異世界から来た中堅冒険者のおっさん、現代日本で始末屋になるようです 作:鳥獣跋扈
翌朝――革張りのソファの上で、バルドは自然と目を開けた。
姿勢が固まったままのせいか、少しばかり体が硬い。
窓の隙間から差し込む光は、まだ白さの残る柔らかい色だ。
まだ日が昇って間もないのせいか、鳥の鳴く声位しか耳には入らない。
(……あれから、すぐ寝てしまったのか。どうやら思ったよりも気を張っていたようだ)
ソファから体を起こす。
軽く肩を回してみると、筋肉の張りや、関節の動きに引っかかりを覚える。
(少し、鈍ったか)
日々戦っていた頃に比べれば、反応がわずかに遅い。
だが、致命的というほどでもない。
窓を開けると、ひやりとした空気が流れ込んできた。
街の空は、淡い雲が薄く散り、東の地平はわずかに朱に染まり始めている。
周囲にはあまり高い建物もなく、地方の城砦都市――そんな印象だ。人の気配はまだ薄い。
(身体を慣らすには、ちょうどいい時間だな)
バルドは服を整えると、そっと部屋を出た。
灯りの無い階段は、どこか冷え冷えとした印象を受ける。
ゆっくりと階段を下りて行った。
* * *
事務所から、数街区ほど離れたあたり――
早朝の住宅街は、まだ人影もまばらだ。時折、犬の散歩をする老人の姿が遠くに小さく見える程度。
バルドは、人気の少ない狭い路地を抜け、小さな河川敷に出た。
岸辺にわずかに残る草地。その向こうを、淡い色の川が静かに流れている。
「……この辺りなら、見られにくいか」
周囲を確認し、人気がないことを確認しながら、ゆっくりと肩を回す。
まずは単純な動きから――
膝を曲げ、地面を軽く蹴る。
空気を切る感触と共に、身体がふわりと浮き、すぐに着地する。
二度、三度と跳躍を繰り返す。
足裏から伝わる衝撃と、筋肉の収縮。地面との距離感。
(……多少、鈍りはあるが)
そこまで酷くはない。
立ったまま腰を折り、上体を左右にひねる。背筋が鳴り、関節が順に目を覚ましていく。
続けて、腕を振り上げ、軽い素振りの動作。
しなり、戻り、バランス。
身体の「癖」が、少しずつ、馴染んでいくのが分かる。
ひと通り確認を終えると、バルドは静かに息を吐いた。
「……次は、魔力だな」
意識を内側へと向ける。
腹の底――鍛え上げた「器」の手触りを、ゆっくりと探る。
昨夜まであった、胃の裏を撫で回されるような不快感は、ほとんど消えていた。
(環境に、多少は慣れたか)
空気に含まれる魔素の質は、場所によって違う。
この辺りはだいぶ
バルドは、周囲から魔力をゆっくりと取り込み、それを体内で循環させるイメージを描く。
血流に沿って、全身へ流し込む。
腕へ、脚へ、背骨へ、指先へ――
次の瞬間、彼の身体の周囲の空間が、わずかに揺らいだ。
陽炎のように、景色がかすかに歪む。
光が、薄い水膜の中を通過したように屈折し、輪郭が一瞬だけ曖昧になる。
地面を軽く蹴る。
さきほどより、明らかに高く、軽く跳べた。
(ふむ。巡りは良くなった)
身体能力の底上げが問題なく機能している事を確認し、魔力の流れを徐々に鎮めていく。
川面を渡る風が、汗ばみ始めた頬を撫でていった。
最後に一つ、腰を落として脱力。
一瞬の間の後に、ふん! と全身に一気に気を巡らす。
うっすらと滲んでいた汗が体から吹き飛び、大気へと昇華していく。
風の巡りを魔力で操作して周囲へと馴染ませる。
「……戻るか」
短く呟き、バルドは踵を返した。
* * *
事務所へ戻ってくる頃には、街は目に見えて動き始めていた。
若者の集団が揃いの衣装で歩き、作業着姿の男たちが車輪のついた箱に乗り込んでいく。
あれが所謂、馬車のようなものだと聞いた時には信じ難かったが、実際に動く様子を見れば信じざるを得ない。
何か魔道具の様なものだと思えば、納得も出来る。
静まり返った事務所の中で、バルドはふと気づいた。
(……そういえば、食料がないな)
昨日は結局、昼餉から何も食べていない。
カズとしずくが帰ってから、すぐに寝てしまったのだ。
腹が、ぐう、と控えめに鳴いた、その時――
「おはようございますっす!」
勢いのある声と共に、ドアがガチャリと開いた。
藤堂和弘――カズが、軽く息を弾ませながら顔を出す。
「あ、バルドさん。もう起きてたんすね」
「ああ」
「っすよね。あ、親父さんから伝言預かってきやした。まずは風呂行ってこい、って」
カズは頭をかきながら笑う。
「昨日はバタバタしてたんで、すっかり抜けてて。すんません」
「風呂、か」
先日借りた“シャワー”とやらで体の表面は洗った。
だが、長旅と魔力酔いの疲れを考えれば、悪くない。
「この近くに、銭湯があんすよ。朝からやってるんで、一っ風呂浴びに行きやしょう」
「……銭湯?」
聞き慣れない言葉に眉をひそめると、カズは嬉しそうに笑った。
「あー、公衆浴場っていや分かりますかね? デカい風呂。みんなで入るやつ」
「皆で入る……湯殿か。向こうでは、似たようなものは温室の方が多いな。湯は限られている」
「そりゃもったいねぇっすね。じゃあお楽しみだ」
バルドは少しだけ目を細める。
(湯を、潤沢に使う……)
それがどれほど贅沢なことか、まるで貴族か魔術師だ。
少し楽しみになってきた。
「よし、行くか」
短く答えると、カズは「よっしゃ」と笑って先に立った。
* * *
銭湯は、事務所から少し歩いた先の、古びた商店街の外れにあった。
瓦屋根に煙突が突き出た建物。
入り口には「ゆ」と大きく描かれた暖簾が揺れている。
「……ここか」
「そうっす。昔ながらって感じっすけど、中はちゃんと綺麗にしてるんで安心して下さい」
暖簾をくぐると、木の香りと洗剤の匂いが混じった温かな空気が鼻をくすぐった。
入口に居る婆さんに挨拶し、料金を払い、男湯へ。
脱衣所には籐の籠と木の仕切り。
壁には羽が数枚ある丸い金属製の道具が、ゆっくりと回っている。
どうやら風を起こすものらしい。
服を脱ぎながら、バルドは奥から香る湯の匂いを感じた。
ガラリと引き戸を開け、浴場へ足を踏み入れた瞬間――
一面に広がる湯気と、白いタイルの床、そして大きな湯船が視界に飛び込んできた。
青い絵柄のタイルが貼られた壁。
奥には複数の浴槽が並び、湯が絶えず注ぎ込んでいる。
湯気の向こうで、数人の老人たちがゆったりと湯に浸かり、世間話に興じている。
「……これは、壮観だな」
思わず漏れた言葉に、カズが得意げに胸を張る。
「でしょう? サウナもいいですけどね、こうやって湯にどっぷり浸かるのが日本の正解っすよ」
頭と身体を洗い終え、湯船に足を沈める。
瞬間、じわりと熱が侵食してきた。
膝、腰、肩まで沈める。
全身が湯に包まれ、硬くなっていた筋肉がほぐれていく。
(……これは、贅沢だな)
思わず目を閉じる。
背中を預けた石の感触と、湯の重み。
魔力の流れが、ゆっくりと穏やかな波に変わっていく。
しばらく無言で湯を味わい、のぼせる手前で浴槽から上がった。
風呂から上がると、脱衣所の隅に置かれたガラスでできた箱の前で、カズが瓶の飲み物を指差した。
「バルドさん、コレっすよコレ。風呂上がりはコーヒー牛乳かフルーツ牛乳っす」
「牛乳に……果物?」
不審そうな顔をしたバルドのために、カズはフルーツ牛乳を一本購入し、栓を抜いて渡す。
一口、恐る恐る含む。
甘さと冷たさが喉を滑り落ち、さきほどまでの火照りを一気に撫でていく。
「……妙な味だが、悪くないな」
「イケるでしょ」
湯上がりの空気を胸いっぱいに吸い込みながら、銭湯を後にする。
外はすでに朝の光が強くなり、通りには人々が行き交い始めていた。
「そうだ、忘れてたっす」
歩きながら、カズがズボンのポケットを探り、封筒を取り出した。
「親父さんから預かってます。『当面の生活費だ』って」
手渡された封筒は、軽くはなかった。
中を覗くと、同じ大きさの紙片が何枚も入っている。
「これは……貨幣か?」
「あれ? バルドさんの国って紙のお金ないんすか? まぁ日本のお金初めてだと分からないかもっすから、説明しますね!」
カズは歩みを緩め、ざっくりとした口調で言う。
「お金は紙のお金と硬貨、コインがあるっす。基本的に数字が書いてあるっすから、分かると思うんすけど、数字は読めます?」
「ああ。……これは一、と、四つの零か」
「そうっす、それが一万円札って言って、一番価値の高いお金っす。で、それが十枚で十万っすね」
バルドはしばし黙って紙幣を眺めた。
質感。刷り込まれた模様。一種の美術品の類と言っても信じられるほどのモノだった。
「なるほどな。これで……どのくらい過ごせる?」
「まぁ、一人暮らしで無駄遣いしなけりゃ、一か月はいけるっすね」
「一か月……月巡りのことか」
「つき……? ああ、月巡りって言うんすか、そっちでは」
バルドの住んでいた地方では、三十日をひとまとまりに数え、「一月巡り」と呼んでいた。
「そうっす。大体三十日。それくらいは保つっすよ」
バルドは軽く頷き、封筒を懐にしまう。
(これ一つで、三十日分……か)
冒険者としての稼ぎを考えると、やや心許なかったが、今は世話になっている身。
ありがたく頂戴することにした。
「んじゃ、せっかくなんで朝飯買いに行きましょうか」
カズが指で前方を示す。
「しずくお嬢さんも、まだ来ないでしょうし。先に腹ごしらえっす」
* * *
事務所スペースの座卓に、買ってきたパンや飲み物を広げる。
主にカズが選んだものだが、買い物の練習、とのことで、先ほどの金から出した。
釣りとしていくらかの紙幣とコインを受け取ったが、確かに数字が書いてあるので、なんとなくだが貨幣価値は理解できて来た。
二人で簡単に朝食を済ませた頃――
ガチャ、とドアノブが回る音がした。
「……おはよ」
昨日と変わらない姿のしずくが、眠そうな目で入ってくる。
いや、よく見ると服の色が違うようだ、同じ服をいくつも持っているのだろうか。
肩から下げるバッグは、昨日は持っていなかった。
「おはようございます、お嬢さん」
「おはよう」
しずくは、テーブルの上に山と積まれたパンをちらりと見た。
「あんたら、朝からよく食べるわね」
「身体が資本だからな」
淡々と返すと、しずくは「ふーん」と鼻を鳴らし、そのまま部屋の隅にある机へ向かう。
机の上には、先日黒岩が書いた「黒岩調査・探偵事務所」の紙と、いくつかの書類が積まれていた。
「今日は事務所の登録とか、書類仕事がメインだから。あと、足りてない備品とか配送頼んだのが来るはず」
しずくは椅子に腰を下ろし、バッグから薄い板のようなものを取り出し、それを開きながら言う。
「だから、あんたは外で散歩でもしてなさい。ここにいてもやることないでしょ」
「散歩っすか?」
カズが口を挟むと、しずくは冷たい視線を向けた。
「カズは残り。荷物受け取りと荷ほどき、全部よろしく。雑用係でしょ、あなた」
「マジっすか……」
「マジ」
反論の余地はないらしい。
しずくは、改めてバルドの方を見た。
「この辺、まだよく分かってないでしょ。地理覚えるのは、大事なことよ。迷子になられたら面倒だし」
もっともな話ではある。
バルドは、少しだけ周囲を見渡し、頷いた。
「分かった。少し歩いてくる」
「そうして」
しずくは、もう興味を失ったように開いた板へ視線を戻した。
何やら指を素早く動かすのに合わせ、カタカタと小さく音が響き始める。
「はぁ……バルドさん、俺の分まで楽しんできてくださいっす……」
カズが未練たらしく呟く。
バルドは肩をすくめただけで、玄関へと向かった。
(この街の構造を知っておいて、損はない)
そう判断すると同時に、胸の奥に微かな高揚があった。
見知らぬ街路、見慣れない建物、異質な文化。
これもまた、