博物館を出ると、外の光は思っていたよりやわらかくなっていた。
高かった日差しは少し傾いていて、ニビシティの石造りの建物を淡い色に染めている。灰色だった壁も、夕方の光を受けると少しだけあたたかく見えた。
カエデは階段の上で立ち止まり、博物館の大きな建物を振り返る。
「……すごかったね」
小さく零すと、隣のガーディが短く鳴いた。
ニドも耳をぴくりと動かして、さっきまでいた建物を見上げる。
中で見た大きな骨格標本。
昔のポケモンの化石。
月の石の展示。
知らないものばかりで、全部ちゃんと分かったわけじゃない。
それでも、自分の知らない世界があんなふうにたくさんあるんだと思うだけで、胸の奥が少しざわざわした。
怖い感じじゃない。
もっと見てみたい、知ってみたいっていう、落ち着かない感じ。
「……旅って、こういうのもあるんだね」
ジムに挑むとか、強くなるとか、そういうことだけじゃない。
町ごとに空気が違って、知らないものがあって、自分の世界が少しずつ広がっていく。
それを知れただけでも、ここまで来た意味があった気がした。
ガーディがカエデの手に鼻先を寄せる。
考え込みすぎていたのが分かったのかもしれない。
「……うん、だいじょうぶ」
そっとその頭を撫でると、ガーディは満足そうに目を細めた。
その横で、ニドが少しだけ前へ出て、博物館の方をもう一度見たあと、くるりと町の通りへ顔を向ける。
「……ニドは、もう行きたいの?」
そう声をかけると、ニドは小さく鳴いた。
たぶん、そういうことなのだろう。
カエデは思わず少しだけ笑って、階段を下りた。
ニビシティの町は、昼間より少し静かになっていた。
店先を片づけ始める人もいて、通りを歩く人の足取りもどこかゆっくりしている。
石畳に落ちる夕方の光が長く伸びて、町全体を落ち着かせていた。
カエデは二匹と一緒に、さっき通ってきた道をゆっくり歩く。
博物館へ向かう時は、どこか緊張していて、まわりをちゃんと見られていなかった。
でも今は少しだけ余裕があって、石造りの家の窓や、店先に並ぶ小さな鉱石の飾りまで目に入る。
道の端では、イシツブテが一日の終わりみたいに大きなあくびをしていた。
その近くを通り過ぎる時、ガーディが興味深そうに見て、ニドは少しだけ警戒するように耳を立てる。
「……大丈夫だよ。たぶん、もうお仕事終わりなんじゃないかな」
そう言うと、ニドは少しだけ不満そうに鼻を鳴らした。
まだ警戒心は強いけれど、それでも昨日よりずっと表情が分かるようになってきた気がする。
石の壁に夕日が当たっているのを見ながら、カエデはふと立ち止まった。
通りの先に、赤い屋根が見える。
ポケモンセンターだ。
その建物が見えただけで、胸の奥に小さく安堵が広がる。
マサラタウンにいた頃、自分にとって“戻れる場所”なんてほとんどなかった。
けれど旅に出てから、ポケモンセンターという場所だけは、町ごとにある休める場所として少しずつ形を持ち始めていた。
「……今日は、ちゃんと休もっか」
そう言うと、ガーディがすぐに鳴いて、ニドもあとに続く。
入口の自動ドアが開くと、外より少しひんやりした空気が頬に触れた。
明るい照明。清潔な床。どこか落ち着く消毒の匂い。
中に入った瞬間、今日一日の緊張が少しだけほどける。
受付にはジョーイが立っていた。
カエデたちに気づくと、やわらかく微笑む。
「おかえりなさい。見学はどうでしたか?」
その言葉に、カエデはほんの少しだけ目を見開いた。
おかえり。
そんなふうに言われることに、まだ慣れない。
でも嫌じゃない。むしろ、胸の奥のどこかがじんわりあたたかくなる。
「……すごかったです」
少し迷ってから、ちゃんと声に出す。
「博物館、思ってたより……ずっと」
ジョーイはうれしそうに頷いた。
「よかった。ニビシティの博物館は有名ですからね。たくさん歩きましたか?」
「……うん。たぶん、ちょっとだけ」
「それなら、ポケモンたちも休ませてあげた方がよさそうですね」
そう言われて、カエデはガーディとニドを見る。
二匹とも疲れた顔はしていないけれど、今日は森を抜けて、町を歩いて、博物館も回った。
自分よりずっと動いているはずだ。
「……お願いします」
モンスターボールを差し出そうとして、カエデの手が少し止まる。
ガーディは普段ボールの外にいることが多いから、預けるのに少しだけ躊躇いがあった。
けれどガーディは、そんなカエデを見上げて、短く鳴いた。
「……うん。すぐだからね」
そう言って、そっとボールへ戻す。
ニドのボールも並べて差し出すと、ジョーイは丁寧に受け取った。
「少しお時間いただきますね」
二つのボールが機械へ置かれていくのを、カエデはじっと見つめる。
赤いランプが点いて、静かな機械音が流れる。
こうして誰かに預けて、ちゃんと回復してもらえる場所があるということに、旅に出てから何度も助けられている気がした。
待っている間、カエデはロビーの端の席に腰を下ろした。
窓の外では、ニビシティの空がゆっくり夜へ近づいている。
石造りの町並みが夕闇に少しずつ溶けていくのを見ていると、今日一日のことが頭の中でゆっくりまとまっていった。
トキワの森を抜けたこと。
ニビシティに着いたこと。
博物館で、自分の知らないものをたくさん見たこと。
たった数日の旅なのに、マサラタウンで過ごした時間とは違う濃さがある。
昨日まで知らなかった景色を、今日の自分はもう知っている。
そのことが、少しだけ不思議で、でもうれしかった。
「……まだ、全然知らないことばっかりだな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
けれどその言葉は、前みたいな諦めの響きではなかった。
知らないなら、これから知っていけばいい。
旅に出た今なら、少しだけそう思える。
「お待たせしました」
ジョーイの声に、カエデははっとして顔を上げた。
差し出された二つのボールを受け取る。
どちらも、さっきより軽く感じる気がした。
「二匹とも元気ですよ」
「……ありがと」
「お部屋も用意してありますから、今日はゆっくり休んでくださいね」
やわらかくそう言われて、カエデは小さく頷く。
部屋は昨日のトキワシティのポケモンセンターと似ていたけれど、窓の外の景色は違っていた。
見えるのは石の壁と、少し遠くの山の影。
町が違えば、同じポケモンセンターでも空気が少し違うのだと分かる。
「……ただいま」
思わずそう零してから、自分で少しだけ驚く。
部屋に向けて言ったのか、戻ってきた二匹に向けて言ったのか、自分でもよく分からなかった。
ボールから出てきたガーディは、すぐにベッドのそばへ寄ってくる。
ニドは少し部屋を見回してから、安心したように床へ腰を下ろした。
カエデはしゃがみ込んで、まずガーディの頭を撫でた。
「……おつかれさま」
ガーディは気持ちよさそうに喉を鳴らす。
それからニドの前へ手を伸ばす。
「ニドも。今日はいっぱい歩いたもんね」
ニドは少しだけ照れたように耳を揺らしたけれど、逃げなかった。
そのままそっと頭を撫でると、少しだけ目を細める。
「……ふふ」
小さく笑う。
最初に会った時の、あの尖った警戒心を思えば、こうして撫でさせてくれることがまだ信じられないくらいだった。
少しして、食堂で簡単な夕食をとる。
カエデの前には温かいスープとパン。
ガーディとニドの前には、それぞれのポケモンフードが用意されていた。
「……今日は、いい日だったかも」
ぽつりとそう言うと、ガーディがすぐに鳴く。
ニドも、少し遅れて小さく声を返した。
マサラタウンにいた頃のカエデなら、“いい日”なんて言葉は、簡単に出てこなかった。
でも今日は、森を抜けて、新しい町に着いて、知らないものを見て、こうして二匹と温かい場所で休めている。
もちろん不安がなくなったわけじゃない。
明日のことも、その先のことも、まだよく分からない。
でも、それでも今日を“いい日”って思えたことが、カエデには少しだけ大事だった。
食後、部屋へ戻ると、窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
ニビシティの夜は静かで、でも冷たいわけじゃない。
石の町らしい落ち着いた静けさがあって、それがどこか心地よかった。
ベッドに腰を下ろして、カエデは今日受け取った案内の紙や、図鑑をそっと脇へ置く。
何度も使っているうちに、図鑑を置く場所が自然と決まってきていることに気づいて、小さく目を伏せた。
旅の中に、自分の動きができてきている。
それが少しだけ、ちゃんと生きている感じがした。
「……明日は、どうしよっか」
誰にともなくそう聞くと、ガーディがベッドのそばで丸くなりながら鳴いた。
ニドは床の上からじっとカエデを見上げている。
「……まだ、見てない場所もあるよね」
少し考えてから、カエデは続ける。
「ジムのことも……あるし」
口にしてみると、胸が少しだけざわつく。
ジム。
強いトレーナー。
バトル。
まだ自分には早い気もする。
けれど、旅に出た以上、いつかは向き合うものだとも分かっていた。
ガーディは真っ直ぐカエデを見ている。
ニドも、まだ小さい体で、でもしっかりとその場にいる。
一人じゃない。
そう思うだけで、不安の形が少し変わる。
「……今日はもう、休もっか」
そう言って布団へ手を伸ばす。
ガーディは当然みたいにベッドの近くへ寄ってきて、ニドも昨日より自然に、手の届く場所へ座った。
カエデは二匹を見て、そっと目を細める。
「……おやすみ」
短いその言葉に、二匹がそれぞれ小さく返してくれる。
石の町の夜は、静かに更けていく。
博物館で見た知らない世界のことを胸の中に残したまま、カエデはゆっくり目を閉じた。
今日はちゃんと休める。
そう思えることが、まだ少しだけ不思議で、でもあたたかかった。