面倒くさがり剣士のメルヘヴン【MÄR】 作:サクレール
メルヘヴンの森は、静かだった
風は穏やかで、木々は柔らかく揺れている
葉擦れの音はどこか眠気を誘うほど静かで、陽光は優しく大地へ降り注いでいた
それだけを見れば、どこまでも平和な世界だと誰もが思うだろう
だが、その穏やかさが永遠ではないことを、アルヴィスは知っていた
この世界には、平穏を壊す者がいる
かつてそうだったように
そして、いずれまたそうなるように
(……足りない)
胸の奥で、重く沈んだ思いが波のように広がる
チェスの駒
メルヘヴンを戦乱へと叩き落とした組織
その名を思い浮かべるだけで、森の静けさがかえって不気味に感じられた
そして、その頂に立つ者
ファントム
まだ奴は姿を見せていない
だが、脅威が消えたわけではない
あれほどの悪意が、このまま何もせず朽ちるとは思えなかった
再び、戦いは来る
そうなったとき、この世界の力だけで本当に抗えるのか
答えは、とうに出ていた
(この世界だけでは、足りない)
自分一人では届かない
この世界にいる者たちだけでも、足りないかもしれない
ならば、外から呼ぶしかない
異世界から
この世界を護れる力を持つ者を
アルヴィスは左手をゆっくりと持ち上げた
指に嵌められているのは、銀色の指輪
ただの装飾品ではない
表面には細かな細工が施され、その上からさらに細い鎖が絡みつくように巻かれている
ディメンションÄRM《門番ピエロ》
懐から小さなナイフを取り出す
刃を鎖へ当てる
迷いはない
この先に何が待っているか分からなくても
呼び寄せた者がどう動くか分からなくても
それでも、やるしかない
――断ち切る
乾いた金属音が森に響いた
静かな空気を裂くように、鎖が裂ける
次の瞬間、指輪が淡い光を放った
「ディメンションÄRM――門番ピエロ」
空間が歪む
何もなかったはずの場所に、ゆっくりと裂け目が生まれていく
その歪みの中から現れたのは、道化師だった
白塗りの顔
貼り付いたような笑み
極彩色の衣装
人の形をしている
だが、人ではない
生き物の温度がない
魔物とも違う
ただそこに“在る”としか言いようのない異物だった
門番ピエロはゆっくりと腕を上げる
その掌の上に、小さなダイスが現れる
コロリ、と乾いた音を立てて地面を転がる
止まった目を見て、アルヴィスはわずかに目を細めた
(……これでいい)
門番ピエロの体が、ゆっくりと開いていく
まるで門のように
その内側には、メルヘヴンとは違う景色が広がっていた
違う空
違う空気
違う世界
アルヴィスはその向こうを真っ直ぐ見据える
(来い)
願いというには強すぎた
祈りというには切実すぎた
それはもう、確信に近い意志だった
(この世界を護れる者なら、誰でもいい)
森を吹き抜ける風が、その思いだけを運んでいくようだった
◇
テルカ・リュミレース
テムザ山山中
岩肌の続く山道を、ユーリ・ローウェルは一人で歩いていた
乾いた風が吹くたびに、紫がかった黒髪が揺れる
身に纏うのは黒を基調とした実戦的な装束
動きやすさと耐久性を兼ね備えたその服は、派手さこそあれど無駄がない
長い旅と多くの戦いをくぐってきた男に、よく似合う格好だった
「……ギルドの任務で山登りとはな」
「面倒な仕事回してくるな」
「……ま、やるしかねぇか」
ぼやくように呟く
今回の依頼は、テムザ山周辺に残された荷の確認と、山中の簡単な安全調査
危険があるわけではない
だが、刺激も少ない
誰に聞かせるでもなくそう言って、ユーリは肩を回した
一人での任務は嫌いじゃない
むしろ気楽だ
余計な気遣いもいらない
自分の足で歩き、自分の目で見て、自分で判断する
その方が性に合っている
そのときだった
空気が変わる
山の冷たさとも、風の流れとも違う
妙にざらついた感触が肌を撫でた
ユーリは足を止める
目の前の空間が、ゆっくりと歪んでいく
「……なんだその趣味の悪いの」
現れたのは、ピエロだった
白塗りの顔
けばけばしい衣装
山中にはあまりにも不釣り合いな異物
幻ではない
確かにそこに存在している
しかも、見られているような気がした
眉をひそめた、その次の瞬間
門番ピエロの体がゆっくりと開いた
中に見えるのは、見知らぬ森
「おいおい――」
言い切る前に、強烈な力が体を引いた
「ッ……!」
反射的に踏ん張る
だが、抗えない
見えない何かに掴まれたように、全身が門の向こうへ引きずり込まれる
引きずり込まれる瞬間、腰の剣が鞘ごと何かに引っかかった
咄嗟に掴もうとしたが、指先は空を切る
金属音が一度だけ響き、それもすぐに歪んだ視界の向こうへ消えた
視界が反転し、上下の感覚が消える
風も音も、一瞬で遠のいた
(……強引だな)
舌打ちしたくなる
だが、その一方で、胸のどこかに妙な冷静さがあった
(……まあいい)
このまま任務を続けても、面倒な山歩きの延長に過ぎない
目の前で起きているのは、間違いなく常識外れだ
だが、それはそれで構わない
そんなことを考えたところで、世界が白く弾けた
◇
風が、やけに澄んでいた
葉擦れの音
湿った土の匂い
頬を撫でる空気の軽さ
ユーリはゆっくりと体を起こす
見知らぬ森が広がっていた
「……趣味悪い夢だな」
低く呟き、周囲を見回す
色が鮮やかすぎる
木々の緑も、差し込む光も、どこか現実離れして見える
だが、夢にしてはあまりにも感触がはっきりしていた
地面に手をつく
土の湿り気も、草の感触も、妙にはっきりしている
「……夢にしちゃ、妙に手応えがあるな」
「……現実か」
立ち上がる
その瞬間、違和感に気づく
(……体が軽いな)
腕を軽く振る
脚を踏み込む
動きが妙にいい
重さが抜けたような、そんな感覚
さっきの、あの変な門の影響かもしれない
「……まあ、悪くはない」
すぐに結論づける
悪い変化ではない
なら後回しでいい
歩き出す
森の中を進みながら、頭の中では状況を整理していく
見知らぬ場所
常識外れの現象
妙に軽くなった身体
どこまで考えても、まともな答えはひとつしかない
(……別世界ってところか)
今さら騒いでも仕方がない
それよりも、今何をするべきかの方が大事だ
ふと、頭の中に見慣れた顔が浮かぶ
カロル
リタ
エステル
ラピード
ギルドの連中
「……騒ぎになってるだろうな」
カロルは慌てて走り回り
リタは不機嫌そうに怒鳴り
エステルは心配そうな顔をしている
そんな光景が簡単に想像できた
「……まあ、あいつらならなんとかするか」
口元がわずかに緩む
心配していないわけじゃない
だが、あいつらを信じていないわけでもない
そうしてしばらく進むうちに、木々が途切れた
視界が一気に開く
草原だった
どこまでも続く緑
風が斜めに草を揺らし、その波が遠くまで走っていく
「……悪くない景色だな」
森の中よりずっと動きやすい
視界も利く
戦うならこっちの方が楽そうだ
(戦う理由があれば、の話だが)
心の中でそう付け足した、そのときだった
カン……カン……
乾いた音がした
風の音に混じらない
金属が触れ合うような硬質な響き
ユーリは足を止める
「……なんだ?」
耳を澄ます
一定のリズムで鳴っている
こちらへ近づいてくる音だ
草をかき分けて、そいつは姿を現した
人型
鉄の塊
鎧がそのまま歩き出したような姿
「……なんだこの趣味の悪い人形」
思わずそう漏れる
生き物の気配がない
呼吸も、ためらいもない
ただ、こちらを敵として認識していることだけが伝わってくる
距離を取りながら観察する
「……生き物じゃなさそうだな」
関節
重心
歩幅
視線の向き
「……仕掛けか」
次の瞬間、鎧が一気に踏み込んできた
拳が振り下ろされる
ユーリは半歩だけ横へずらし、その腕を流す
「……ッ」
まともに受けていれば腕が痺れていただろう
だが、避けたというより、体が先に動いたような感覚があった
「……動きが軽いな」
「さっきの門の影響か」
違和感はすぐに確信へ変わる
さっきまでの自分より、明らかに動きがいい
脚の軽さ
反応の速さ
間合いの入り方
「なるほどな」
「力は上がってるってところか」
小さく呟く
普段の自分でも対処できない相手ではない
だが、今は明らかに余裕がある
「体のキレが上がってるってところか」
鎧が再び腕を振るう
それも今度は少し体を捻るだけで避けられた
「重いが、遅い」
踏み込む
懐へ入る
肘を関節へ叩き込む
鈍い音
体勢が揺らぐ
追撃
足払い
倒れたところへ踏み込み、拳を叩き込む
一発
二発
三発目で鎧の動きが止まった
最後の一撃が決まり、鉄の体が崩れ落ちる
鈍い音を立てて、リングアーマーは動かなくなった
「……終わりか」
ユーリは軽く息を吐く
体の動きを確かめるように指を動かす
(……やっぱり軽いな)
そのときだった
――パン、パン、パン
乾いた音が、草原に響く
拍手
ユーリの視線がゆっくりと上を向く
空に、少女がいた
箒にまたがり、風を受けながら宙に浮いている
濃いピンクの長い髪が、ふわりと広がる
スラッとした体つき
そして何より、その格好だ
とんがった帽子
ゆったりとしたローブ
箒に乗って空を飛ぶ姿まで含めて、まるで絵本に出てくる“魔女”そのものだった
(……最初から見てたってことか)
ユーリは目を細める
「やるじゃない」
楽しそうに口角を上げる少女
「……見世物じゃねぇぞ」
「いいでしょ別に」
「ちょっと試しただけなんだから」
「試した、ね」
ユーリは足元の残骸を軽く蹴る
「随分と手の込んだ挨拶だ」
「ケガしてないからいいでしょ?」
「結果論だな」
少女はくすりと笑うと、箒を傾けた
ゆっくりと地上へ降りてくる
着地
そのまま、倒れたリングアーマーへ歩み寄る
しゃがみ込み、軽く叩く
「……壊れてないわね」
指を軽く鳴らす
リングアーマーの体が光を帯びる
やがて一つの指輪へと姿を変えた
ドロシーはそれを指にはめる
ユーリはその一連の動きを黙って見ていた
「……なるほどな」
小さく呟く
少女は立ち上がり、こちらを見る
「ドロシーよ」
ユーリは肩をすくめる
「……分かりやすい格好してるな」
「魔術師ってより、童話の類か」
「なによそれ」
ドロシーは少しだけ不満そうに眉を寄せる
だがすぐに口元を緩めた
「ま、いいわ」
ユーリは軽く息を吐く
見知らぬ世界
空飛ぶ魔女
アクセサリーが動く化け物
「……面倒なのに巻き込まれたな」
視線を少しだけ上げる
「ま、今さらか」