研究所へ向かう道は、朝の光に満ちていた。
マサラタウンの中心へ近づくほど、人の声が増えていく。
笑い声。
弾んだ足音。
子どもを送り出す大人たちの、少し誇らしげな声。
カエデはそのどれにも混ざらず、道の端を歩いた。
隣ではガーディが静かに足を運んでいる。時折こちらを見上げてくる視線に、カエデは小さく息を吐いた。
「……平気」
言い聞かせるように呟く。
自分に向けた言葉でもあった。
研究所の白い屋根が見えてくる。
庭先には何人もの人影が集まっていた。年の近い子どもたちが目を輝かせ、その後ろに親や兄姉らしい大人たちが立っている。どの顔も明るい。今日は祝われる日なのだと、遠くからでも分かった。
カエデは足を止めた。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
自分も十二歳になった。
旅に出る年齢だ。
それなのに、自分の隣には送り出してくれる家族もいなければ、背中を押してくれる声もない。
いるのは、ガーディだけだ。
カエデはしゃがみ込み、その頭をひと撫でした。
「……行くぞ」
ガーディは短く鳴いて、立ち上がった。
研究所の前へ出た瞬間、何人かの視線がこちらに向いた。
ひそひそと声が動く。
あの子……。
まだ町にいたんだ。
なんで来たの。
耳に入っても、カエデは何も言わない。
言い返したところで、何かが変わるわけではないと知っている。
そのまま建物の脇を通って、中へ入ろうとしたところで、後ろからかすかな声が飛んだ。
「外にポケモン連れてきてる」
「色、違わない?」
ガーディの歩みがわずかに止まる。
カエデは何も言わず、その首元に手を添えた。
「気にしなくていい」
低く言うと、ガーディはすぐにまた歩き出した。
研究所の中は外より少しひんやりしていた。
機械の音と、ポケモンたちの気配。薬品と木の床の匂い。
カエデはここが嫌いではなかった。むしろ、町の中で数少ない、嫌いになりきれない場所だった。
受付の前にいた助手がカエデに気づき、一瞬だけ目を見開いた。
それから困ったように視線を泳がせる。
「えっと……今日は、その……」
御三家なら、もうない。
そう言いたいのだろう。
カエデは頷いた。
「分かってる」
それだけ返すと、助手はますます言葉を失った。
ちょうどその時、研究室の奥から杖をつく音もなく、ゆっくりした足取りが近づいてきた。
「来たか、カエデ」
オーキド博士だった。
白衣姿のまま、まっすぐこちらを見る。
その目には驚きも、困惑もなかった。最初から来ると分かっていたような顔だった。
カエデは博士を見上げる。
何を言うべきか分からず、口を閉ざしたままになる。
博士は助手へ軽く手を振った。
「ここはわしが話す。下がっておいてくれ」
助手が離れていくのを見送ってから、博士はカエデの足元へ目をやった。
ガーディと視線が合う。
「お前さんも、一緒に来たんじゃな」
ガーディは警戒するように耳を立てたが、唸りはしなかった。
博士は少しだけ目を細める。
「……ずいぶん前から、森で見かけとったよ」
カエデの指先がぴくりと動いた。
知っていたのか。
そう思うと同時に、胸の奥に刺さるものがある。
知っていたのに。
それなのに。
博士はそれ以上何も言わず、奥の部屋へ入るよう促した。
研究所の表の部屋とは違い、そちらは少し静かだった。壁際に本棚が並び、机の上にはいくつかの資料と機械、そして見慣れた赤い図鑑が置かれている。
その隣には、新しいモンスターボールがいくつか整えてあった。
カエデは机を見て、目を細めた。
御三家はいない。
当然だと思った。
けれど、胸のどこかでほんの少しだけ期待していたのかもしれない。そう気づいてしまって、カエデは唇を結ぶ。
博士は机の前に立ち、ゆっくり口を開いた。
「今日、旅に出るつもりなんじゃろう」
「……うん」
「そうか」
たったそれだけのやり取りなのに、喉が少し苦しかった。
人と話す時の癖で、必要以上の言葉が出てこない。
博士は赤い図鑑を手に取り、カエデの前へ差し出した。
「ポケモン図鑑じゃ。旅先で出会ったポケモンを知る助けになる。お前さんにも必要じゃろう」
続いて、ボールを三つ置く。
「それから、モンスターボール」
カエデは受け取らないまま、じっとそれを見た。
「……御三家は」
言いかけて、声が止まる。
欲しかったわけじゃない、と自分に言い聞かせていた。
ガーディがいる。
それで十分だと、ずっと思っていた。
それでも、口に出してしまえば痛みはあった。
博士は黙ってカエデを見た。
そして、静かな声で言う。
「お前さんには、もう相棒がおるじゃろう」
カエデの肩がわずかに揺れた。
足元のガーディが、こちらを見上げている。
「……でも」
「御三家を受け取ったから旅が始まるわけではない」
博士は穏やかに続けた。
「誰かに与えられた一匹だけが、最初のポケモンではない。共に歩くと決めたなら、それが相棒じゃ」
カエデは視線を落とした。
そう言ってもらえるとは思っていなかった。
誰かに認められるとも、思っていなかった。
胸の奥が、熱いような、痛いような、変な感覚でいっぱいになる。
でも同時に、ずっと押し込めていた言葉がこぼれそうになった。
「……知ってたなら」
声はひどく小さかった。
それでも博士は聞き返さなかった。
「知ってたなら、どうして……」
どうして助けてくれなかった。
どうして十歳の時、あの家から追い出された時に、ここへ呼んでくれなかった。
どうして今さら、そんなふうに認めるんだ。
最後まで言葉にはならなかった。
けれど、博士はゆっくり目を伏せた。
「……すまんかった」
その一言は、あまりにもまっすぐだった。
言い訳をされると思っていた。
仕方がなかったと、町の事情を並べられると思っていた。
なのに博士は、ただそれだけを言った。
「お前さんがつらい思いをしとることは知っておった。手を出すべき時も、きっとあった」
博士の声は低く、静かだった。
「それでもわしは、踏み込みきれんかった。研究所の外のことに、どこまで関わるべきかと迷っておるうちに、お前さんを一人にしてしまった」
カエデは顔を上げない。
上げたら、何かが崩れそうだった。
「……今さらだ」
「そうじゃな」
博士は否定しなかった。
「今さらじゃ。じゃが、それでも今日、お前さんが旅立つと言うのなら、何も渡さず送り出すことだけはしたくなかった」
部屋が静かになる。
機械の小さな作動音だけが響いていた。
やがて、ガーディがカエデの膝に鼻先を押しつけた。
はっとして目をやると、心配そうな瞳と目が合う。
そのぬくもりに、カエデはゆっくりしゃがみ込んだ。
ガーディの首に手を回し、硬くなっていた指先に少しずつ力を戻す。
「……ごめん」
謝ると、ガーディは短く鳴いた。
博士はその様子を見て、小さく息をついた。
「やはり、お前さんの相棒はその子じゃな」
カエデは顔を上げた。
涙は出ていない。ただ、目の奥が熱かった。
「……うん」
今度は、はっきり言えた。
博士は頷き、図鑑とボールをもう一度差し出す。
「持っていくといい。旅は長い。カントーは広い。マサラタウンの外には、お前さんの知らん景色がいくらでもある」
少し間を置いてから、博士は続けた。
「それから……帰る場所が必要になった時は、研究所へ来なさい」
カエデは息を呑んだ。
その言葉を、信じていいのかはまだ分からない。
簡単に頷けるほど、心は開いていない。
それでも。
それでも、その一言は確かに胸に残った。
カエデはそっと図鑑を受け取る。
続いて、ボールも掌に収めた。
新品の重さが、思っていたよりずっと現実味を持って手に残る。
旅に出られる。
本当に。
「……ありがとう」
かすれた声だった。
人に向けてその言葉を言うのは、ひどく久しぶりな気がした。
博士は少しだけ目元を和らげる。
「うむ。気をつけて行くんじゃぞ、カエデ」
ガーディが立ち上がり、カエデの隣に並ぶ。
カエデも立ち上がった。
部屋を出る前に、一度だけ振り返る。
オーキド博士は何も言わず、ただ静かに見送っていた。
研究所の扉を開けると、外の光がまぶしかった。
町のざわめきはまだそこにある。
視線も、噂も、きっと消えない。
それでも、さっきまでとは違っていた。
脇に図鑑を抱え、ボールをしまい、カエデは隣のガーディを見る。
ガーディはまっすぐ前を向いていた。
カエデも同じように顔を上げる。
誰にも祝われない朝だった。
けれどもう、立ち止まる理由はない。
「……行こう、ガーディ」
低く、けれど今までで一番迷いのない声でそう言うと、
ガーディは力強く鳴いた。