ニビジムを出た時、外の空気は思っていたよりやわらかかった。
さっきまで張りつめていた胸の奥が、少しずつほどけていく。
けれど、完全に力が抜けるわけじゃない。
腕の中にはまだニドの小さな重みがあって、その体は戦いの熱を残したままだった。
「……もう少しだけ、がんばってね」
そっとそう声をかける。
ニドは疲れたように目を細めながらも、小さく鳴いた。
カエデはもう片方の手でガーディのボールを握る。
ガーディもかなり消耗していた。
イシツブテ相手に真正面から踏ん張ってくれたからこそ、最後にニドへ繋げられたのだと思うと、胸の奥がじんわり熱くなる。
グレーバッジは袋の中にしまった。
まだ何度も取り出して見たい気持ちはあったけれど、今は先にやることがある。
「……ポケモンセンター、行こっか」
返事をするみたいに、ニドがもう一度小さく鳴いた。
ニビシティの通りを歩く足は、来た時より少し浮ついていた。
勝ったという実感が遅れて追いついてきて、でもそれ以上に、二匹を早く休ませなきゃという気持ちの方が強い。
町の人たちの声も、石畳を踏む音も、どこか遠くに聞こえた。
ポケモンセンターへ駆け込むと、受付のジョーイがすぐに顔を上げた。
「あら、カエデさん」
それから腕の中のニドと、ぎゅっと握られたボールを見て、すぐに表情を変える。
「ジム戦、終わったんですね。すぐお預かりします」
「……お願いします」
それだけ言うので精一杯だった。
ジョーイはやさしく頷いて、ニドをそっと受け取る。
続いてガーディのボールも差し出すと、丁寧に両方を機械へ運んでくれた。
「かなり頑張ったみたいですね」
「……うん」
小さく頷く。
それから少しだけ間を置いて、カエデは続けた。
「……勝てたの。でも、ぎりぎりだった」
自分で口にしてみて、ようやく実感が湧く。
勝った。
ちゃんと、ジム戦に。
ジョーイはやわらかく笑った。
「ぎりぎりでも、勝ちは勝ちですよ」
その声は落ち着いていて、無理に持ち上げる感じがなかった。
「でも、そう思えるなら、まだまだ強くなれますね」
カエデは少しだけ目を瞬く。
そうなのかもしれない、と思った。
ロビーの端の席に座ると、一気に疲れが押し寄せてきた。
肩も足も重い。
戦ったのはガーディとニドなのに、見て、考えて、声を出していた自分もこんなに消耗するんだと、今さらみたいに思う。
袋から図鑑を取り出し、膝の上へ置く。
赤い表紙に指先が触れる。
「……勝ったんだよね」
誰に言うでもなく呟く。
図鑑は答えない。
でも、その無言の重さが今は少しだけ心地よかった。
しばらくして、ジョーイが二つのボールを持って戻ってきた。
「お待たせしました。二匹とも元気になりますよ」
「……ありがと」
ボールを受け取る手が、少しだけあたたかい。
部屋へ戻ってから、カエデはまず深く息を吐いた。
扉を閉める音がして、ようやく周りを気にしなくていい空間になる。
「……出ておいで」
ボールから現れたガーディは、少し疲れは残っているものの、さっきよりずっと元気そうだった。
ニドも同じで、着地したあと少しだけふらついたけれど、すぐに体勢を立て直した。
その姿を見た瞬間、胸の奥に張っていたものがようやくほどける。
「……よかったぁ」
思わず漏れた声は、いつもよりやわらかかった。
ガーディがすぐに寄ってきて、カエデの膝へ鼻先を押しつける。
ニドは少し遅れて近づいてきて、でも今日は逃げずにすぐ足元へ座った。
カエデはしゃがみ込んで、二匹を順番に撫でる。
「ガーディ、ありがとう。すごく頑張ってくれたね」
喉を鳴らす音が返ってくる。
「ニドも……ほんとにすごかった。最後、びっくりしたよ」
ニドは少しだけ得意そうに胸を張って、それから照れたみたいに顔をそらした。
その反応がかわいくて、カエデは小さく笑う。
「……でもね」
撫でる手を止めずに、ぽつりと続ける。
「反省もしないと」
その言葉に、二匹とも顔を上げる。
カエデはベッドの端に座り直して、図鑑を開いた。
画面に映るのは、ガーディとニドの登録データだった。
名前。
種類。
簡単な特徴。
これまで見てきた内容に加えて、今は自分の手持ちとして登録されている表示が少しだけ誇らしい。
まずはガーディのページを開く。
「……ひのこ、たいあたり、にらみつける」
読み上げてから、カエデは今日のバトルを思い返す。
イシツブテ戦。
真正面から受けたたいあたり。
ぎりぎりまで頑張ってくれた姿。
「ガーディはね、ちゃんと強いの」
そう言いながら、そっと頭を撫でる。
「でも……私、ちょっと焦ってたかも。もっと早く回り込ませればよかった」
ガーディはじっと聞いている。
責めているとは思っていないらしい。
ただ、カエデの声をちゃんと拾っている。
「真正面で受けるの、がんばってくれたけど……あれ、しんどかったよね」
小さく息を吐く。
「ごめんね」
するとガーディは、そんなの気にしていないみたいに短く鳴いて、逆にカエデの手に鼻先を擦り寄せた。
「……ふふ」
少しだけ目を細める。
「うん。でも次は、もっと上手くやる」
今度はニドのページを開く。
「たいあたり、にらみつける、つつく……」
そこまで読んでから、カエデははっとした。
表示の一番下に、増えた技がある。
「……にどげり」
声に出した瞬間、ニドの耳がぴくりと動く。
カエデは画面とニドを見比べた。
「ほんとに、増えてる」
思わず少しだけ目を丸くする。
「ジム戦の時に……覚えたんだ」
トキワの森で出会った時より、たしかに強くなっている。
いや、もともと持っていたものを、自分の意志で引き出せたのかもしれない。
カエデはそっと図鑑を抱えたまま、ニドの前へ手を伸ばす。
「すごいね、ニド」
そう言うと、ニドは照れたみたいに少しだけ視線をそらす。
「でも……」
カエデはやわらかく続けた。
「いわおとし、痛かったよね」
肩をかすめた時の光景が浮かぶ。
あのまま倒れていたらと思うと、今になって胸がひやりとした。
「私、もうちょっと早く離れさせるべきだった」
ぽつりとこぼす。
「見えてたはずなのに、遅かった」
二匹は何も言わない。
でも、黙って聞いてくれているだけで、ひとりで考え込むのとは全然違った。
カエデは図鑑を閉じて、ベッドに置く。
それから、二匹を見た。
「……でもね、ちゃんと成長してる」
その言葉は、反省のあとに自然と出てきた。
「ガーディはひのこ、すごく狙えるようになったし、動きも前より見えてる」
ガーディがしっぽを揺らす。
「ニドは、つつくだけじゃなくて、にどげりも使えるようになった。ちゃんと強くなってる」
言いながら、自分でも分かった。
これは二匹に向けた言葉だけじゃない。
たぶん、自分自身にも言っている。
旅に出る前のカエデは、何かを頑張っても、それを見てくれる人がほとんどいなかった。
できるようになったことがあっても、褒められる前に、気づかれる前に、飲み込んで終わることの方が多かった。
でも今は違う。
ガーディとニドの成長を、ちゃんと自分が見ている。
そしてその成長のそばには、自分も少しだけいる。
「……私も」
小さく呟く。
二匹がこっちを見る。
「ちょっとは、成長してるのかな」
答えはすぐには返らない。
でもその次の瞬間、ガーディがベッドへ前足をかけて顔を寄せてきた。
ニドも、足元からカエデの膝へ額をそっと押しつける。
「わ……っ」
二匹分の重みとぬくもり。
それが思ったよりまっすぐ胸に入ってきて、カエデは少しだけ困ったみたいに笑った。
「……それ、そういう意味?」
ガーディが喉を鳴らす。
ニドは照れたようにそのまま動かない。
カエデはゆっくり二匹を撫でた。
「……そっか」
胸の奥がじんわりあたたかい。
勝ったこともうれしい。
でもそれ以上に、自分たちで戦って、反省して、次を考えられることが、なんだか大事なことに思えた。
夕方、食堂で少し遅めの食事をとってから、また部屋へ戻る。
窓の外にはニビシティの落ち着いた夜が広がっていて、石の町らしい静けさが部屋の中まで染み込んでくるみたいだった。
カエデはベッドに座って、グレーバッジを取り出す。
灰色の小さなバッジが、部屋の灯りを受けて静かに光る。
「……勝ったんだね」
改めて口にしてみる。
けれど今度は、昼間みたいなふわふわした実感じゃなかった。
ちゃんと自分たちで取ったものなんだと、少しだけ胸を張れる感じだった。
バッジをしまって、図鑑をもう一度手に取る。
ガーディ。
ニド。
登録された自分の仲間たち。
「……次も、ちゃんと見ていくからね」
その言葉に、ガーディが小さく鳴く。
ニドも、少し遅れて短く返す。
カエデは二匹を見て、そっと笑った。
「今日はいっぱい頑張ったし……もう休もっか」
そう言って布団をめくる。
「明日から、また考えよう」
ガーディは慣れたように近くへ来て、ニドももう迷わず手の届く場所へ座った。
最初の頃より、その距離はずいぶん自然になっている。
カエデは灯りを落とし、横になる。
ポケモンセンターの静かな夜。
隣にはガーディとニドの気配。
その安心の中で、今日の反省も、うれしさも、少しずつ眠気の方へ溶けていく。
勝ったあとにも、ちゃんと次がある。
成長したところも、足りないところも、少しずつ見ていけばいい。
そう思えた夜だった。