警戒。
(また厄介なのを拾ってきたな)
そんな感情が、その視線の奥に透けて見えた。
「で? 今度は何。また変な人連れてきて、何させるつもり?」
「“また”ってこたぁねぇだろ。……まぁ、当たらずとも遠からずだが」
黒岩は咳払いひとつし、娘と若い衆を見渡した。
「しずく。カズ。こいつは当分、うちで面倒を見る。で――ついでと言っちゃなんだが、二人にはひとつ、やってもらいてぇことがある」
「なによ」
しずくの眉が、きゅっと寄る。
カズの方と言えば、シャキッと背筋を伸ばした。
黒岩は座卓の端から、一枚の紙を取り上げた。
近くに置いてあった筆を手に取り、墨を含ませると、迷いのない筆運びで文字を書きつけていく。
――黒岩調査・探偵事務所。
乾ききらぬ墨の匂いが、微かに立ち上る。
「ちょっとな。ウチの看板の端っこ使って、探偵をやる」
しずくの視線が、紙と父とバルドの間を行き来した。
「……は?」
声に、明確な拒絶が滲む。
「しずく。おめぇも二十過ぎて、いい年だ。だのに日がな一日、部屋に籠ってちゃいけねぇ」
黒岩は低く言い含めるように続ける。
「ちょうどウチが管理してるビルのテナントが一つ空いてな。組のモンと興信所でも開くか、って話をしてた矢先だ」
さらに、黒岩はバルドへと視線を向けた。
「あんたは腕っぷしがある。しずくは帳簿も書類もいじれる。カズはまぁ……雑用係で使ってやってくれ」
「この放蕩娘がな、外じゃ働きたくねぇって言うからよ。なら、家の中でできる仕事を作ってやった。なに、儲けは二の次で構やしねぇ」
「私が構うわよ」
即座に、しずくが遮った。
「なんで、こんなよく分かんない外人と仕事しなきゃなんないわけ。そもそも“探偵”って何。ドラマの中の話でしょ」
「いいじゃねぇか。やるだけやってみろ」
黒岩の声色が、わずかに沈む。
「……それとも何か。職安に行く気になったか?」
ぐ、と。
しずくの喉が小さく詰まった。
「いつまでも甘やかしてばっかりだと、テメェのためにもならねぇ。……しっかり仕事するんだな」
しずくは口を閉ざし、しばらく父の顔を見つめ続けた。
反発と不満と、諦めの色が交互に揺れる。
やがて、ふいと視線を逸らし、バルドをちらりと見る。
バルドは、ただ静かにそこに座っていた。
争う意思も、弁明する意思もない。ただ、淡々としている。
「……分かったわよ」
短い言葉。
しずくは立ち上がり、踵を返しかけた――が、部屋を出る寸前で、一度だけ振り返る。
「でも、面倒なことはしないからね。あんたがメインで働くのよ」
言葉は、はっきりとバルドに向けられていた。
黒岩は、やれやれと額を押さえる。
「俺は、受けた依頼をこなすだけだ」
「……は?」
しずくの眉が、さらに深く寄る。
だが、それ以上何も言わず、ぱたぱたと階段を上っていった。
足音が遠ざかり、やがて完全な静寂が戻る。
「……お嬢。完全にメンドくさいモード入ってますよ、親父さん」
藤堂が小声で呟く。
「元々だ。あいつは昔っからああだ」
黒岩は肩を竦めると、にやりと笑ってバルドを見る。
「まぁ心配すんな。時間かけりゃ、そのうち慣れる。あいつも、あんたもな」
バルドは、よくあることだとばかりに、小さく頷いた。
遠くで鳴っていた警邏の音は、いつの間にか完全に止んでいる。
「さて、そろそろ向こうさんも来た頃だ。俺ぁ警察《サツ》の旦那と話してくる。……おい、カズ」
「へい」
「部屋に案内してやんな。奥の部屋、空いてたろ。……おっと、その前にシャワーでも浴びてからだな」
そう言い残し、黒岩は立ち去った。
残されたバルドは、カズに促されるまま、一階の奥へ通される。
見たこともない設備だった。
だが、捻ると湯が溢れ出す不思議な仕掛けらしい。
すっかり垢と血と埃を洗い落とし、用意された着替えに袖を通す。
そのまま案内されたのは、小さいが整えられた部屋だった。
薄い布団、低い天井、静かな空気。
十分に、休める。
カズが気遣うように一礼して出ていくと、バルドは敷物の上に身を横たえた。
次の瞬間――
思っていた以上に溜まっていた疲労が、一気に身体を引きずり込む。
意識は、静かに途切れていった。
魔力酔いは――
いつの間にか、すっかり収まっていた。