朝、目を覚ました時、ニビシティの空はよく晴れていた。
窓の外には石造りの町並みと、その向こうに続く山の影が見える。
昨日までとは少し違う気持ちで、その景色を見ていた。
グレーバッジを取った。
ちゃんと、自分たちの力で。
その実感はまだ胸の奥に残っている。
でも、旅はそこで終わりじゃない。
次の町へ行くには、おつきみ山を越えなきゃいけないと、昨夜図鑑の地図でもう確認していた。
カエデはベッドの上で身を起こして、近くで眠っている二匹を見た。
ガーディは布団のそばで丸くなっていて、ニドは手の届く場所で静かに寝息を立てている。
「……起きよっか」
小さく声をかけると、ガーディの耳がぴくりと動いた。
少し遅れてニドも目を開ける。
「今日は、おつきみ山の方まで行こうと思うの」
そう言いながら、カエデは荷物袋を引き寄せた。
「ちゃんと準備してからね」
ポケモンセンターの食堂で朝食を済ませたあと、カエデはまずロビーの案内板の前へ向かった。
ニビシティの周辺地図には、おつきみ山までの道と、その先にハナダシティへ続くルートが描かれている。
「……ここから、そんなに遠くはないんだね」
でも、山に入るとなれば話は別だ。
森とは違う。
洞窟の中は暗いし、足場も悪いかもしれない。
野宿する場所も簡単には見つからないだろう。
カエデは指先で地図をなぞりながら、小さく息を吐いた。
「食べ物と、水……あと、明かりもいるかな」
ガーディが隣で案内板を見上げる。
ニドは足元で耳を動かした。
「……買いに行こっか」
ニビシティのフレンドリィショップは、朝のうちから人が出入りしていた。
旅の途中らしいトレーナーや、大きな荷物を持った人たちもいる。
カエデは少しだけ入り口で足を止めたけれど、ガーディが当然みたいに先へ進んだので、そのあとに続いた。
店の中には、見たことのあるキズぐすりやモンスターボールのほかに、携帯用のランタン、小さなロープ、保存のきく食料なんかも並んでいた。
カエデは財布代わりの布包みをぎゅっと握る。
使えるお金は多くない。
だから、何でも買うわけにはいかなかった。
「……キズぐすりは、いるよね」
ガーディとニドを見る。
昨日のジム戦を思えば、これは外せない。
「食べ物も……少し多めに」
それから棚を見上げる。
「明かりは……」
迷っていると、近くで品出しをしていた店員が声をかけてきた。
「おつきみ山へ行くのかい?」
急に話しかけられて、カエデは少しだけ肩を揺らした。
それでも、前みたいにすぐ目を逸らすことはしなかった。
「……うん」
「それなら、小さいランタンがあると安心だよ。洞窟の中は暗いし、分かれ道もあるからね」
「……そっか」
店員はそれ以上踏み込まず、棚の端にあった手のひらサイズのランタンを見せてくれた。
「これなら軽いし、旅の子でも持ちやすいよ」
カエデは値札を見て、少しだけ考える。
痛い出費ではある。
でも、暗い洞窟で迷う方がずっと困る。
「……これ、ください」
そう言って、キズぐすりを二つと、保存食を少し、それから小さなランタンを選んだ。
モンスターボールもひとつだけ追加する。
布包みの中身はだいぶ軽くなったけれど、必要なものは揃った気がした。
店を出てから、カエデは袋の中身をもう一度確かめる。
「……大丈夫かな」
ガーディが小さく鳴く。
ニドも、確認するみたいに袋へ鼻を寄せた。
「……うん。たぶん、前よりはちゃんとしてるよね」
旅に出たばかりの頃なら、こういう準備だって曖昧だったと思う。
何が必要で、何が足りないか。
少しずつだけど、分かるようになってきた。
ポケモンセンターへ戻って荷物をまとめ直す。
図鑑、ボール、食べ物、水、キズぐすり、ランタン。
古い布は畳んで一番下へ。
必要な物がすぐ取り出せるように順番も少し考える。
その様子を、ガーディとニドがじっと見ていた。
「……なに?」
聞くと、ガーディが少しだけ得意そうに鳴く。
ニドも小さく声を上げた。
「……ふふ。前よりちゃんとしてるって思った?」
そう言うと、ガーディはしっぽを揺らし、ニドは照れたみたいにそっぽを向いた。
昼前には、出発の支度が整った。
ポケモンセンターの受付で軽く頭を下げて外へ出ると、ニビシティの空はもう高く明るくなっている。
石の町を抜ける道の先に、おつきみ山の稜線が見えた。
灰色がかった大きな山。
遠くからでも、洞窟の口らしい黒い影がいくつか見える。
「……行こっか」
ガーディがすぐ隣へ並ぶ。
ニドも、今日は少しだけ前寄りの位置を歩いた。
町を離れていくにつれて、石造りの家並みは少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
代わりに道の脇には岩場が増えて、土の色も濃くなる。
草の匂いの中に、乾いた石の匂いが混じっていた。
途中、すれ違ったのは大きなリュックを背負った男の人だった。
ハイカーらしく、つるはしまで持っている。
「おつきみ山へ行くのかい?」
そう聞かれて、カエデは少し迷ったあと頷く。
「……うん」
「気をつけなよ。中は広いし、たまにロケット団みたいなのがうろついてるって話も聞くからな」
「……ロケット団?」
思わず聞き返すと、その人は曖昧に肩をすくめた。
「噂だけどね。化石だの月の石だのを狙ってる連中がいるとかなんとか。まあ、変なのを見かけたら近づかないことだ」
それだけ言って、男の人は手を振って去っていく。
カエデはしばらくその背中を見送ってから、山の方を見た。
「……ロケット団」
聞いたことのある名前だった。
マサラタウンにいた頃も、よくない噂として耳にしたことがある。
でも、まさかこんなところで聞くとは思わなかった。
ガーディがカエデの足に鼻先を寄せる。
ニドも、少しだけ警戒するように耳を立てている。
「……だいじょうぶ。会わない方がいいけど」
小さくそう言って、自分にも言い聞かせる。
「もし何かあっても、無理しないから」
道はだんだん上りになっていった。
石が多くて歩きにくい場所もある。
それでも、森を抜けてきた時より足取りは安定していた。
ガーディは前へ行きすぎないように気をつけながら歩き、ニドは小さな岩をよけるのが上手くなっている。
途中の岩陰で少し休んで、水を分け合う。
ガーディが先に飲んで、ニドもそのあとに続く。
「……山って、やっぱりちょっと違うね」
カエデがそう言うと、ガーディが辺りを見回した。
「森みたいに隠れる場所が多いわけじゃないし……音も、ひびく感じがする」
小さく声を出しただけでも、石に跳ね返って遠くへ届く気がした。
洞窟の中に入れば、きっともっとそうなのだろう。
もう少し歩くと、山はぐっと近くなった。
斜面の岩肌がはっきり見える。
足元の石も大きくなり、道の端にはハイカーが休憩したらしい跡や、小さな焚き火の跡も残っていた。
そして夕方が近づく頃。
「……あ」
カエデは足を止めた。
目の前に、おつきみ山のふもとが広がっていた。
大きな岩壁の前に、少し開けた場所がある。
その向こうには、洞窟の入口らしい暗い口がぽっかりと開いていた。
山の影が長く伸びていて、入口の中は昼間なのに夜みたいに暗い。
そこだけ別の世界みたいに見える。
ガーディが低く小さく鳴く。
ニドも、普段より慎重な足取りでカエデの近くまで寄ってきた。
「……着いたね」
口にした瞬間、旅がまたひとつ先へ進んだのだと分かった。
ニビシティまでは町から町へ歩いてきたけれど、ここから先は山の中だ。
また違う景色で、また違う危険がある。
それでも、怖さだけじゃなかった。
ちゃんと準備をして、ここまで来た。
そのことが少しだけカエデの背中を支えてくれる。
「今日は、ここで少し休んで……」
山の入口を見上げながら、カエデは続ける。
「明日、入ろっか」
ガーディが力強く鳴いた。
ニドも小さく、でも確かに声を返す。
カエデは二匹を見て、そっと目を細めた。
「……うん。一緒なら、たぶんだいじょうぶ」
夕方の風が、おつきみ山の岩肌をなぞるように吹いていく。
その冷たさの中で、カエデたちは山のふもとに立っていた。
次の景色は、もうすぐそこにあった。