朝のおつきみ山は、ふもとの時点でも空気が少し冷たかった。
夜のあいだに張っていた風は弱くなっていたけれど、岩肌の近くに立つと、山そのものがひんやりした息を吐いているみたいに感じる。
カエデは荷物袋の紐を持ち直して、洞窟の入口を見上げた。
昨日、遠くから見た時よりずっと大きい。
近くで見ると、ぽっかりと開いた暗がりは、口というより別の世界への穴みたいだった。
隣でガーディが低く鳴く。
ニドも、少しだけ耳を立てたまま入口を見ている。
「……行こっか」
小さくそう言って、カエデは袋からランタンを取り出した。
火を入れると、淡い光が丸く広がる。
明るすぎるわけじゃない。でも、真っ暗な中へ入るには十分だった。
洞窟の中へ一歩踏み込んだ瞬間、外の音がすっと遠くなった。
足元の砂利がかり、と鳴る。
壁はごつごつしていて、ところどころに白っぽい鉱石みたいなものが埋まっている。
頭上からは、ときどき水滴の落ちる音がしていた。
「……思ってたより、暗いね」
声に出すと、その言葉が少し遅れて返ってくる。
洞窟の中に響く自分の声に、カエデは少しだけ肩をすくめた。
ガーディはランタンの光の少し前を歩き、ニドは今日はいつもよりカエデの近くにいる。
二匹とも、警戒しているのが分かった。
「だいじょうぶ……たぶん、ゆっくり行けば」
自分にも言い聞かせるように呟く。
洞窟の中は、外から見たよりずっと複雑だった。
広い通路があるかと思えば、少し先で狭くなる。
岩の出っ張りや窪みも多く、気をつけて歩かないと足を取られそうになる。
途中でズバットの羽音が頭上を横切って、カエデは思わず身をすくめた。
「……っ」
ガーディがすぐに振り返る。
ニドも足元で小さく唸る。
「……だいじょうぶ。びっくりしただけ」
そう言って、二匹の頭を順番に撫でた。
こうして触れていると、自分の方が落ち着く。
少し進んだところで、岩壁の近くに小さな影が動いた。
サンドだ。
土に似た色の小さな体が、ランタンの明かりを見てすぐ岩陰へ隠れる。
別の場所にはパラスの姿も見えた。
「……ほんとに、いろんな子がいるんだね」
図鑑を開く余裕はまだない。
でも、知らないポケモンたちがこの暗い山の中でちゃんと暮らしているのだと思うと、不思議な感じがした。
やがて道はゆるやかに下り始めた。
通路の先に、少しだけ広い空間が見える。
そこだけ空気が違った。
水滴の音とも、ズバットの羽音とも違う、もっとかすかな気配がある。
カエデは自然と足を止めた。
「……何かいる」
ガーディが耳を立てる。
ニドも、息を潜めるみたいに小さく身を縮めた。
ランタンの火を手で少し隠しながら、そっと近づく。
広間の入口の岩陰からのぞき込んだ、その時だった。
「……っ」
思わず、声を飲み込む。
そこには、ピッピたちがいた。
淡い桃色の小さな体。
丸い耳と、くるんとした前髪。
何匹かのピッピが、広間の中央に集まっている。
その足元には、洞窟の天井の裂け目から落ちてきたみたいに、白い月明かりが細く差していた。
月明かりの中で、ピッピたちは静かに動いている。
遊んでいるようにも、踊っているようにも見えた。
声はほとんどないのに、その場所だけがやわらかく光っているみたいだった。
「……ピッピ」
カエデは息をするのも忘れそうになりながら、目の前の光景を見つめた。
博物館で見た月の石の展示が頭をよぎる。
おつきみ山には月の石があること。
ピッピと月が深く関わっていること。
文字で読んだだけだったそれが、今、目の前にある。
ガーディもじっと見ている。
ニドは警戒よりも驚きの方が強いらしく、耳をぴんと立てたまま動かない。
ピッピたちの中心、月明かりが一番落ちている場所に、小さな石があった。
淡く青白い光を帯びた、不思議な石。
ただの岩とは違うと、一目で分かる。
「……あれ、もしかして」
月の石。
口に出しかけて、カエデはまた飲み込む。
大きな声を出したら、この静かな景色が壊れてしまいそうだった。
ピッピたちはしばらくその石の周りを回るようにしていたけれど、やがて一匹が顔を上げた。
何かに気づいたみたいに、こちらではなく広間の奥を振り返る。
すると、他のピッピたちも次々に動きを止めた。
次の瞬間、足音がした。
人の気配。
カエデの背中がひやりと冷える。
すぐにガーディとニドを引き寄せ、岩陰へ身を潜めた。
広間の向こう側から現れたのは、黒い服を着た男女だった。
胸元には赤いRの字。
「月の石があるって話、本当じゃない」
女の声が響く。
「急いで回収しなさいよ」
「分かってるって」
男が面倒そうに返す。
「でも、ピッピがいるぞ」
ロケット団。
昨日、ふもとですれ違ったハイカーの言葉が、胸の奥で冷たく響いた。
カエデは息を殺す。
ガーディも低く唸りかけたけれど、すぐにその口元へ手を添えた。
「……だめ」
ほんのささやき声でそう言う。
今ここで出たら、どうなるか分からない。
二匹を守れる自信もない。
戦うべきじゃない。
広間では、ロケット団の気配に気づいたピッピたちが慌てて散っていた。
小さな足音がいくつも響き、月明かりの輪が崩れる。
一匹が石の近くで立ち止まり、迷うように振り返ったけれど、すぐに他の仲間を追うように闇へ消えていった。
その拍子に、月の石が弾かれるように転がった。
広間の端の岩陰まで、ごろりと転がって止まる。
ちょうど、カエデたちの隠れている場所の近くに。
「おい、そっち行ったぞ」
「逃がさないでよ!」
ロケット団の二人は広間の奥へ走っていく。
月の石そのものより、先にピッピを追ったらしかった。
足音が少し遠ざかる。
カエデはじっと動かなかった。
すぐには出ない。
戻ってくるかもしれない。
数秒。
それとも、もっと長かったのかもしれない。
洞窟の音だけが耳に残る中、ようやくロケット団の気配が完全に遠ざかった。
カエデはゆっくり息を吐く。
「……行った」
ガーディが小さく鳴いた。
ニドも、張っていた力を少しだけ抜く。
それから、カエデは足元に目を落とした。
岩陰のすぐそば。
ランタンの光の端で、その石は静かに光っていた。
さっき広間の中央で見た時より小さく見えるのに、手を伸ばすのをためらうくらい、不思議な存在感がある。
「……月の石」
そっとしゃがみ込む。
触れていいのか、少し迷った。
ピッピたちの大事なものだったのかもしれないと思うと、なおさら。
でも、このままここへ置いていけば、さっきのロケット団が戻ってきて持っていくかもしれない。
カエデは唇をきゅっと結んでから、静かに石を拾い上げた。
ひんやりしている。
なのに、奥の方にかすかなぬくもりがあるみたいだった。
月明かりを閉じ込めたような、不思議な石。
「……きれい」
思わず、そう零す。
ガーディがその手元をのぞき込み、ニドも興味深そうに鼻を寄せた。
二匹とも、ただの石じゃないと分かるらしい。
「これ……持ってた方が、いいよね」
誰に聞くでもなく呟く。
「ロケット団に取られるよりは、たぶん……」
その時だった。
広間の奥の暗がりから、小さな足音がした。
カエデが顔を上げる。
そこにいたのは、さっき最後まで石の近くに残っていたピッピだった。
逃げずに、じっとこちらを見ている。
警戒していないわけじゃない。
でも、怒っている感じとも違った。
カエデは動かない。
月の石を持ったまま、ただその子を見る。
「……ごめんね」
小さく、でもちゃんと聞こえる声で言う。
「取るつもりじゃなかったの。あの人たちが戻ってきたら、危ないと思って」
ピッピは何も言わない。
ただ、大きな瞳でカエデを見ていた。
やがて、ふわりと耳を揺らして、ほんの少しだけ首を傾げる。
それから。
小さく、一度だけ鳴いた。
怒った声じゃなかった。
かといって、懐いた声でもない。
でも、不思議と拒まれてはいない気がした。
カエデはそっと目を細める。
「……預かる、ってことでいいのかな」
ピッピはもう一度だけ鳴くと、くるりと向きを変えた。
そして今度こそ、広間の奥の暗がりへ消えていく。
見送ったあとも、カエデはしばらくその場から動けなかった。
「……今の」
胸の奥がまだ少し速く打っている。
「夢じゃないよね」
ガーディが短く鳴いて、カエデの手に鼻先を寄せる。
ニドも足元で小さく声を返した。
それで、ようやく現実に戻ってくる。
カエデは月の石を大事に布へ包み、荷物袋の奥へしまった。
落とさないように、壊さないように、何度も位置を確かめる。
「……先、行こっか」
洞窟の奥はまだ暗い。
ロケット団のことも気になる。
でも、ここに立ち止まり続けるわけにもいかなかった。
ランタンを持ち直して歩き出す。
ガーディはまた少し前へ。
ニドは今日はいつも以上に近い場所を歩いている。
洞窟の空気は相変わらず冷たいのに、カエデの胸の中には、さっき拾った石みたいな淡い熱が残っていた。
おつきみ山に入って、ピッピを見つけた。
月の石も拾った。
そして、ロケット団も本当にいた。
旅はまた、少しだけ知らない方へ進んでいる。
カエデは足元を確かめながら、暗い通路の先を見た。
「……まだ、何かありそうだね」
その呟きに、二匹が小さく返事をする。
月の山の奥で、三つの足音と一つの灯りが、静かに先へ進んでいった。