古代の最初の人間は元々背中合わせの四本の手及び四本の足を持ち、頭が二つあり、アンドロギュノスと呼ばれていたが、神も恐れぬ不遜な態度と巨大な力によってゼウスに二体に切り離された。このため人間は互いに失われた半身を求めるのである。
プラトン『饗宴』
「詰め込め、早くだ!」
叫んだ声が響き渡り、恐慌状態を触発した。
防犯用のシャッターが閉じ、最早密閉空間と化した銀行内で喚くのは黒色のフルフェイスヘルメットを被った強盗団だけだった。つい二十分ほど前に銀行内へと侵入した銀行強盗の要求はシンプルに金だった。一億円詰めろ、と差し出された鞄にせっせと現金を詰めているのは銀行員たちである。彼らには犯行グループが銃を突きつけており半ば強制に行動させられていた。無論、警察への対処が先だろうが、防犯ベルに手を伸ばそうとした銀行員は真っ先に射殺された。もう、誰一人としてその悪夢を再現する場所へと近づこうとしない。
「一億円はまだか!」
銃を振って周囲を威圧する犯人は既に正気を失っているようだった。偶然居合わせた客たちは身体を震わせて銃の恐怖に耐え忍ぶしかない。
どうやって犯人たちは逃げるつもりなのだろうか。居合わせた客たちはその疑問を感じずにはいられなかった。密室状態で自分たちの反攻は公にされている。最早、手立てなどないのではないのか。しかし犯人たちは慌てる様子もない。さっさと詰めろと要求はするものの急いた様子はないのだ。通常ならばシャッターが下りた時点で少しくらいは慌ててもいいはずである。
もしかすると連中は、とその場にいる全員が考えた。この状況でも平然としていられるのはその可能性しか思い浮かばない。
「シャッターを上げろ」
犯人が要求し、銀行員はその言葉通りにシャッターを開けた。その瞬間、入り口のガラスが砕け散り、放たれた弾丸が犯人の心臓に撃ち込まれた。よろめき、犯人は倒れる。だが、その段になっても仲間たちは慌てない。それどころかゆっくりとした動作で犯人の持っていた鞄を受け取った。あまりの鈍さにもう一発、放たれた弾丸が仲間の頭部に吸い込まれる。倒れる犯人たちにこの事件は収束した、と考える人間は一人もいなかった。
何故ならば、犯人たちは数秒もしないうちに再び立ち上がったからだ。
「命を無駄にしちまった」
ちょっとした不手際のように撃たれた犯人は口走る。心臓に撃ち込まれた弾痕からの出血が止んでいた。犯人たちが発砲する。張っていた武装警官隊からの狙撃は一度やみ、犯人たちは何でもないことのようにその場を逃げ去った。
「どうやら一回目だったらしい」
口にされた言葉にライフルへと弾を込め直していたリィンは率直な感想を漏らした。
「またか。一回目を、よく無駄にできるな」
ライフルに弾丸を装填し、リィンが狙撃姿勢を取った時には、もう犯人たちの姿は現場にはなかった。
「だから言っているんだ。こういう時にきちんと下調べしないから、一回目の連中を相手取ることになる」
リィンの漏らした苦言に同僚のウィペットは笑った。
「知らないよ。一回目かどうかなんて、本人に聞かなきゃ分かるわけがない」
スコープを覗いて犯人たちを追おうとするが、スナイパーの視野は狭い。だから犯人はすぐに逃げおおせる。
「突入して連中を倒せばいい。一回目ならば復活直後に撃てばいい」
「お前くらいだよ、そういう風に現実見れるの」
ウィペットの持っている無線からザザッとノイズが聞こえてきた。
『司令部より入電。犯人グループ全員がノーコンティニューの模様。繰り返す……』
「知っているっての。相も変わらず連絡が遅いな」
「こっちが撃った時には、もうそれが決しているものだ」
張っていたリィンは追撃を諦めた。
「別働隊に任せよう」
「意外だな。こういう時の手柄は欲しくないのか?」
心にもないことをこの同僚は言うのだ。リィンは慣れ親しんだやり取りを返す。
「何度目か分からない相手を相手取るのは疲れるって言っている」
リィンはライフルを折り畳んでその場から離脱しようとする。しかし本部からの入電がそれを阻んだ。
『リィン・カーネーション警部、それにウィペット・ガンス警部に告ぐ。まだ職務は終わっていない』
「こっちの意向は無視ってわけだ」
ぼやいたウィペットの声は司令部に届いたようだ。
『現場の意向よりも司令部の意見が尊重される。これは』
「警官隊に入った時に達せられた通り、だな」
後を引き継いだリィンの声に司令部は満足したようだった。
『では復誦せよ。この秩序は我らの、日々たゆまぬ努力の賜物なり』
「日々たゆまぬ努力の」
「賜物なり」
リィンの真面目腐った復誦の声をウィペットは引き継いで終わらせた。思わず不服そうな目を向けるとウィペットは肩を竦める。
「そんな顔するなって。何なら、埋め合わせしてもいい。劇薬三昧のフルコースで」
「僕はそんなところで一回目を無駄にするつもりはない、っていつも言っているだろう」
リィンの声に、「違いない」と首を引っ込める。ウィペットは既に移動準備を始めていた。ビルの屋上に張っていたため、移動は少しばかり面倒なことになる。リィンは、「状況とルート」と無線に吹き込んだ。
『ルートを提示する。目標への最短ルート』
携行端末に目標へのルートが表示される。ウィペットは、「ハイキングだ」と手持ちの武器を畳んで立ち上がる。
「張り切っていこうぜ」
同僚の声にリィンは額を押さえる。
「ハイキングは苦手なんだ」
「ピクニックだよ」
「言い換えただけじゃないか」
『目標との距離が離れている、留意されたし』
言外に、さっさと行けうすノロマと言われているのだ。尻を叩く声にリィンは手を払う。
「ほれ、催促が来たぞ」
「できれば、歩いていきたいところだよ」
そうぼやいてリィンはビルの真下を眺める。十数メートルはある眼下をウィペットは迷わず跳躍した。落下する同僚はなんとそのまま、何かに掴まることなく墜落死した。しかし、すぐさま起き上がる。臓物の一つも撒かれず、ウィペットは先ほどまで話していたのと同じ調子で無線機を鳴らした。
『よぉ、リィンの玉なし野郎。俺はもう降りたぜ』
リィンはウィペットの勇姿に、「尊敬はする」と吹き込んだ。
『それってさ、軽率って意味じゃね?』
「僕はあまり死にたくはないのでね」
リィンは律儀にビルの階段を駆け降りる。その無線に、『玉なしだな』とウィペットの文句が飛んだ。
『そんなだから、大体ゼロ回なんだよ』
「一個命を落としてまで追う相手じゃないだろ」
違いないや、と相手は応じた。
逃走経路は既に用意されている。携行端末に表示されるのは「一回死んだ」相手が取るであろう妥当な経路だった。追いつくと、「派手に行こうぜ」とウィペットは銃器にキスをした。
「真似しろって」
「錆び臭そうだから嫌だね」
タッチをしてゴーサインを送る。リィンとウィペットは逃走経路を辿っていく。すると間もなくして犯人たちに追いついた。
「どうやら奴さん方、死ぬのは初体験みたいだぜ」
ひゅう、とウィペットが口笛を鳴らす。リィンは銃を構えた。
「止まれ。武装警官隊である」
銃口を突きつけると思いのほか犯人たちが恐れ戦いた。ウィペットが口元を緩める。
「こいつら、さっき死んだってのにやっぱり死ぬのは嫌なんだな」
「いい気分じゃないからだろ」
リィンは銃のセーフティを解除する。フルフェイスの相手が銃を振るい上げる前に一撃、心臓へと正確な銃撃を放った。一人がそのまま倒れる。すると他の犯人グループも大人しく銃を地面に置いた。
「殺すか?」
構えたアサルトライフルの銃口を突き出したままウィペットが尋ねる。
「いや、必要ないだろう。一回の死しか権利はないんだ。誰だって一回は大事に使いたいだろう」
ウィペットが銃を下ろす。無線機に吹き込んだ。
「状況終了。犯人グループを護送する」
リィンが犯人たちの後ろに回り、手錠をかけようとする。すると、背中に鋭角的な痛みが走った。直後に熱を感じる。刺されたのだ、と認識した瞬間、リィンの意識が昏睡へと落ちた。
次の瞬間には、倒れ伏している犯人たちの姿が目に入る。どうやら自分は少しばかり「死んで」いたらしい、と認識した。
「遅ぇよ」
ウィペットが銃身で「死んだ」犯人を突く。リィンは首をさすり、「どれくらいだ?」と訊いた。どれくらい「死んでいた」か、という意味だ。
「一分ちょいくらいかな。やっぱり、死に慣れていないと復活は遅いな」
「放っとけよ」
軽口を交し合い、リィンは犯人グループを眺めた。
「死んだのか?」
「みたいだな。こいつら、全員、一回分しか持っていないみたいだし」
ウィペットが犯人の一人の手首を返す。手首の内側にカウントが表示されていた。その表示は00の下にアンダーバーがついている。そのアンダーバーが点滅していた。つまり「完全に死んだ」ということだ。
「また上に怒られるな」
「始末書だろう。勝手に死を繰り上げたんだ。一応、命令くらいは仰ぐべきだった」
「お前が死んで焦ったんだよ。俺らは三機持っているとはいえそう易々と死ねないんだし」
ウィペットが手首を引っくり返し内側を見せる。そこには02の数字の下にアンダーバーが点滅していた。
「やっぱり、死ぬって気分よくないな。刺された時なんか最悪だったし」
「まぁ、その分は今日の呑みで帳消しってことにしようや」
「その前に僕らが簡単に定時に上がらせてもらえるか、だけれど」
間もなくパトランプを点滅させた車両が狭い通路に捩じ込むように停車してきた。あとは下の仕事だろう。リィンたちは帰りの車に乗り込んだ。
「安全運転で」とウィペットが言いつけたのが少しだけおかしかった。
「と、いうのが事件の顛末でして」
ウィペットと共にリィンは事件の報告をしていた。しかしいつだって視点はこの円柱型の執務室を漂う巨大なアロワナに向けられている。五メートルはあるであろう、化け物アロワナは時折その張り出した眼をぎょろりと二人に向けた。
「おっかないな」とウィペットが呟く。すると、「報告は」と執務机に背を向けている人物が声にした。痩せぎすで眼鏡をかけた初老の男だ。杖をついており、それで執務机の上に置いた報告書を叩く。この上司には書類を叩くという悪癖が存在した。
「以上かな」
ぎょろり、と魚眼レンズじみた眼鏡の向こうにある双眸が尋ねる。アロワナみたいだ、とリィンは思った。
「以上であります」
ウィペットが真面目腐って敬礼する。すると上司は皮膚を吊り上げて笑う。
「かしこまるな。君がそう思う輩でないのは重々承知している」
はっ、とわざとらしくウィペットは敬礼を解いた。この男の癖なのだ。上司いびりは特に。
「しかし、今回の事件、二人ともがいっぺん死んでみるのは少し大げさ過ぎたのではないかね」
「ですが、課長。犯罪は激化する一方です。死んでみる以外、妙案が思いつかないのも現状で」
ウィペットが身振り手振りで話し出す。すると課長はぎょろりとした眼を今度はリィンに注いだ。恐らくはウィペットの話す内容に意味がないと察したのだろう。
「君はどうだね、カーネーション警部」
ファミリーネームで呼ばれリィンは少しだけ硬直する。
「自分でありますか?」
「死んでみる価値はあったかね、と聞いている」
リィンは首を傾げ言葉を探す。
「ちょっと、死ぬのはもったいなかったですね」
「ならば善処せよ。いくら三機持ちが許されていても三回しか死ねないのだ。決して不死身というわけではないことを胸に刻むのだな」
そこまで話して課長は円柱型の水槽を叩いてアロワナを招く。アロワナが近づいてくるのは退室していいのサインだ。二人して返礼する。
「失礼します」
出た途端にウィペットが肘で突いた。
「馬鹿。ユーモアがないんだよ、ユーモアが」
それは上司を馬鹿にしてみせるユーモア、という意味だろうか。
「生憎、僕は首をかけてまで上司を遊ぶ趣味はないよ」
「分かってないな。上司を遊ぶんじゃない、上司と遊ぶんだ。向こうだって喜んでいるはずさ」
リィンには理解できない。死んでまで上司と遊ぶ義理はないと感じるからだ。
「そうかな」
「そうともさ。化け物アロワナとよろしくやっているよりかは俺たちと喋ったほうが気分も落ち着くだろう」
やはりウィペットの価値観は変に偏っている気がする。アロワナは自分も気味が悪いと感じているが自室に飼うくらいだ、気に入っているのだろう。
「上司の趣味に口出す権利はないし」
「だからってあのアロワナはキモイ。あれにじっと見つめられるだけで命が消費される気がするぜ」
ウィペットの声にリィンは手首を覗き込む。すると手で隠された。
「見んなよ。ルールだろ? 他人の命を覗き込むなんて、ケツの穴を覗くようなものだってことは」
「そりゃ常識だけれど、命が削れるって言うから」
「もののたとえだよ。本当に馬鹿だよな、お前」
談話室では同じ職業の人々がたむろしている。誰もが手首にリストバンドなり何なりをして「死ねる数」を隠していた。
「職務ならばともかく、プライベートまで死ぬ数を見たくないってのがあるんだよ」
ウィペットはそう口にして談話室の人々と今日の予定を聞き出す。今日「死に会」に参加するのは絶対だろうな、と感じつつリィンは手首を裏返す。
あと二回、という事実を02の文字が示していた。