面倒くさがり剣士のメルヘヴン【MÄR】 作:サクレール
朝
夜の冷たさをわずかに残した空気の中、窓から差し込む光だけがゆっくりと部屋を満たしていく
静かな時間
その空気を、容赦なく引き裂いたのは――
――パシンッ!!
乾いた音だった
ジャックの顔が横に弾かれる
一瞬、視界が白く揺れた
「何考えてんだい、あんたは!!」
母親の怒鳴り声が、真正面から叩きつけられる
ジャックは頬を押さえたまま固まる
じんじんとした痛みが、遅れて広がってくる
「いってぇ……!」
やっと声が出る
だが母親は止まらない
「勝手に危ないことして……!」
言葉が続かない
怒っている
だが、それ以上に――
怖かったのだ
帰ってこなかったかもしれないという想像が、頭をよぎってしまった、その時間が
ジャックは何も言えずに立ち尽くす
昨夜の光景が、ゆっくりと脳裏に蘇る
速すぎる動き
避けられなかった一撃
そして――
割り込んできた、あの背中
息を吐く
ゆっくりと口を開く
「……でも」
「ちゃんと守れたッス」
母親の動きが、わずかに止まる
ジャックは視線を逸らさない
「途中から……怖くなくなったッス」
自分でも確かめるように言う
あれだけ震えていたはずなのに
気づけば、前に出ていた
「だから……倒せたッス」
短く、はっきりと
言い切る
沈黙
母親はしばらく何も言わない
ただ、ジャックを見ている
やがて、小さく息を吐いた
「……ほんとにバカだね」
怒鳴り声ではない
諦めにも似た、やわらかい声
その奥には、確かな安堵があった
ジャックは少しだけ笑う
家の外
朝の空気はまだ冷たく、空はどこまでも澄んでいる
ユーリは壁にもたれ、ぼんやりと空を見上げていた
何を考えるでもなく、ただそこにいる
さっきのやり取りが、耳の奥に残っている
怒鳴り声
叩く音
そして――
守れた”という言葉
目を細める
何かが引っかかる
だが、それを掴もうとはしない
考えかけて、やめる
「……面倒くせぇ」
小さく吐き出す
「ユーリ!」
声に振り向く
ジャックが駆けてくる
少し息を切らしながらも、どこかすっきりした顔をしている
「飯、できたッスよ」
ユーリは軽く手を上げる
「あとで行く」
短く返す
だがジャックは帰らない
そのまま隣に腰を下ろす
土の感触が伝わる
少しの沈黙
「……なぁ」
「ユーリって、本当に別の世界から来たんスよね」
確認するような言い方
ユーリは軽く頷く
「まぁな」
それだけ
ジャックは少し考える
「どんなとこなんスか?」
ユーリは空を見上げたまま答える
「大して変わらねぇよ」
「揉め事があって、金が動いて」
「それで回ってる」
淡々とした声
ジャックは少し拍子抜けする
「もっと……すごいとこかと思ってたッス」
ユーリは小さく笑う
「名前が違うだけだ」
一瞬、遠くを見る
「昔は“ブラスティア”ってのがあってな」
「火だの水だの、そういうのを扱う道具だ」
ジャックの目が開く
「便利そうッスね」
ユーリは肩をすくめる
「まぁな」
「今はもうねぇけど」
あっさりと言う
それ以上は語らない
空気が少し静かになる
ジャックが続ける
「どうやって来たんスか?」
「扉だな」
「吸い込まれたらここだった」
簡単すぎる説明
「どんな扉だったんスか?」
「覚えてねぇ」
「場所は?」
「知るか」
即答
ジャックが言葉を失う
そのとき――
バッボと目が合う
一瞬の沈黙
だが、次の瞬間
「……ARMッスね」
「……ARMじゃな」
声が重なる
ユーリは黙って続きを待つ
ジャックが身を乗り出す
「ARMにもいろいろ種類があるんスよ」
「戦うやつもあれば、もっと変わった力のやつもあるッス」
バッボが続ける
「中でも特別なのがある」
「空間そのものに干渉する力を持つARM」
空気がわずかに張り詰める
ユーリの視線が上がる
「……それが?」
ジャックが頷く
「ディメンションARMって呼ばれてるやつッス」
静かな言葉
ユーリは少しだけ空を見上げる
「それが帰る手段、ね」
「まぁ、あるならそのうち見つかるだろ」
軽く言う
「探さないんスか?」
ユーリは肩をすくめる
「じっとしてても見つからねぇしな」
一歩踏み出す
「動くしかねぇだろ」
それだけ
バッボが小さく声を出す
「ならば都合がよい」
「ワシも、失った記憶を取り戻す必要がある」
一瞬の間
「お供になることをを許可しよう」
「お前の家来じゃねぇっての」
そのとき――
「ちょっと待ちな」
母親の声
振り向く
母親がゆっくりと歩いてくる
ジャックの前で止まる
そして、ユーリを見る
「その子も連れて行きな」
ジャックを指す
「このままここに置いといたら、どうせまた勝手に飛び出す」
そして、静かに言う
「ユーリがあたしたちを助けてくれたように」
ジャックを見る
「今度はお前が、ユーリを助けるんだ」
まっすぐな言葉
ジャックは頷く
「……分かったッス」
ユーリは軽く息を吐く
「そりゃ頼もしいな」
ジャックは少しだけ笑う
「行くッス」
一歩踏み出す
三人の進む方向が、揃う
町の外れ
人の気配はない
風だけが、ゆっくりと流れている
ペタが、静かに立っていた
その目はどこも見ていない
いや――
“思い出している”ようだった
「……生きているARM、か」
小さく呟く
口元が、わずかに歪む
指に嵌められた指輪が光る
淡く、静かに
空間がゆがむ
円を描くように広がる光
そこに映るのは――
無数の景色
荒野
路地裏
洞窟
世界各地
盗賊たちの視界に、同じ映像が流れ込む
その中心
バッボの姿
ペタが口を開く
「これを奪え」
「手に入れろ」
感情のない声
「持ち主は、殺して構わない」
静かに言い切る
そして――
わずかに笑う
「生きているARM――」
一瞬の間
「『バッボ』だ」
光が消える
静寂
だが
世界は、確実に動き出していた