朝食を済ませてポケモンセンターを出ると、ハナダシティの朝はもうすっかり動き始めていた。
橋を渡る人の足音。
水路に差し込む光。
水辺で遊ぶポケモンたちの声。
ニビシティの落ち着いた石の空気とは違って、この町はもっと明るくて、どこか軽やかだった。
図鑑の地図を見ながら町の中心の方へ進むと、やがて人通りの向こうに、ひときわ目立つ建物が見えてきた。
「……あれ、かな」
カエデは足を止める。
それは、ジムというより本当に水族館みたいな建物だった。
建物の正面には大きなガラスが使われていて、陽の光を受けて水面みたいに青くきらめいている。
外から見える中の壁も明るくて、水色や白が多く、橋や水槽みたいなものまで見えた。
入口の近くには、ショーの案内みたいな看板も立っている。
ただ強さを試すための場所というより、人に見せるための華やかさが最初からそこにあった。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
ニビジムを見た時は、岩の重さに圧倒された。
でも、ハナダジムは違う。
やわらかくて綺麗なのに、それが逆に掴みにくくて、どんな戦いになるのか想像しづらかった。
ガーディは興味津々みたいに建物を見上げている。
ニドは少しだけ警戒した顔で、カエデの足元に近い場所からじっと見ていた。
「……中、少し見えるね」
入口の近くまで行くと、ガラス越しに中の様子が少しだけ見えた。
大きな水槽。
水の張られたステージみたいな場所。
水面に光が反射して、天井や壁に揺れている。
その奥では、誰かがポケモンと一緒に動いているのが見えた。
バトルというより、ショーの練習みたいな動きだった。
水の上をなめらかに滑るように動くポケモンたち。
それに合わせるみたいに、人の姿も揺れる。
「……ほんとに、ショーみたい」
ジョーイの話を思い出す。
華やかだけど、思っているより難しい。
たしかに、ただ陸の上で向かい合うだけのジムじゃなさそうだった。
「お水の中で動く相手……速そうだよね」
そう呟くと、ガーディが小さく鳴く。
ニドは少しだけ耳を伏せた。
カエデは二匹を見て、そっと頷く。
「……やっぱり、先に慣れた方がいいね」
そう言って少し笑う。
「河川敷、行こっか」
ガーディはすぐに元気よく鳴いた。
ニドは分かりやすく嫌そうな顔をする。
「そんな顔しないで」
しゃがみ込んで、そっと頭を撫でる。
「いきなり深いところには入らないから。今日は、ほんとにちょっとだけ」
ニドはまだ納得していない顔だったけれど、逃げずにそのまま撫でられていた。
町の外れに近い河川敷は、朝の光をたっぷり受けて明るかった。
水は浅いところでは透き通っていて、石の形まで見える。
流れもそこまで強くない。
練習するなら、たしかにここがちょうどよさそうだった。
「……ここなら、だいじょうぶかな」
カエデは人の少ない場所を選んで立ち止まる。
ガーディはもう水辺に興味を引かれていて、前足で地面を掻きながら川の方を見ていた。
ニドは反対に、カエデの足元からあまり離れない。
「じゃあ、まずは」
カエデは河原の平たい石をひとつ拾って、水際の少し手前へ置いた。
「ここまで、来てみよっか」
そう言って、自分が先に水辺まで歩く。
ガーディは素直についてきた。
ニドは少し離れた場所で止まったまま、じっとこちらを見ている。
「ニド」
呼ぶと、耳がぴくりと動く。
「そこまでじゃなくて、もう少しだけ」
優しく言う。
「まだ水に入らなくていいから。近くまで来るだけ」
ニドはしばらく迷っていたけれど、カエデがその場で待っていると分かると、少しずつ歩いてきた。
一歩、また一歩。
最後は水際の少し手前で止まる。
「……うん。えらい」
その言葉に、ニドは少しだけ胸を張った。
でも、前足をこれ以上進めるつもりはないらしい。
「……ここが限界?」
そう聞くと、そっぽを向く。
カエデは思わず小さく笑った。
その横で、ガーディはもう少し先まで行って、水面に映る自分の影を不思議そうに見ていた。
前足でちょんと水を触って、跳ねた雫に目を丸くする。
「お前はほんとに平気なんだね」
そう言うと、ガーディが得意そうに鳴く。
それからしばらく、三人で水辺の練習をした。
ガーディには、浅いところの石の上を飛び移るように歩かせる。
滑りやすい場所。
水の近くで急に止まる感覚。
濡れた地面での踏ん張り方。
「そこ、気をつけて」
「ガーディ、いったん止まって」
「……うん、上手」
ガーディは最初こそ慎重だったけれど、すぐに慣れたらしく、浅瀬のきわを走るみたいに動き始めた。
水しぶきが上がって、陽射しの中で小さく光る。
「わ……っ」
思わず声が出る。
「お前、楽しそうだね」
ガーディは振り返って、嬉しそうに鳴いた。
そのままカエデの方へ戻ってきて、少し濡れた前足でじゃれるみたいに寄ってくる。
「ちょ、ちょっと……服、濡れるって」
言いながらも、声は困るよりずっと楽しそうだった。
一方、ニドは岸辺ぎりぎりの練習だった。
濡れた石に前足を乗せる。
すぐに戻る。
また少しして、今度はもう少し長くそのままでいる。
水が跳ねるたびにびくっとしていたけれど、それでも完全には逃げなかった。
「……すごいよ、ニド」
少し離れた場所から声をかける。
「ちゃんと昨日より近づけてる」
ニドは疲れたように小さく鳴いた。
でも、嫌になって全部やめる顔ではない。
それがカエデにはうれしかった。
「今日はこれくらいでいいかな」
休憩しながらそう言うと、ガーディはまだ動けそうにしていたけれど、ニドは明らかにほっとした顔をした。
河原の草の上で水を分けながら、カエデはぼんやりと川の流れを見た。
「……やっぱり、来てよかったかも」
ジムの外から見た水のステージ。
実際の水辺の感触。
足場の滑りやすさ。
全部、頭で考えるだけじゃ分からなかったことだ。
休憩を終えて、少しだけ河川敷を歩くことにした。
すぐに町へ戻るのも早い気がしたし、水辺の空気にもう少し慣れておきたかった。
川沿いの草は膝の下くらいまで伸びていて、風が吹くたびにさわさわ揺れる。
水の音は変わらず静かで、どこか気持ちを落ち着かせる。
ガーディは相変わらず楽しそうに前を歩き、ニドは少しだけ水から距離を取って草むら側を選んでいた。
カエデはその真ん中を歩きながら、空を見上げる。
「……明るいね」
ハナダシティは、水も空も明るい。
そう思った、その時だった。
がさっ、と草むらの向こうで大きな音がした。
カエデはすぐに足を止める。
ガーディが耳を立て、ニドは低く小さく唸った。
もう一度、草が揺れる。
それに混じって、かすれた鳴き声みたいなものが聞こえた。
「……何かいる」
小さくそう呟いて、二匹と目を合わせる。
無理に飛び込むべきかは分からない。
でも、今の声はただの物音じゃなかった。
「……ちょっとだけ、見てみよ」
草をかき分けるようにして、慎重に近づく。
ガーディは一歩前。
ニドはカエデのすぐ横。
三人で気配を殺すみたいに進んでいく。
そして、草むらの向こうが少し開けた場所へ出た瞬間。
「……っ」
カエデは目を見開いた。
そこでは、野生のポケモンたちが一匹を囲むようにして威嚇していた。
中心にいるのは、ゼニガメだった。
青い小さな体。
丸い甲羅。
でも、その体は泥で汚れていて、片方の腕には擦り傷みたいな赤い跡がある。
息も荒くて、立っているのがやっとみたいだった。
その周りには、コラッタが二匹。
食べ物でも奪おうとしているのか、それとも弱っている相手を追い立てているのか、低く唸りながらじりじり距離を詰めている。
ゼニガメは震える足で踏ん張っていた。
水タイプのはずなのに、川へ逃げるでもなく、その場で背中を丸めるようにして威嚇している。
でも、動きが鈍い。
明らかに弱っていた。
「……あの子」
思わず、声が漏れそうになる。
その時、風に乗って何かが見えた。
ゼニガメの首元。
そこに、古びた赤い布切れみたいなものが引っかかっている。
よく見ると、ただの布じゃない。
首輪か、リボンか、何かの跡みたいだった。
擦り切れて汚れていて、端の方には千切れた金具までついている。
カエデの胸が、ひやりと冷える。
野生のポケモンなら、あんなものをつけているはずがない。
それに、ゼニガメの体つきもどこか不自然だった。
痩せているのに、甲羅や肌はもともと手入れされていたみたいに整っている。
野生で長く暮らしてきた子じゃない。
最近まで、人のそばにいた子だ。
「……捨てられたの」
小さく呟いた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛くなった。
どうして、そんなことが分かったのか、自分でも説明はできない。
でも、そのゼニガメの怯え方と、踏ん張り方と、首元の跡を見たら、そうとしか思えなかった。
ガーディが低く唸る。
ニドも、小さい体をきゅっと固めて前へ出ようとしていた。
その時、コラッタの一匹が飛びかかる。
ゼニガメは遅れて腕を出したけれど、勢いを受け切れずに地面へ膝をついた。
「……っ」
カエデの足が、考えるより先に前へ出かける。
草むらの影の中で、ゼニガメはもう一度立ち上がろうとしていた。
誰も助けてくれないのが当たり前みたいに、それでも一匹で踏ん張っている。
その姿が、どうしても目を離せなかった。