サブリナは定位置から動かずに膝を抱いて震えていた。あまりにも弱々しいその様子に、これがセフィロトの欲しがったものか、と疑わしくなる。だが彼女がこの社会では特異なのは同じことだ。皮肉なことにサブリナが否定したいセフィロトは、同時にセフィロトの否定したい人間だった。罰せられるのはどちらか。どちらにせよ、自分は事の成り行きを見守らねばならない。だが静観ではない。武装した一個人として。
「終わったの?」
サブリナの声に、「何とかね」と答える。サブリナは姿勢を解くことはなかった。不用意に動かないのは先ほどセフィロトの重圧を嫌というほど知ったからだろう。リィンもその隣に座り込んだ。
「護衛しなくっていいの?」
「正面玄関は一つ。指紋認証がなければ入れない」
「先生は、裏を掻くと思うわ」
「裏を掻かれないように、僕は努力するまでだ」
リィンの返答にサブリナはこの場所で初めて微笑んだ。
「やっぱり、変わっているわね、あなた」
「名前が?」
リィンの冗談に、「それもあるけれど」と答える。
「あたしみたいなこの社会では人でなしに、対等に接してくれることとか」
「対等、なのかな。僕は結構、脅迫じみたことを言ったりしているし、心の奥では君のことを蔑んでいるのかもしれない」
「でも、そう言うってことはそうじゃない」
「そう思いたいだけさ」
視線を振り向けるとサブリナは碧眼を向けていた。青空のように、深く碧い瞳。吸い込まれそうになる感覚を味わった。
「どうして、武装警官隊なんかに入ったの?」
「食いっぱぐれないためだよ」
自分の薄っぺらい嘘をサブリナは容易に見抜いた。
「本当は?」
リィンは話すべきか迷ったが、今話さなければ彼女と話す機会は永遠に失われるかもしれない、という危機感に囚われた。何よりも、彼女にならばいいだろう、とリィンは感じていた。命を一つしか持たないのだ。他の人間にならば死なれても秘密は保たれないかもしれないが、彼女は一度死ねばそれっきり。ライフ・フリークスの話を聞き出すのにも自分の不幸話一つで済むのならば安いものだ。
「……どこから話せばいいのか」
リィンは母親の顔を思い描いた。
海岸線を十キロほど走っていると旅行者がヒッチハイクを探していた。自分たちはそれを目にしながら通り過ぎる。
「駆けっこしているんじゃないんだぞ」と教官に言われたのを今でも覚えている。
「武装警官隊には基礎体力は必須だ。いくら正規構成員になれば三機は保障されるとはいえ、基礎体力のなっていない連中を構成員に招き入れるほど、武装警官隊は甘くないのだからな」
教官の口癖にリィンたち訓練生は毎度のことながら、「はい」と声を張り上げる。ほとんど脊髄反射のようなもので、責任感や義務感を覚える暇はない。そんな、いつも通りの訓練の後だった。自分宛に電報が届いていたらしい。
暗号化されたステータスは親族以外に読み取れない。大昔の「電報」という言い方をしているのは当の本人以外にはまるで意味のないバーコードの羅列に過ぎないからだ。リィンは生態認証コードを端末に打ち込み、バーコードを読み取った。すると表示されたのは簡素な文面だった。
「リディア・カーネーション ジコ シンパイテイシ ジョウタイ」
すぐに帰ろうとは思えなかった。自分は訓練生で、易々と故郷に戻れる身ではないのだ。だからそれを見ても、「ああ、そうか」以外の感想は漏れなかった。心肺停止状態なら、まぁ生き返るための命を何個か消費するのだろうな、と冷たい感情を抱いたぐらいだ。
武装警官隊に志願した人間の親族には毎年補助金が贈呈される。だから金には困らないだろう、と考えていた。だから翌日に「キトク」の電報が打たれるまで、本当に心の一隅でも心配するなんていう情はなかったのだ。
その電報を目にして思ったのも、「この世の中に危篤という言葉がまだ残っているのか」という恥知らずなものだった。
「母親がキトクなので」
日常からは遊離した言葉で教官に言うと、「死んだのか?」と尋ねられた。リィンは返答に困る。危篤、ということは命が危ないことなのだが、命が危ない状態、というのがまず想像できない。リィンは、「死んだ」と答えることにした。それが一番、面倒を減らせると感じたのだ。
故郷の土を踏むのは三年ぶりだった。その頃には昔通っていたゲームセンターや昔ながらの家々の類は撤去されていて、妙に滅菌された白色の巨大な医療施設が建造されていた。
城のようだな、と感じつつリィンは受付で名前の照会をしてから医師に通された。とても若い医師は簡素な言葉で告げた。
「もう助かりません」
よく意味が分からずにリィンは何度聞き返す。言うには母親は自動車事故で保有する命を全て消費し切っており、今残っているのはただの命の回復を待つだけの肉体だとのことだった。
「それはつまり、死んだんですか?」
「それが分からないんですよ」
眼鏡の医師はブリッジを上げて高説を垂れる。
「そもそも死とは、この現在において何を意味するのだと思います? 何度も死ねるようになって、若者が日に遊びで死に、翌日にはケロッとして職場に行くなり学校に行くなりしている。死は遊びの一つなんです。身体機能の一つとして既に組み込まれているんです。だから、死んだ、という説明はできかねます。何故なら、それは通常の身体機能が行われている状態、ということになりますから。死んだ、ということは、死んでない、という逆説的な証明にもなるのです」
医師の説明はまどろっこしかった。リィンは苛立ちを募らせつつ、聞き返す。
「つまり、死んでないんですか?」
「あなた、武装警官隊らしいですね。お父上が来られて息子は武装警官隊だから、と仰られましたが」
「まだ訓練生ですが」
「不死を将来に約束されたあなた方からしてみれば余計に分からないでしょう。わたしだって分からない。医療免許を持っている人間にも二機は約束されています。医療従事者ならば二回は死ねるわけです。だから、時折こういうキトクな状態の患者さんが来てもわたしらとしてみれば、完全に死んだのか、あるいはただ死んでいるだけなのか分からないのです」
「仰られている意味がよく分かりません」
頭がこんがらがりそうだった。
「でしょうね。わたしにも想像できないんです。正直なことを言いますと。わたしもね、伝染病で全身から血を噴き出して死んだこともありますし、インフルエンザで何日も寝込んだ後に死んだこともあります。ですが、それは事象としての死であって、つまり身体機能の延長線上にある、死なのです。痛みがあって、いくら苦しくって、ああ死んだなと思えても、一回死ねば、わたしたちは健康そのものの身体に戻れるわけです。だから死というものは理解できない。あなたのお父上にも同じことを言おうかと思いましたが、あなたの親の世代はまだ命の保有というものがピンと来ていない世代でしょう? だから言いづらかったのですが、あなたならば分かりますよね?」
武装警官隊の訓練生ならばこの葛藤が分かるはずだ、と医師は相談してきているのだ。これではどちらが患者なのか分からない。
「ええ、まぁ」
「だからあなたのお母様は死にそうです、と簡単に申し上げるわけにもいかない。何せ、死というものが全く理解できない世代なのです。あなたは、どう感じていますか?」
「残機がなくなれば死じゃないでしょうか?」
「この手首の刻印がゼロを刻めば死ですか? 確かにこの社会はそういう仕組みになっている。ですが、翌日には回復するんですよ、残機以内ならば。だったらギリギリまで死んだ人間でも残機があれば生き返る。わたしは時折思うんです。今横切った人間は何回死んだのだろう? わたしの部下だと思っている人間は何回死を経験しているのだろう、って。本来、死は何度も経験できるものではありません。だから宗教があり、民族対立もあった。ですが、死を誰もが平等に享受できる社会ができあがったことによって死の苦しみは誰でも分かるようになり、大昔のように哲学者が頭を悩ませて搾り出していた命題はあらかた解決されたのです。ミサイルを撃ち込めば痛いだろう、刺せば痛いだろう、首を絞めれば痛いだろう、というのが誰かからの伝聞ではなく、自分自身で経験できるようになった。いわば臨死社会ですよ、この世は」
臨死社会とは面白いことを言うのだな、と感じた。この医師にはユーモアのセンスがあるのかもしれない。
「で、あの、母親は死んだのでしょうか?」
「だから、判断ができない、と言っているのです。わたしは恐らくこれを死と呼ぶのだと思います。ですが、ある一面ではこれは死ではないのです。人間が毎日血液を全身に満遍なく流すように、あるいは脳が手を動かすと意識せずして手を動かすように、これは身体機能の一つになってしまった。だからお母様は死んでいるのだと思うのですが、これを死と決定付けてしまうと、では我々は? と思うしかない」
この医師は病気持ちなのではないだろうか、とリィンは疑い始めていた。死の判定にそれほど難解な問題が横たわっているとは思えない。
「ですが、医者に死んだと言われないで、どうやって死を判定しろと言うのです?」
「我々は年間、何度も死を判別していきます。大昔のヒヨコのオスメスを判断する人間が限られていたように、我々はそういう存在なのだと思うのです。これが死だ、とわたしたちが言わなければ、もしかすると死者はこの世界にはいないのかもしれない。しかし、そんな、臨死の氾濫する社会を許してはならないのです。だからわたしたちは残酷に、残虐に、何の迷いもなく、これが死だ、と宣告するほかないのですが、わたしは少しばかり迷っているのです。お母様は、完全に死んでいるのか、それとも明日の回復を待っているのか、定かではないのです」
「でも命が支給されない、ということは、死んでいるんじゃ?」
「そういう判別の方法もありますね」
医師はどこまでも他人行儀だった。
「ですが、もし、もしですよ、このシステムがどこかエラーを起こして、偶発的に命が支給されないのだとすれば、それはシステムの不具合であって、死者には結びつかないでしょう?」
そんなもの、疑い始めればきりがないではないか。リィンは切り込んだ。
「死んでいるって、お医者様から言われないと我々親族は何もできないんです」
「そうです。だから、わたしたちは医療に携わるものとして、死を判別せねばならないのです。それがどれほど残酷なのか、あなたにも分かるはずですよ。武装警官隊は場合によっては人を殺さねばならない。ですが、それはどの段階をもって死と判別するか、それも曖昧なのではないですか? 手首の刻印がゼロを刻んだら? なるほど、それも一つの正答でしょう。ですがシステムエラーでその表示が狂ったら? まだ一機ある人間を死者として判断しなければならない。それは旧時代の殺人ですよ。しかも公式の判断で死を判断するのですから、これは国家が殺したと思われても何ら不思議ではない」
この医師はクレーマーに悩まされているのか、とリィンは訝しげだった。どうしてそこまで死を判定するのに苦難を経ねばならないのだろう。
「心臓が止まれば死では?」
「命が新たに支給されれば心停止ぐらい何とかなります」
「では脳波が止まれば」
「それは確かに、脳死の状態でしょうね。ですが、それすらも危うい判断なのです。今の医療では脳死、をイコール死と安易に結び付けてはならない。だから何時間以上脳波がなければ、それを死と判断する法律もあります。あるいは心拍数がある一定値を下回れば、それが死だと。ですがその二つの法律は、この国にはないのです。この国は、技術では他国を圧倒的に引き離しているのに、そういう倫理観では二十年ほど遅れている。恐らくは世界で最初に不死を実現したが故に、慢心したのでしょう。倫理の問題を棚上げして、技術だけを進めてしまった。だから死とも死ではないとも言える状態を判断する材料がない」
リィンは結論を急いでいた。死んでいるのならばさっさと葬式を済ませて、訓練校に帰らねばならない。だがこの医師はいつまで経っても判断を下さない。
「母親が死んだと、公的な場所から言えるのはあなただけじゃないですか」
「そうなんです。わたしだけなんです。ですがこれがどれほど苦渋なのか、あなたにもよく分かるはずなんです。お母様の、心臓は停止しています。命も、今のところは支給される気配はありません。命がなくなった状態が既に一日を過ぎています。だからこれを死だと、わたしは言ってもいいのですが、だったら命を受け取れる権利が剥奪されたかと言うとそうではない。この国では恒久的にその権利を剥奪する職業は二つだけです。医療従事者か、あるいは武装警官隊か。だからあなたに判断して欲しいのです」
「僕に、ですか……」
自分は訓練生だ、と言おうとしたが医師の眼は真剣そのものだった。
「武装警官隊ならば死を扱えるでしょう? わたしは、医療従事者として死を判定せねばなりません。ですが、わたしじゃなく、誰かにその権利があるのならば、それを喜んで差し出しましょう。わたしにはこれを決める権利はない。もういらない。だから決めるのはあなたです。お母様は、心肺停止状態。脳も少しずつ死に近づいている。ですが、もし命の支給が再開されれば助かります。心拍の停止も、脳波の弱々しさも、元より事故に遭ったことも全てなかったことにできるのです。ですが、お母様の死を判定すれば、その時点から、死亡と言わざるを得ません。つまりいくら命の支給があっても、あるいはまだ国が死者だと認めていなくても、死んだ、と言うほかないのです」
「父親は、何と言っているのです? 夫婦ですから国家に命を返す権利は片方も持っているはずです」
「全て、あなたに任せると言っていました。長男であるあなたに全ての権利はあるのです」
要は父親が投げたのだ。母親が死んでいるのか、いないのか、という判定を。だから息子である自分がせねばならない。この人間は死んだのか、あるいはまだ命が支給される可能性があるのか。
「可能性、という点で言えば、死者は存在しないですよね」
「いえ、事故で身体の大部分が欠損していれば、それを死と容易く判断できたのですが、お母様は幸いにも身体に目だって外傷はありません。心臓が停止し、脳が緩やかに死んでいくだけなのです。こういう患者を死者だと判断しなければ病院はパンクします」
この城壁のような病院が崩れると言うのか。馬鹿な。リィンは訊いていた。
「そんなに死人に近い患者さんが?」
「ええ、多いですよ。老衰間近の患者さんは日に何度も死と生を繰り返しています。ですが、国から支給される限り、それを死とは認められないのです。勝手に認定すればそれは殺人です」
「僕に、母親を殺せ、と言うのですか」
「そうではありませんよ。もちろん、あなたが認めればお母様の管理は全て停止いたします。あなたさえ認めれば、です。逆に言えば、あなた以外に誰もお母様を死なせてあげられないのです。我々公共機関でも、国家でも、あるいは世界でも神でもない。あなただけが、お母様を死んだか、あるいはまだ生きているかを判断することができる」
「僕が武装警官隊でなければ、こんな判断を仰いだりしなかったんですか」
「そうですね」
無機質に返した医師には怒りも湧いてこない。ただただ、虚しい胸中があるだけだった。
「僕が死んだ、と言えば、母親は死ぬんですか」
「そうですね」
国家でも、医療でも、神でも――夫婦の契りを交わした父親でもなく、ただ産み落とされた自分に、母親の生死を決めろ、というのか。
「傲慢に映りませんか」
「いえ、それは勇気ある決断だと称されるでしょう」
「ですが、あなたが言ったんですよ。勝手に判定するのは殺人だって」
「わたしにはもう権利はないから殺人です。しかしあなたはご子息だ。だから決められる」
「権利があるからと言って、そう易々と決められるものでは」
「ではどうします? お母様の延命処置は続けますが、その場合、あなた方家族が負担しなければならない。もしもの時に治療措置はします。ですがこの際、いつまでも延命して、腐敗するはずの身体がいつまでも綺麗なことのほうが不自然ではないでしょうか」
答えは出ているのだ。医師は自分の口から言ってしまえば、それは決定的事実になるから避けているだけである。リィンは口を開いた。医師を糾弾したかったが、今は母親の死に関して考えるのが精一杯だった。
「母親は、どちらが幸福だと思うのでしょう」
「それは息子であるあなたが一番よく知っているのではないでしょうか」
やはり卑怯だ。自分だけに責任を押し付けようというのだから。この医師も、父親も、権利があるのに自分に任せている。自分が責任を負うことによって全てが解決される、という事実は歴然としているが、だからと言って決められるものか。母親の意思をどう尊重するのか、リィンには分からなくなっていた。
「僕は、親不孝者ですから。両親は武装警官隊に入ることを、快く思っていないと思います」
嘘だった。両親からは一言として止める言葉はなかった。高校に進学した時も、大学を決めた時も、両親から得られた返事は二つ。「母さんに聞け」「父さんに聞きなさい」。
だから自分で選んできた。武装警官隊に入ったのは親孝行をするためではない。この社会で確実に食い扶持を得るためだ。結果的に両親に補助金が行くことになるのだが、それはどうでもよかった。扶養してやる気はなかったし、あくまでも二次的なものに過ぎなかったのだ。しかし、今、自分は武装警官隊を選んだことで、親の死という、残酷な決断を迫られている。これが選択の結果なのか? リィンは自身に問いかける。ないがしろにしてきて、ないがしろにされてきて、その末路がこれなのだろうか。
「返事をいただけない場合、当局と致しましても対処しかねますので業者に任せます。よろしいでしょうか?」
業者、というのは瀕死状態の人間を囲う介護業者だ。身体が腐らないようにしてくれる。だがそれは病院で延命処置を受けることと大差ない。ただ民間に渡るだけのこと。
リィンはそれならば決断したかった。民間の業者が母親の身体を死体として扱おうものならば、それは自分の本意ではない。
「僕は……」
この時、自分は初めて人を殺した。