おつきみ山を越えてからしばらく歩くと、道の先に見えていた青い町は、少しずつ輪郭をはっきりさせていった。
きらきら光る水路。
白っぽい橋。
明るい色の屋根。
ニビシティの石の町並みとはまるで違う、やわらかくて涼しげな景色だった。
「……ほんとに、水の町なんだね」
小さくそう言うと、ガーディが隣で鳴く。
ニドも耳を動かしながら、流れる水の音のする方を見た。
ハナダシティに近づくほど、風まで少し湿り気を帯びていく。
山の乾いた空気とは違って、頬を撫でる風がやさしい。
町へ入ると、まず耳に届いたのは水の音だった。
細い水路が通りの脇を流れていて、橋を渡るたびにきらりと光が揺れる。
道を歩く人たちの足音まで、どこか軽く聞こえた。
カエデは思わず立ち止まって、あたりを見回す。
「……きれい」
ほんの少しだけ声が弾む。
ガーディも楽しそうに歩幅を広げて、水路のそばへ寄ろうとする。
ニドは逆に、見慣れない水辺に少しだけ慎重だった。
「お前は気になるんだね」
そう言ってガーディを撫でてから、ニドの方へも手を伸ばす。
「ニドは……ちょっと苦手?」
ニドは少しだけ顔をそらした。
その反応が分かりやすくて、カエデは小さく笑う。
山を越えた疲れは、ちゃんと体に残っていた。
足は少し重いし、肩にかけた荷物も今日はいつも以上に存在感がある。
だから、町に着いて最初に向かう場所は決まっていた。
「……ポケモンセンター、探そっか」
少し歩くと、赤い屋根が見えた。
見慣れたマークが掲げられていて、それだけで胸の奥に小さな安心が広がる。
入口をくぐると、外の涼しい空気とはまた違う、落ち着いた温度が迎えてくれた。
清潔な床、やわらかい明かり、静かな機械音。
旅に出てから、ポケモンセンターの空気をこんなふうにほっとするものだと思うようになるなんて、前の自分なら想像もしなかった。
受付のジョーイが顔を上げる。
ハナダシティのジョーイは、ニビシティのジョーイより少し柔らかい声をしていた。
「いらっしゃいませ。ポケモンセンターへようこそ」
その笑顔に、カエデは少しだけ肩の力を抜く。
「……お願いします」
そう言って、ガーディとニドのボールを差し出す。
「おつきみ山を越えてきたの」
ジョーイは少し目を丸くしたあと、すぐにやさしく微笑んだ。
「それは大変でしたね。二匹とも、しっかり休ませてあげます」
「……うん」
ボールを預ける間、カエデはロビーの端にある椅子へ腰を下ろした。
窓の外には、夕方の光を映した水路が見える。
流れる水は止まらないのに、見ていると心は少しずつ静かになっていく気がした。
おつきみ山の暗さ。
ピッピたちのこと。
ロケット団のこと。
それから、出口の先で見たこの町。
頭の中にはいろんなものが残っているのに、ここへ着いたというだけで、ひとまず今日は大丈夫だと思えた。
「お待たせしました」
ジョーイの声に顔を上げる。
差し出された二つのボールを受け取ると、ほっと胸を撫で下ろした。
「二匹とも元気ですよ」
「……よかった」
その一言が、自然に出る。
部屋を案内されて、カエデは荷物を下ろした。
窓の外からは、遠くで水の音がしている。
ニビシティの夜が石の静けさなら、ハナダシティの夜は水の静けさなのかもしれないと思った。
「……出ておいで」
ガーディはボールから出るなり、部屋の中をひと回りしてからカエデの足元へ戻ってくる。
ニドは少し慎重にあたりを見てから、ようやく落ち着いたように床へ座った。
カエデはしゃがみ込んで、二匹を順番に撫でる。
「……おつかれさま」
ガーディは喉を鳴らし、ニドは少しだけ目を細めた。
「山、ちゃんと越えられたね」
そう言って笑うと、ガーディが得意そうに胸を張る。
ニドも、負けじと少しだけ姿勢を正した。
少し休んでから、食堂で温かい食事をとる。
今日のスープはニビシティのものより少しあっさりしていて、どこか水の町らしいやさしい味がした。
ガーディもニドも、用意されたごはんを静かに食べている。
その様子を見ながら、カエデはふと顔を上げた。
受付の方を見る。
ジョーイはまだ忙しそうではなかった。
「……聞いてみよっか」
食事を終えたあと、カエデは二匹を連れて受付へ戻った。
少しだけ緊張したけれど、ジョーイはすぐに気づいてくれた。
「どうしました?」
「……あの」
カエデは少し迷ってから続ける。
「ハナダジムのこと、知りたいの」
ジョーイは目を瞬いて、それからすぐに頷いた。
「ハナダジムですね。挑戦を考えているんですか?」
「……まだ、すぐじゃないけど」
小さく答える。
「知っておきたくて」
その言い方が気に入ったのか、ジョーイはやわらかく笑った。
「そうですね。ハナダジムは水タイプのポケモンを使うジムです」
「……水」
思わずニドの方を見る。
ニドは少しだけ耳を動かした。
ジョーイは続ける。
「この町では有名な姉妹がいて、ジムもその人たちに関わりが深いんです。見た目は華やかですけど、水中や水辺での戦いに慣れていないと、思ったより難しいですよ」
「……そっか」
水タイプ。
それだけでも、今までとは全然違う。
ニビジムは岩の町で、岩タイプの相手だった。
でも今度は、水。
足場も、動き方も、たぶん変わってくる。
「水のポケモンは動きがやわらかいですし、距離の取り方も独特です」
ジョーイは二匹を見て、少しだけ考えるように言った。
「ガーディちゃんは火を使う子ですから、相性だけ見ると少し厳しいかもしれませんね」
ガーディがその言葉に反応するように顔を上げる。
カエデは慌てて頭を撫でた。
「……でも、お前が弱いって意味じゃないからね」
小さくそう言うと、ガーディは少しだけ落ち着いたように喉を鳴らした。
ジョーイはそのやり取りを見て、やさしく続ける。
「相性は大事ですけど、それが全部じゃありません。でも、知っておくと準備はしやすいですよ」
「……準備」
「ええ。水辺での動きに慣れておくとか、相手の速さにどう対応するか考えておくとか」
カエデはその言葉を胸の中で繰り返す。
準備。
それは、自分が少しずつできるようになってきたことでもあった。
「……ありがとう」
そう言うと、ジョーイはにっこり笑った。
「焦らなくて大丈夫ですよ。ハナダジムは逃げませんから」
その一言が、思っていたより胸にやさしく落ちた。
「町を見て回るのもいいですし、水辺でポケモンたちと少し遊んでみるのもいいかもしれませんね」
水辺で。
その言葉に、カエデはもう一度二匹を見る。
ガーディは興味ありそうにしていて、ニドは少しだけ複雑そうな顔をしていた。
「……ふふ」
思わず笑ってしまう。
「ニドは、ちょっと嫌そう」
ジョーイもくすっと笑った。
「無理はさせないであげてくださいね」
「……うん」
部屋へ戻る道すがら、カエデはさっき聞いたことを頭の中で整理していた。
水タイプ。
姉妹のジム。
華やかだけど難しい場所。
準備が必要。
「……すぐには無理かも」
ぽつりとそう言うと、ガーディが顔を上げた。
ニドも、歩きながら耳を動かす。
「でも、ちゃんと知れたのはよかった」
部屋へ戻って、ベッドに腰を下ろす。
窓の外には、夜の水路が細く光っていた。
流れる水は静かなのに、町はどこか明るい。
カエデは図鑑を取り出して、そっと開く。
水タイプの簡単な説明を見つけて、少しだけ目で追った。
今夜全部を覚えられるわけじゃない。
でも、こうして知ろうと思えることが、前より少し変わった証みたいに感じる。
「……ハナダジム、か」
言葉にすると、胸の奥が少しだけざわつく。
怖さもある。
でも、それだけじゃない。
ニビジムの前に感じたのと似ているけれど、少し違う。
今度は最初から、何も知らないままじゃない。
「……明日、少し見てみよっか」
そう呟くと、ガーディがすぐに鳴く。
ニドは少し遅れて、小さく声を返した。
カエデは二匹を見て、そっと笑った。
「今日はもう休も」
そう言って布団を整える。
「ハナダシティのこと、明日からちゃんと見ようね」
水の町の夜は、山を越えたあとの疲れをやさしく包むみたいに静かだった。
ジョーイに教えてもらった新しい目標を胸のどこかに置いたまま、カエデは二匹の気配の中でゆっくり目を閉じた。