カエデの足が、考えるより先に前へ出た。
「ガーディ!」
呼んだ瞬間、ガーディが地面を蹴る。
草むらを飛び出して、コラッタとゼニガメの間へ割って入った。
「グルルッ!」
低い唸り声に、コラッタたちが一瞬ひるむ。
でも、すぐに歯を剥いて威嚇し返してきた。
「ニド、右!」
ニドもためらわずに飛び出した。
小さな体で回り込むように動いて、コラッタの一匹の前へ立つ。
相手の気を逸らすように、鋭く睨みつけた。
「ガーディ、にらみつける!」
ガーディの視線がもう一匹を射抜く。
二匹のコラッタは明らかに警戒していた。
さっきまで相手にしていたのは、弱ったゼニガメ一匹だけだったのだろう。
状況が変わったと分かった途端、前へ出る勢いが鈍る。
「そのまま、近づきすぎないで」
カエデはゼニガメの方へ駆け寄りながら、二匹へ声をかける。
コラッタを倒すことより、今はゼニガメを守る方が先だ。
ゼニガメは膝をついたまま、荒い息でこちらを見上げていた。
警戒と怯えと、でもどうしていいか分からないみたいな目だった。
「……だいじょうぶ」
カエデはしゃがみ込む。
すぐに触らず、まずはその目を見る。
「助けにきたの」
声はできるだけやわらかくした。
「もう、ひとりじゃないから」
ゼニガメはまだ震えている。
それでも、飛び退こうとする力も残っていないらしかった。
背後で、コラッタの一匹がまたじりっと動く。
「ニド、つつく!」
ニドが素早く飛び込んで、コラッタの前足の近くを鋭く突いた。
驚いたコラッタが飛び退く。
その隙にガーディが一歩前へ出て、低く唸った。
二匹のコラッタは互いに顔を見合わせるように動いたあと、やがて草むらの奥へ走り去っていった。
静けさが戻る。
カエデはようやく息を吐く。
でも、安心するにはまだ早かった。
「……ガーディ、ニド、ありがと」
二匹がすぐそばまで戻ってくる。
ガーディはゼニガメを見て耳を立て、ニドは少しだけ警戒しながらも、もう敵を見る顔ではなかった。
カエデは改めてゼニガメを見た。
腕の擦り傷だけじゃない。
甲羅の端にも小さな傷があるし、足元もふらついている。
何日もちゃんと食べていないのかもしれない。
首元の古びた赤い首輪の跡が、余計に胸を痛くした。
「……ポケモンセンター、行こ」
小さく言う。
「歩ける?」
ゼニガメは答えない。
でも、立ち上がろうとしてすぐに膝が揺れた。
「……だめだよね」
カエデは少し迷ったあと、そっと両腕を差し出した。
「持つよ」
ゼニガメの目がわずかに揺れる。
「嫌なら、ちゃんとやめるから」
しばらく沈黙があった。
ゼニガメはじっとカエデを見て、それからほんの少しだけ力を抜いた。
それを合図みたいに、カエデはできるだけやさしく抱き上げる。
「……軽い」
思わず漏れた声が、少しかすれた。
軽すぎるくらいだった。
ゼニガメは最初こそ体を固くしたけれど、暴れはしなかった。
ただ、ぎゅっと目を閉じている。
「だいじょうぶ」
カエデは抱いたまま、そっと言う。
「すぐ行くから」
ガーディとニドが左右につく。
三人と一匹で、河川敷から町へ向かって歩き出した。
ハナダシティまでの道が、さっきまでよりずっと長く感じる。
腕の中の体温は思ったより低くて、それが怖かった。
もっと早く気づいていればとか、どうしてこんなことをするとか、いろんなことが頭をよぎる。
でも今は、まず間に合わせなきゃいけない。
橋を渡る時、水の光が目に入る。
ハナダの明るい景色はさっきまで綺麗だったのに、今はただ急がなきゃという気持ちしかなかった。
ポケモンセンターへ飛び込むと、受付のジョーイがすぐに顔を上げた。
「カエデさん?」
それから抱えているゼニガメを見るなり、表情が変わる。
「すぐ診ます。こちらへ!」
「お願いします……っ」
カエデが腕の中のゼニガメを差し出すと、ジョーイは慣れた手つきで受け取った。
看護用の台へ寝かせ、すぐに助手へ指示を飛ばす。
傷の確認。栄養状態。衰弱の具合。
次々に言葉が飛んで、その間にもゼニガメの体はやさしく診られていく。
ガーディとニドはカエデの足元でじっとしていた。
二匹とも心配そうに、台の方を見つめている。
しばらくして、ジョーイが振り返った。
「命に関わるような大きな怪我はありません」
その一言に、カエデはようやく息をついた。
「でも、かなり弱っています。ちゃんと食べていなかったみたいですね」
「……やっぱり」
喉が少し痛かった。
予想していたことなのに、言葉にされると重い。
ジョーイはゼニガメの首元をそっと見た。
擦り切れた赤い首輪の跡と、金具の残った布切れを指先で確かめる。
その目が、少しだけ曇る。
「この子……」
小さく呟いてから、カエデを見る。
「たぶん、トレーナーに捨てられています」
その言葉は、思っていたよりずっとまっすぐ胸に刺さった。
「……やっぱり」
口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと縮む。
ジョーイはやさしい声のまま続けた。
「首輪の跡も新しいですし、体の状態を見ると、野生で長く暮らしていた子ではありません」
ゼニガメの甲羅へそっと手を置く。
「たぶん、最近まで誰かに飼われていたんです」
「……どうして」
その一言は、ほとんど勝手に出たものだった。
ジョーイに聞いても仕方ないのに、どうしても口をついてしまった。
どうして捨てるの。
どうしてこんなふうに置いていけるの。
どうして、この子がひとりであんなところにいなきゃいけないの。
ジョーイはすぐには答えなかった。
少しだけ目を伏せてから、静かに言う。
「人の都合です」
それは淡々としていたけれど、余計に苦しかった。
「バトルに勝てないとか、言うことを聞かないとか……理由はいろいろです。でも、捨てられた側には関係ないことです」
カエデは唇を結ぶ。
腕の中に残っていた軽さが、まだ消えない。
ガーディがそっとカエデの手に鼻先を押しつけた。
ニドも、足元から静かに寄ってくる。
そのぬくもりに触れて、ようやく自分が強く握りしめていた指先に気づく。
「……ごめん」
誰に向けた謝罪か、自分でも分からなかった。
助けるのが遅かったことかもしれない。
こんな目に遭ったゼニガメへかもしれない。
あるいは、何もできなかった過去の自分へ向けてかもしれなかった。
ジョーイはやさしく言った。
「カエデさん、この子をここまで運んでくれたのは、あなたですよ」
その声に、少しだけ顔を上げる。
「助けられたんです。だからまずは、それで十分です」
十分。
その言葉に、少しだけ胸が熱くなった。
ジョーイはゼニガメに軽い処置をしながら、続ける。
「しばらく休ませれば落ち着くと思います。でも……」
「でも?」
「人に捨てられた子は、体より先に心が傷ついていることがあります」
カエデはゼニガメを見る。
さっきから目は閉じているけれど、体はどこか強張ったままだ。
「すぐに元気になるとは限りません」
それは、少しだけ分かる気がした。
体が温かくても、傷が塞がっていても、すぐに平気にはなれないことがある。
カエデは少し黙ってから、小さく言った。
「……そばに、いてもいい?」
ジョーイはすぐに頷いた。
「もちろんです」
診察台の脇へ椅子が用意される。
カエデはそこへ座って、ゼニガメを見つめた。
ガーディは椅子のそばで伏せて、ニドはその横に座る。
二匹とも騒がない。
ただ、じっとしている。
ゼニガメの呼吸は少しずつ落ち着いていった。
でも、目を覚ます気配はまだない。
カエデはしばらく何も言えなかった。
何を言えばいいか、分からなかったからだ。
大丈夫だよ、なんて簡単に言えない。
何も怖くないよ、なんて嘘になる。
それでも、黙っているだけも違う気がした。
「……ここ、あったかいよ」
ようやく出た言葉は、それだった。
かすかに震えていたけれど、ちゃんと届くように、少しだけ前へ身を乗り出す。
「ごはんも、あるし」
そっと続ける。
「もう、追いかけられないから」
ゼニガメは眠ったままだ。
でも、聞こえていないとは思わなかった。
「……すぐじゃなくていいよ」
カエデは膝の上で指先を握る。
「ちゃんと起きなくても、いいし」
喉の奥が少し詰まる。
「怖いなら、怖いままでいいから」
ガーディが小さく喉を鳴らす。
ニドも、静かに足元を寄せる。
カエデはゼニガメの甲羅の端へ、そっと指先を置いた。
嫌がられたらすぐ離せるくらいの、ほんの軽い触れ方で。
「……だから、安心して」
その言葉は、自分でも驚くほどやわらかかった。
「元気になるまで、一緒にいるから」
しばらくして、ゼニガメの閉じていた目が、ほんの少しだけ開いた。
まだぼんやりしている。
でも、その視線はまっすぐカエデへ向いた。
逃げようとはしなかった。
カエデは動かない。
ただ、目を逸らさずに見返す。
「……おかえり」
気づけば、そう言っていた。
ゼニガメの目がわずかに揺れる。
それから、またゆっくり閉じた。
今度はさっきより少しだけ、力が抜けたみたいに見えた。
ジョーイが少し離れたところで、その様子を見ていた。
目が合うと、小さく頷いてくれる。
カエデはゼニガメのそばから離れなかった。
昼が過ぎても、夕方が近づいても、ときどき声をかけて、水を飲めるようになったら少しだけ支えて、ジョーイの手伝いをして。
看病なんてちゃんとしたことはしたことがなかったけれど、それでも、ここにいたいと思った。
ガーディは静かに寄り添い、ニドも珍しく長いあいだ落ち着いてその場にいた。
ゼニガメはまだ弱々しかった。
けれど、もう草むらの中でひとりぼっちじゃない。
夕方、窓の外の水路がオレンジ色に染まる頃、カエデは椅子に座ったまま、もう一度そっと甲羅へ触れた。
「……だいじょうぶ」
今度は、その言葉が少しだけ本当になった気がした。