面倒くさがり剣士のメルヘヴン【MÄR】 作:サクレール
風が止む
荒野に残るのは、倒れた盗賊たちと、舞い上がった砂の名残だけだった
さっきまでそこにあった荒々しい気配が、嘘のように引いている
その静けさの中で、ただひとつだけ異質なものがあった
一人の少年だった
少し離れた場所に、音もなく立っている
細身の体躯
無駄のない立ち姿
肩に力は入っていないのに、隙がない
顔立ちは中性的で整っている
切れ長の目は静かで、感情を大きく表に出す気配がない
濃い青色の髪が、わずかな風に揺れた
光の加減で、黒にも見える色だった
ただ立っているだけで、空気が変わる
そういう類の人間だと、ユーリは一目で理解した
ユーリは剣を下ろさないまま、その少年を見据える
「……見てたのか」
返事はない
ただ、少年は静かにこちらを見ていた
値踏みするようでもあり、確かめるようでもある視線だった
次の瞬間、空気がわずかに歪む
「……え?」
間の抜けた声を上げたのはジャックだった
その体がふっと揺れ、輪郭がぼやける
縮む
羽が生える
気づいたときには、そこにいたのは小さな鳥だった
しかも、ただ鳥になっただけではない
どこから現れたのかも分からない小さな鳥籠の中に閉じ込められ、宙に浮かんでいる
「なっ!? なんスかこれ!?」
ジャックが慌てて羽ばたく
だが籠はびくともしない
「……妙な術じゃな」
バッボが低く呟く
ユーリの目が細くなる
「……テメェ」
短い声だった
だが、その一言だけで空気がさらに冷えた
少年はようやく口を開く
「はじめまして」
静かな声だった
抑揚は薄い
それなのに、不思議とよく通る
「君をこの世界――メルヘブンに呼んだのは、オレだ」
ユーリの動きが、ほんのわずかに止まる
「……あ?」
低く返す
「勝手に連れてきといて、ずいぶん言うじゃねぇか」
少年はその言葉に反応しない
謝る気も、取り繕う気もないらしい
「……賭けは失敗したのかもしれない」
ぽつりと、独り言のように言う
「ハズレ扱いは気が早ぇだろ」
ユーリが吐き捨てる
少年は視線すら動かさないまま、手を上げた
地面が軋む
次の瞬間、荒野の地面を突き破るようにして巨大な柱がせり上がる
一本ではない
歪んだ顔を刻まれた異様な柱が、いくつも連なって現れた
「ガーディアンARM」
少年が言う
『13(サーティン)トーテムポール』
低い地鳴りのような音とともに、柱が動き出す
重い
だが、見た目ほど鈍くはない
囲い込むようにして、ユーリへと迫る
「きみはそのARMが、なんなのか知っているのか?」
唐突な問いだった
だがユーリは気にしない
最初の柱が振り下ろされるより先に、半歩だけ体をずらして躱す
「さぁな」
短く返す
「知る必要があるとも思わねぇ」
横から迫った別の一本を、剣で弾き飛ばす
硬い
だが斬れないほどではない
そのまま一歩踏み込む
間合いを詰め、根元を薙ぐように斬り払う
柱の一本が傾ぎ、大きな音を立てて崩れた
少年はその様子を見ながら、淡々と続ける
「さっきの連中に手こずるようなら」
「チェスの兵隊(コマ)には殺されるだろうね」
ユーリは鼻で笑う
「手こずってたつもりはねぇけどな」
振り上げられた柱の陰から踏み込み、もう一本を叩き斬る
「あれでそう見えたなら――」
少年へ視線を向ける
「お前の目が節穴なんじゃねぇのか」
砕けた破片が砂の上に散った
ジャックが鳥籠の中で目を丸くしている
バッボは珍しく黙ったままだった
残る柱が、唸るように動く
だが、その合間を縫うようにユーリは立っていた
「……チェスの兵隊、だったか」
柱の動きを見切りながら、ユーリが問う
「なんだ、それは」
少年は少しだけ間を置いた
答える価値があるかどうかを量るような、短い沈黙だった
その沈黙のあいだに、ユーリはもう一本を叩き割る
やがて少年が口を開く
「数年前」
「このメルヘブンを手に入れようとする集団が現れた」
「凶悪なARMを操る戦闘集団――“チェスの兵隊(コマ)”」
ジャックが息を呑む
「やっぱり……!」
少年は視線を動かさないまま続ける
「多くのARM使いたちが応戦した」
「傷つきながらも、チェスの戦力を削っていった」
柱が振り下ろされる
ユーリはそれを最小限の動きで躱し、返す刃で表面に深い亀裂を走らせた
「そして」
少年の声がわずかに低くなる
「チェスの要の存在を討った」
その一言で、空気が変わる
「戦争は終結した」
「頭を失った残り少ないチェスは、バラバラになって闇に潜った」
風が吹く
乾いた砂が、砕けた柱の残骸をなでていく
「……まだ終わってねぇってことか」
ユーリが低く言う
「そうだ」
少年は頷く
「しかし今、チェスの残党が再び集まり始めた」
鳥籠の中でジャックの羽が震える
「それって……また何か起きるってことッスか……?」
少年はジャックを見ない
あくまでユーリだけを見据えている
「単刀直入に言おう」
「君を呼んだ理由は一つ」
残った柱が一斉に動く
だがユーリの意識は、半分以上すでに少年の言葉へ向いていた
「チェスの兵隊(コマ)を――今度こそ全滅させるためだ」
ユーリが睨む
「勝手に決めてんじゃねぇよ」
その声は低い
怒鳴りはしない
だが、はっきりと拒絶があった
「で、なんでオレだ」
少年は迷わず答える
「足りないからだ」
短い一言
ユーリの眉がわずかに動く
「……何がだ」
だが、少年はその問いには答えない
代わりに、静かに別の話を始めた
「異世界からこのメルヘブンに来る人間には、力が宿るらしい」
ジャックが目を見開く
「力……?」
「視力、聴力、腕力」
「身体的な能力が向上する」
ユーリは小さく息を吐いた
「なるほどな」
思い返せば、思い当たることはある
この世界に来てから、体の反応が妙に良い
違和感の正体は、おそらくそれだ
少年は続ける
「事実、以前の戦争で我らの指揮を執り、チェスの要を討ったのは、異世界から来た人間だった」
ユーリの目が細くなる
「そいつはどうなった」
少年の声に感情は乗らない
「その男は強かった」
「だが、あの男と相討ちになり、今はもういない」
短い沈黙が落ちる
バッボが低く言う
「……そうか」
その声は、普段よりもわずかに重かった
少年は続ける
「復活が予測されるチェスを倒すには、もう一度、異界の住人の力が欲しい」
柱がもう一本、重い音を立てて動く
だが次の瞬間、ユーリの剣がそれを真っ二つにしていた
「だから君を呼んだ」
視線がまっすぐに向けられる
「……賭けだった」
ユーリは呆れたように息を吐く
「随分と雑な賭けだな」
少年は何も言い返さない
その代わり、次の言葉を静かに置いた
「君が封印を解いたARM――“バッボ”」
その名が出た瞬間、空気がまた変わる
バッボの気配が揺れた
ごくわずかに
だが、確かに
「それはね」
風が吹き抜ける
「チェスの要――“ファントム”のARMだ」
静寂が落ちる
バッボの動きが止まった
次の瞬間、その表情がわずかに歪む
目を見開く
ほんの一瞬だけ、いつもの余裕が崩れた
「……なにを言っておる」
低い声
だが、わずかに揺れている
ユーリはその変化を見逃さなかった
「おい」
短く呼ぶ
「どういうことだ」
問いはバッボにも、少年にも向けられていた
答えたのは少年の方だった
「そのARMを武器に」
「ファントムは、オレたちの同志を何人も殺していった」
風だけが通り抜ける
言葉だけが、その場に重く残った
「……ウソじゃ」
バッボが呟く
「ウソじゃ……そんなこと、あるはずがない」
声が揺れている
「紳士のワシが……そんな真似をするなど……」
まるで、自分自身に言い聞かせているようだった
少年――アルヴィスは表情を変えない
「ウソじゃあない」
静かな断定
「お前は――」
そこで言葉を切る
視線だけが、バッボに突き刺さる
逃げ場を与えないように
過去そのものを突きつけるように
沈黙が落ちる
その張りつめた空気を切ったのは、ユーリだった
「……勝手に決めつけるな」
低い声
だが、はっきりしていた
一歩、前に出る
アルヴィスの視線を受け止めたまま、続ける
「そいつが何だったかなんて、関係ねぇ」
横目で、ほんの一瞬だけバッボを見る
「今はオレの隣にいる」
それだけで十分だとでも言うように
「それで足りるだろ」
荒野を風が抜ける
鳥籠の中のジャックも、アルヴィスも、バッボも
一瞬だけ言葉を失っていた
砕けた柱の残骸が、遅れて音を立てて崩れ落ちる
その音だけが、妙に大きく響いた