おつきみ山の中を進むほど、空気は少しずつ変わっていった。
入ったばかりの頃はひんやりして、どこまでも暗くて、音も遠く響いていたのに、今はその暗さの奥に、かすかな明るさが混じっている。
足元の岩も、さっきまでより乾いて見えた。
カエデはランタンを持つ手を少し上げて、前を見た。
「……出口、近いのかな」
小さくそう言うと、ガーディが前を向いたまま鳴いた。
ニドも耳をぴんと立てて、鼻先をわずかに動かす。
たぶん、二匹にも分かるのだろう。
外の空気が、ほんの少しだけ近づいてきていることが。
カエデは歩きながら、荷物袋の中に入れた布包みにそっと触れた。
その奥には、月の石がある。
さっき見たピッピたちの姿も、ロケット団の黒い服も、まだ胸の中へくっきり残っていた。
「……変な人たち、もういないといいね」
そう呟くと、ガーディが低く小さく鳴く。
ニドも警戒するようにあたりを見回した。
それからしばらくは、三人ともあまり声を出さずに進んだ。
ときどきズバットの羽音が頭上をよぎって、遠くの通路でサンドが岩陰へ隠れる気配がする。
でも、さっきみたいな人の足音は聞こえない。
分かれ道では立ち止まって、図鑑の簡単な地図を見た。
ランタンの明かりと図鑑の表示を見比べながら、カエデは小さく息を吐く。
「……たぶん、こっち」
そう言って右の通路を指さすと、ガーディがすぐ先へ進む。
ニドも少し迷ってから、そのあとをついてきた。
道はだんだん緩やかに上っていた。
そのせいか、足は少し重い。
けれど気持ちは、入った時よりずっと前を向いている。
洞窟の壁に埋まった鉱石が、ところどころ淡く光って見えた。
ランタンの火が揺れるたび、その光も小さく揺れる。
「……きれい」
思わずそう零すと、ガーディが振り返る。
ニドも、少しだけその場で立ち止まって壁を見た。
おつきみ山は暗いだけじゃない。
怖いだけでもない。
知らないものがあって、綺麗なものもあって、危ないこともある。
旅に出てから見てきたどの場所とも、また違っていた。
少し進んだところで、前方からかすかに風が吹いてきた。
冷たいけれど、洞窟の奥にこもった冷たさじゃない。
もっと外に近い、抜けるような風だった。
カエデは思わず顔を上げる。
「……外の風」
言葉にした瞬間、胸が少しだけ弾む。
ガーディもそれが分かったみたいに足取りを速めた。
ニドまで、今日は珍しく前に出ようとしている。
「ちょ、ちょっと待って」
カエデは思わず小さく笑いながらあとを追う。
「そんなに急がなくても、ちゃんと行くから」
でも自分の足も、気づけば少し速くなっていた。
通路の先がゆるやかに明るくなっていく。
ランタンの火がなくても、もう岩肌の形が見えるくらいだ。
やがて、最後の曲がり角を抜けた瞬間、目の前がふっと開けた。
「……っ」
思わず立ち止まる。
外だった。
おつきみ山の出口から差し込む光は、洞窟の中で想像していたよりずっと眩しくて、やわらかかった。
カエデは目を細めながら一歩ずつ進み、岩の影を抜ける。
その瞬間、頭の上に広い空があった。
高い青。
流れる白い雲。
山の岩肌をなでる風。
洞窟の中で丸く狭くなっていた胸の奥が、一気にほどけるみたいだった。
「……出た」
小さな声が、今度はどこにも反響せず、そのまま空へ消えていく。
ガーディは外へ出た途端に嬉しそうに鳴いて、草の上へ前足を乗せた。
ニドも少し遅れて出口を抜けると、安心したみたいに大きく息をつく。
カエデはしゃがみ込んで、まずガーディの頭を撫でた。
「……おつかれさま」
次にニドの方へ手を伸ばす。
「ニドも。ちゃんと歩いたね」
ニドは少し照れたみたいに耳を揺らしたけれど、今日はすぐには顔をそらさなかった。
そのまま額を手のひらへ軽く押しつけてくる。
「……ふふ」
小さく笑う。
山の中を抜けたあとのせいか、そのぬくもりがいつもよりはっきり伝わった。
おつきみ山の出口の前は、小さく開けた場所になっていた。
岩が多いけれど、洞窟の中よりずっと歩きやすい。
少し先には道が伸びていて、その向こうに緑と水色が混じる景色が見える。
カエデは立ち上がって、目を凝らした。
「……あれ」
遠くに、町が見える。
青みがかった屋根。
光を返す水辺。
山と違って、やわらかい色の多い景色。
「……ハナダシティ、かな」
ガーディが元気よく鳴いた。
ニドも、つられるみたいに小さく声を上げる。
まだ少し距離はある。
でも、おつきみ山を越えた先にある次の町が、ちゃんと目に見えている。
それだけで胸の奥がじんわりあたたかくなった。
マサラタウンを出た時は、次の町なんてただ地図の中の名前でしかなかった。
トキワの森を抜けた時も、ニビシティはまだ遠くに見えるだけだった。
でも今は違う。
自分の足で、山を抜けて、その先の町を見ている。
カエデは荷物袋の紐を握り直した。
その重みの中には、図鑑も、ボールも、買った道具も、月の石も入っている。
旅に出たばかりの時より、少しだけ荷物は増えた。
でもそれは、ちゃんと進んできた証みたいに思えた。
「……もう少しだね」
そう言って二匹を見る。
ガーディはすぐに足元へ寄ってきて、ニドも少しだけ前へ出た。
「今日は、町まで行けるかな」
自分に言うみたいに続ける。
「行けたら……ポケモンセンターで休んで、それから……」
そこまで言って、少しだけ考える。
ハナダシティには、また新しい景色があるのだろう。
新しい人も、ポケモンも、たぶん待っている。
不安がないわけじゃない。
けれど、山を越えた今は、それ以上に先を見たい気持ちの方が強かった。
道を歩き出すと、さっきまでの洞窟の冷たさはもう後ろへ遠ざかっていく。
風はやわらかく、陽射しもあたたかい。
道の脇には草が揺れていて、ところどころに小さな花まで咲いていた。
「……明るいね」
ぽつりとそう言うと、ガーディが楽しそうに鳴く。
ニドも周りを見ながら、少しだけ足取りを軽くした。
おつきみ山の中では、ずっとランタンの光だけを頼りにしていた。
だからこそ、この昼の光が余計に眩しく感じる。
広い空の下を歩けることが、こんなに気持ちいいなんて思わなかった。
しばらく進むと、道の途中に大きな岩がいくつか並んでいて、その向こうに水のきらめきがはっきり見えてきた。
ハナダシティは本当にもう近いのだと分かる。
カエデは立ち止まって、もう一度町の方を見た。
「……行こっか」
小さな声だったけれど、今までよりずっと迷いがなかった。
ガーディがその声に応えるように鳴く。
ニドも、少し遅れて力強く声を返す。
おつきみ山はもう後ろにある。
暗い洞窟も、ピッピたちも、月の石も、全部ちゃんと抱えたまま、それでもカエデは前へ進いていく。
ハナダシティまでは、もう少しだった。